きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

日記:ふたなりジャッカル

6/19 晴れ 

 本格的に、心理学や英語の勉強を開始した。自発的に勉強するというのは、やはり良い。充足感と疲労感がいい感じに退屈な日常にテイストを添えてくれる。しかしながら、人と違う勉強を継続するというのはそれなりに辛い。

 「耳をすませば」の雫のお父さんの言葉に「人と違う生き方は、それなりにしんどいぞ。何が起きても誰のせいにもできないからね」というのがある。

 全くその通りである。止めるつもりは、端から無いが。

 

 学術誌ばかり読んでいては、変な方向に尖りすぎて不味いことになると思い、自己啓発本に手を出した。「GRIT」という、それなりに売れている本を読んだ。

 成功者は、生まれ持っての才能というよりは、やり抜く力を兼ね備えているということを様々な事例から説明した本だった。

 「一年間以上、本気で何かに取り組めば成功者になれる」と書いてあったが、読書に本気を出してきた自分が成功も何もしていないので、タメにならなかった。

 自己啓発本なんてそんなもんである。迷っている人が背中を押されるために、自己啓発はあるのであって、一人でどこかに突っ走ってしまうような奴に啓発は必要ない。そろそろ、何らかの論文コンテストで入賞して報われたいものだ。

 

 必要のない知識が増えてきた。

 地球が約60億年経てば太陽に飲み込まれることや、時間は未来から過去に流れるものだ、といった知識はまだ良い。自分の世界観を変えるかもしれないし、超低確率で、その解決に関わるかもしれないからだ。本当に、その確率は低いが。

 だが、ジャッカルはメスに偽物のチンコが付いていることや、人には乳首が実は4つあることは、いつ使えばいいのだろうか? 

 俺はジャッカルのメスがふたなりだという事実だけで、ご飯が3杯食べられるようなケモナー兼変態でもないし、人の第3、第4の乳首をいじくりまわす趣味も持ちわせていない。これまでも、おそらくこれからも全く使わない知識だろう。

 これらの無駄知識が私の脳みそを着実に侵食しつつある。しかも、この無駄知識は有効活用が死ぬほど難しい。人の乳首の話を語学のクラスで披露したら、残酷なほど微妙な空気になってしまった。生き恥。

 さらに、無駄知識は覚えているのに、人の顔は覚えられない。そんな馬鹿馬鹿しい事態に見舞われている。人に興味がないのか、無駄知識に興味があるのか。悲しいことに、そのどちらも私は当てはまっている。

 新しい人に出会うよりも、一つの使い所のない知識を優先する。そんな人間にいつしかなってしまっていた。真っ当に生きたい。

 

 この期に及んで、教養を身につけることの意味を考えた。

 リベラルアーツを読者に勧める本では、「教養を身につけることが、この先の厳しく、予測不可能な時代を生きていくことに役立つ」と申し合わせたように述べられている。

 私はまっっったく、そう思わない。生きることはいうほど厳しくないし、教養を得て『全ての事象は予測不可能だ』ということを知り得たからだ。

 教養は物事を予測するために身につけるのではない。あらゆる物事が予測不可能だと知るために、教養を活用するのだと考えるようになった。

 考えてみれば、太陽が地球を飲み込むかどうかなど、まだまだわからない。人類が生きてきた時間はあまりにも短すぎて、まるでデータが足りないのだ。予測は仮説である。時間が未来から過去へと流れるのはメタファーであって、実際は時間なんて、ただの物質変化の指標にしかならないのかもしれない。しかし、これも断言はできない。

 既存の知識に、別分野の知識や、磨き上げた鑑識眼を持って挑みをかける。それこそ教養を身につけることの醍醐味だと思う。別分野の知識を統合し、この世の不確実性を実感できれば、そこには誰も知り得ない未知の世界が広がっている。

 深海や宇宙、人の頭の中に潜む神秘に、未だ人類はたどり着けていない。飛行機が飛ぶ原理も不明なままだし、天気予報が外れることも多々ある。

 ここに、教養を得ることの楽しさ、さらに言えば、この世界に生きている楽しさもあるのだと思う。

 

 まだ見ぬ世界を探求するということは、まさに生物の歴史そのものである。

 海で生まれた生物は陸へ、空へ。そして遂に星を抜け出そうとしている。生活空間だけでもなく、生活のいたるところに、フロンティアは存在する。

 つい最近まで、人はテントウムシが羽を広げる仕組みさえ知り得なかった。この発見は、人工衛星のパネルへと応用されようとしている。

 一見、無駄知識に見えても、実は使える知識というのは、結構あるのかもしれない。そういったものを含めて楽しむのが教養なのだと思う。

 まずは、ジャッカルのメスの偽ちんぽを楽しむため、ケモナーになろう。

日記:残像

6/10 晴れ 

 梅雨入りしたが、二日続けて晴れている。相変わらず暑い。

6月も、あっという間に三分の一が終わってしまった。夏は長いようで短い。為すべきことは為せているだろうか。

まさに「曾子曰く、吾日に我が身を三省す。人の為に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝えしか」である。風呂場で自問自答する日々。

 

 ある少女の話をしようと思う。彼女は私の人生のある一時期で、とても大切な友人だった。今でも、夏が来るたびに彼女のことを思い出す。

 

 彼女に初めて会ったのは四年前、私が高校一年生の頃の初夏だった。

 ある日の登校途中、朝の電車で中学校の頃の友人に会った。友人は、府内の偏差値の高いO高校に通っていた。そんな彼の隣に、彼女がいたのだ。

 ミディアムヘアの艶のある黒髪に、陳腐な表現だが、陶磁器のような白い肌。初めて見たときから、紛うことない美人だと思った。どうやら、彼女は友人とO高校で知り合ったらしい。

 当時、男子校に染まりつつあり、女子へのコミュニケーション・スキルが減退していた私にとっては、初対面の時、彼女をとても手強い相手だと感じたものだ。

 結局、そんな当初の不安は杞憂に終わった。彼女のコミュニケーション・スキルが優れていたおかげか、それとも友人のそれも優秀だったおかげか、私はすぐに彼女と仲良くなった。

 その日から、携帯をいじるか、他愛のない話を友人とするしかなかった私の登校は、とても華やかなものになった。今振り返れば、あの朝の時間のおかげで、男に囲まれ腐りきることもなく、それなりに楽しい時間が過ごせていたんだと思う。

 

 誰もがそうであるように、高校生の時間というのは直ぐに過ぎ去ってしまう。息つく暇もなく、私たちは高校二年生になった。

 そのうち、文理選択の時期がやってきた。彼女や友人は、さも当然かのように、理系を選択した。二人とも、進学校に通っているからか、とても頭が良かったのだ。

 かくいう私は、学期末テストで学年最下位の成績をマークしたところだった。良いのは国語の成績だけで、数学はおろか、化学や物理といった主要な理系教科は、思わず目を覆うほどのひどい成績だった。

 「いい加減勉強すればいいのに」と、二人やその他諸々の友人にも言われたが、とにかく勉強するやる気が起きなかった。

 「君たちは勉強をすることに何の苦痛も抱かないんだろうが、俺はとにかく辛いんだ! そうじゃねえと受験に落ちて私立になんか来ねえよ!」とつくづく思ったものだ。今でもそう思っている。

 結局、私立専願に身を落とすことを良しとしなかった私は、理系を選択した。二人の影響なのか、つまらぬプライドの所以か、もしくはその両方のせいだろう。後々、指定校推薦に全敗した私は受験期に突然文転するのだが、それはまた別のお話。

 落第を避けるため、勉学による激痛に身を悶えながら、その頃から二人曰く「最低限」の勉強を始めた。朝、彼女や友人に会えば、彼らは親切に確率やモル濃度の計算について教えてくれた。教えることが最高の勉強法だと、二人は熟知していたのだ。

 彼女は京都大学の理学部志望、友人は医学部志望だった。目指している場所がまるで違った。それでも、二人にいつかは追いつきたいと、ぼんやりと私は考えていた。

 

 別れはいつも突然に訪れる。友人に、彼女が亡くなったということを伝えられた。交通事故らしい。彼女と出会ってから、ちょうど一年経った頃だった。

 明るかった友人は、しばらく口数がめっきり減ってしまった。

 私はその事実を受け入られられなかったのか、悲しくはならなかった。あまりにも突然のことだったので、彼女がいなくなってしまったという実感が湧かなかったのだ。呆けたように、登校する日々が続いた。

 学校では意識しなくても、平常のように過ごせた。悲しさを感じられない自分に腹が立ったりもした。それでも、涙は一滴もこぼれなかったし、悲しい気持ちになることもなかった。

 時間はあっという間に過ぎて、夏休みが始まった。私は出席できなかったが、その頃には彼女の葬式も、お別れ式も全てが終わった後だった。

 

 すぐに夏休み中の夏期講習が始まった。忙しさからか、彼女のことが頭から抜け落ちることも多くなっていた。

 そんなある日、友人に電車の中で会った。彼もその頃には、幾分元気を取り戻していた。

 彼との会話の最中、自然な形で、彼女のことに関する話になった。友人は私の知らない彼女の生前のエピソードを語ってくれた。

 料理が下手で、バレンタインのチョコレートは全て購入したものにしているということ。

 極度の方向音痴で、課外学習の時に一人迷子になったということ。

 運動神経が悪くて、サッカーのリフティングが3回しかできないということ。

 私にそれらのことを秘密にするように、友人に頼んでいたということ。

 彼女が、私に一定の好意を抱いていたということ。

 どのエピソードも、私にとっては意外なものだった。

 思わず、彼女の「今の場所」を訪ねる言葉が、口をついて出た。友人が教えてくれたのは、H市の大きな霊園だった。

 

 次の休日、私はそこへ赴いた。友人に教えられた場所を大きな看板で発見して、無事辿り着くことができたのを覚えている。

 自分の他に人がいない、静かな緑に囲まれた霊園だった。

 そのうち、彼女の名字が刻まれた、綺麗なお墓を見つけた。訪ねる人は多いのか、多くの花が手向けられていた。

 ふと、暮石の側面に、刻まれたばかりの彼女の名前を見つけた。

 私はしゃがみこんだ。不意に、人差し指がその名前を撫でた。

 その時、とめどない悲しみが私の胸を打った。悲しみは濁流のように押し寄せてきた。嗚咽が止まらなかった。

 ようやく、彼女がいなくなってしまったことを、私は理解したのだった。

 

 今でも、彼女のことを思い返すことがある。駅のホームで、木々の合間に、夏の透き通った空に、彼女の面影を垣間見る。

 友人とは、今でも時々会っている。医師資格の獲得に向け、日々精進しているようだ。

 かくいう私も、無事大学生になることができた。最近は、二人に追いつけるような算段もついてきた。これも二人のおかげなのかもしれない。

 彼女は、もう友人とも、私とも会うことができない。

 でも、もし、彼女と会うことができたのなら、「また会ったね」と気軽に声を掛け合うことのできる仲でありたいものだ。

 だから、「また会おうね」と、今は別れの声を掛けておこう。

 私が見ていたのは、あまりにも世界を早く駆け抜けた、彼女の残像だったのかもしれないのだから。

日記:読書のデメリット

5/23 晴れ 

 「NO.1に聞け」的なタイトルのテレビ番組で、芦田愛菜が読書家として登場していた。小学校のうちに1000冊読んだという。読書家が推すナンバーワンの本は何か、というインタビューに笑顔で答えていた。いや、俺に聞きに来いよ。小学生と張り合う大学生、タチが悪すぎる。

嘆いていても仕方がないので、芦田愛菜が推していた山中伸弥氏の自伝を図書館に借りに行った。すでに借りられていた。悔しさと、自分と同じような考えの人がいることへの安心感。なんだか救われた気持ちになった。

 

 自分がなぜ読書をしているのか分からなくなったので、読書のメリットをゆっくり考えてみた。

知識を得ることができる、語彙力が増える、話題が増える、以上。マジでメリットがあまり思いつかない。

Googleで検索してみても、アイデア力が身につく、人間力が身につくなど、曖昧で概念的なものしか見つからなかった。少なくとも、人間力が身につくというのは大嘘である。そもそもなんだよ、人間力って(哲学)。あらゆる物事に対する猜疑心が身についたのは確かである。

 

 ならば、逆に読書のデメリットを考えてみよう。

視力が悪くなる、虚無感に駆られる、周囲の物事が色彩を無くす、以上。

こちらもGoogleで検索してみたが、あまりロクなデメリットが検索結果に出てこなかった。そこまで、読書が崇高な行為だとはとても思えないのだが……。

実は、未だに自分が読書をしていて何かの役に立ったという実感があまりない。ブルーハーツの「情熱の薔薇」ではないが、自分が学んできたことが全てデタラメだったら面白いだろうなあ、というのが現在の自分の素直な感想である。そんな気持ち分かるでしょ?

 

 読書で得た知識が活かせていないのは、まさしく己の怠慢の所為である。知識を活かすため、ディベートサークルに入ろうかと悩んだ時期もあったが、人間関係が険悪そうなのでやめた。

そもそも、自分が理論武装をして物事について語って良い結果を生んだ試しがない。所詮は人を無為に傷付けることへの恐怖故のジレンマである。

人を傷付けるということは、大抵は無意識に行われ、行為者がそのことに気が付くのは事後だ。その事実が人を傷つけることの恐怖の源泉である。その時に、自らの理性が全く働かないことの哀しさ。

 

 読書とは孤独な行為である。読書中、自分と本以外にこの世界にある、あらゆる対象は消え失せる。

その上、その本にふれる他に、誰にも理解することができないような知識が蓄積される。化学物質がプランクトンや小魚、より大きな魚、水鳥を経由して猫に辿り着き、その猫が狂い出すのと同じ原理である。おつむがイタイイタイ病。知識とは毒にもなる。誰かにその矛先を向けることも容易い。

読書はメリットだらけなのではなく、そういう見方もできるということだ。ネガティブ思考な文章は読んでいてあまり気持ちの良いものではないが、ある側面では正しいことでもあると思う。うつ病患者が一般人に比べ現実をそのまま認知する能力に長けているように。「普通の人は日々、夢心地で生きているんだと思う」、そんなうつ病患者の言葉が脳裏に浮かんだ。まぁ、私は最近ハッピーだが。ハッピー!

 

 最近、自分の知識の吐き出し口として、小論文コンテストに応募をしている。どれも表彰された時の副賞の金額が高価だ。最高50万円の物もある。お小遣い稼ぎ程度に入賞したい。ようやく見つけた知識の排水溝なのだから。

己の凡才に溺れることがないように心がけたい。

自省とツイ禁

5/22 晴れ 

 面倒な事案を起こしすぎた。人生の汚点。おそらく、数日後には忘れているので、ここに自責を書き記しておく。それが重要なことだと思う。心境は最悪だ。

 

 まさしく、今回の事案は私の無作法な退屈しのぎが引き起こしたものである。すべての責任は私にある。

これ以上、言葉を続けても醜い文面しか出てこないので、簡潔に記す。

 

 私はあまりにも暇だった。某サークルを某氏に持ちかけられ、復活させてから、つらつらとツイートをしていたものの、どのツイートもいつしかサークルの主題とは違うものに成り果てていった。

それは、衰退した大学教育への失望と、刺激のため、自分の経験から来る怒りによるものだった。そして、壊滅である。

「迷惑」という言葉は嫌いなのであまり使いたくはないが、多くの人に迷惑をかけたことは確かだ。

特にある一人には非常に迷惑をかけた。謝りたいが、実際に会うとクソのような言葉しか出てこないだろうし、ラインでメッセージを送る度胸もない。自分に腹が立つ。

 

 色々と悪いものが溜まっているあるので、リフレッシュし、これ以上周りに害を与えないためにも、しばらくツイッターをしないことにした。

通信制限が近いし、色々な文化圏の人をフォロワーに集めすぎたし、険悪な人間同士のいざこざを眺めていることに疲れたからでもある。ツイッターを続けるメリットがなくなったと言ったほうが早いか。ともかく、無期限で休止する。

ブログは続ける。この媒体なら言葉不足で誤解を生むということも少なくなる。

と言いつつも、ブログでもある程度人に遠慮してしまっている自分がいる。書きたいことをあえて書かないと言ったことも多くなった。「言っても理解されないだろう」という考えの所為である。こんなことをしているから孤独感が積もっていくのだ。

けれども、集団に迎合するようなことはできない。理由は語らない。

 

 肥大化した自尊心の怪物になりかけている。中二病感たっぶりの語彙力。だが、それ以外に自らを表現する術を知らないのだ。

 

 元気がないので今日はここまで。メンタルがやられている。自分が傷つくのは嫌だが、人を傷つけることはもっと嫌なのだ。

赤の他人を「人」とみなすことのできない自分の偏狭さよ。

1年に3500冊読書する私が新入生に勧める厳選10冊

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 今回の記事では、私がこの1年で読んだ約3500冊の中から、新入生に是非とも薦めたい厳選に厳選を重ねた10冊を紹介する。

 

 選考基準は

  • 面白い
  • 基礎知識がなくても読める
  • 全ての学部生が活かせる知識が詰まっている
  • 世界を見る目が変わる教養が身につく
  • 出版が比較的新しい、少なくとも戦後

である。この五つに当てはまるものの中から、異なるカテゴリの名著を抜粋した。

また、こういった「大学生が読むべき本」的なサイトで紹介されがちなビジネス書・アドラー心理学などの本は一切排除した。理由としては簡単で、こういった類の本は科学的な根拠がなく、あくまでも個人の経験に基づいて書かれたものばかりだからである。

 

 以下の本は皆、毒にも薬にもなる。常識を散々打ちこわすもの、真理を暴き出すもの、ロマンを語るもの、希望を抱かせるもの。どれもが必ずこれからの人生に影響を与え、血となり肉となる力を秘めているものばかりだ。

少なくとも、この先50年は読まれ続けるであろうものばかりである。どの本も時間の淘汰に耐える「現在の古典」だ。

 

 さて、前置きはこれまでにして、早速本を紹介していこう。この記事が皆さんの読書ライフの参考になれば幸いである。

 

1冊目:理科系の作文技術

木下是雄著 中公新書

 

理科系の作文技術(リフロー版) (中公新書)

理科系の作文技術(リフロー版) (中公新書)

 

 

 文系・理系関係なく、この本は絶対に読むべき! これを読まずしてマトモなレポートは書けないと言ってもいいくらい、わかりやすく学術的な文章の書き方を伝授してくれている本。

筆者は元学習院大学学長で物理学者の木下是雄。学徒を志すなら必ず本棚に並べておきたい一冊。新書だから安いし。

本にまるで無駄がないので逆にコメントに困る。

 

2冊目:科学の方法

中谷宇吉郎著 岩波新書

 

科学の方法 (岩波新書 青版 313)

科学の方法 (岩波新書 青版 313)

 

 

今日われわれは、科学はその頂点に達したように思いがちである。しかしいつの時代でも、そういう感じはしたのである。その時に、自然の深さと、科学の限界とを知っていた人たちが、つぎつぎと、新しい発見をして科学に新分野を拓いてきたのである。科学は、自然と人間との協同作品であるならば、これは永久に変化しつづけ、かつ進化していくべきものであろう。』

 歴史学などの人文学や商学部などの社会科学も、いかに科学的かが求められる現在。そんな今だからこそ、科学の基礎、そして限界を知っておく必要がある。

何より、この本が昭和33年、西暦1958年に出版されたことが驚きだ。その先見の明に、ただただ驚嘆するばかりである。

著者は北海道大学教授で物理学者だった中谷宇吉郎

教養として、学問を志す全ての人が読むべき一冊。一言で表すなら、超科学入門。

 

3冊目:つきあい方の科学−−バクテリアから国際関係まで

ロバート・アクセルロッド著 ミネルヴァ書房

 

つきあい方の科学―バクテリアから国際関係まで (Minerva21世紀ライブラリー)

つきあい方の科学―バクテリアから国際関係まで (Minerva21世紀ライブラリー)

 

 

 出版年が有名な古典と比べ、比較的新しいのにもかかわらず、プラトンの「国家」、ホッブズの「リヴァイアサン」といった古典と並び、アイビーリーグ(ハーバード大など、アメリカの私立大学トップ10)でのテキスト採用数ベスト10に入った本。

著者は現在もミシガン大学の教授を務めており、一時期はアメリカ政治学会の会長も歴任していたロバート・アクセルロッド。

囚人のジレンマなどを例として、今流行りの「ゲーム理論」を解説してくれている。果たして、最も優秀なつきあい方の戦略とは? その答えがこの本には書かれている。

国家間からバクテリアまで、進化生物学の観点から「つきあい」を科学的に解き明かした一冊。

 

4冊目:宇宙論入門—誕生から未来へ—

佐藤勝彦著 岩波新書

 

宇宙論入門―誕生から未来へ (岩波新書)

宇宙論入門―誕生から未来へ (岩波新書)

 

 

 宇宙の始まりから終わりまで、壮大な宇宙の物語がこの一冊に描かれている。

宇宙はたくさんあるという「マルチバース仮説」や、「宇宙の赤ちゃん」を作り出すという人類最大の野望にまで触れられている。宇宙の限界に挑むことは、人間の想像力の限界に挑むことでもある。

筆者は東京大学教授である佐藤勝彦、宇宙創生研究のパイオニアだ。

自分を包み込んでいるものの最大単位である宇宙、これについて知りたいなら絶対に読んでおくべき一冊。

 

5冊目:利己的な遺伝子

リチャード・ドーキンス著 紀伊國屋書店

 

利己的な遺伝子 <増補新装版>

利己的な遺伝子 <増補新装版>

 

 

『この本はサイエンス・フィクションのように読んでもらいたい。イマジネーションに訴えるように書かれているからである。けれどこの本はサイエンス・フィクションではない。それは科学である。いささか陳腐かもしれないが、「小説よりも奇なり」ということばは、私が真実について感じていることをまさに正確に表現している。われわれは遺伝子という名の利己的な分子を保存するべく盲目的にプログラムされたロボット機械なのだ。この真実に私は今なお驚きつづけている。』

 「なぜ世の中から争いがなくならないのか」「なぜ男は浮気をするのか」など、身近な問いかけから、「個体は有限だが遺伝子は永遠である」という壮大な思索までが描かれている。主としては、生物の進化について分かりやすく書かれた本だ。

筆者はオックスフォード大学教授であるリチャード・ドーキンス、彼は「戦闘的無心論者」としても知られている。「ミーム」という言葉の生みの親も彼である。

一冊にしてこれまでの常識が崩れ去ること間違いなし、暴力的なまでの力を備えた一冊だ。

 

6冊目:銃・病原菌・鉄

ジャレド・ダイアモンド著 草思社

 

銃・病原菌・鉄 上巻

銃・病原菌・鉄 上巻

 

 

 00年代最高の本は、これに違いない。ピュリッツァー賞など、数々の著名な賞を受賞した本でもある。

「あなたがた白人は、沢山のものを発達させてニューギニアに持ち込んだが、私達ニューギニア人には自分のものといえるものがほとんどない。それは何故だろうか?」という、一人のニューギニア人の問いかけからこの本は始まる。筆者はこの問題に「白人はたまたま住んでいた環境に恵まれていたから」と答えた。

タイトルは白人がインカ・マヤを滅ぼした最大の武器、「銃・病原菌・鉄」からきている。

なぜインカ帝国はヨーロッパを侵略することができなかったのか? 稀代の博学者、ジャレド・ダイアモンドが、人類史の巨大な謎に迫る過程を描いた知的エンターテイメント。これを読まずして、読書家は名乗れない。

 

7冊目:サピエンス全史

ユヴァル・ノア・ハラリ著 河出書房

 

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

 

 

『想像上の秩序から逃れる方法はない。監獄の壁を打ち壊して自由に向かって脱出したとき、じつは私たちはより大きな監獄の、より広大な運動場に走り込んでいる。』

 「銃・病原菌・鉄」が、人が生み出したものではないものたちが、人類にどう影響を与えたかを描いた本なら、「サピエンス全史」は、人が生み出したものによって、人類がどう変わってきたかを記述した本だろう。

現在、世界を動かしている主な力は国家・お金・宗教だが、これらは全て人間の想像の産物、「虚構」である。人権・法律・企業・幸福、これらの虚構はいかにして生まれ、どのような影響を人類に与えたか。そして、人はこれから「何を望みたい」のか。

10年代最高の本はおそらくこの本だ。ヘブライ大学教授、新気鋭の歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリが送る、人類が知恵を得てから、未来までの物語。

 

8冊目:人間の本性について

エドワード・O・ウィルソン著 筑摩書房

 

人間の本性について (ちくま学芸文庫)

人間の本性について (ちくま学芸文庫)

 

 

 攻撃・性・社会・宗教、人間の生物的な側面に残酷なまでに焦点を合わせた一冊。この本もピュリッツァー賞を受賞した。

筆者はハーバード大学の教授であるエドワード・O・ウィルソン。「社会生物学」という、数理モデルで生物の社会を研究する学問を始めた第一人者でもある。

彼は、「社会生物学」を人間にも当てはめ、非難を浴び、水を若き研究者にかけられたこともあった。しかし、彼の研究の正当性は次第に認められつつある。まさに現代のガリレオである。

また、彼はこの本で社会学系と自然科学系の統合を訴えている。人間を「冷めた目」で見ることの重要性を訴える、人間の生物学とも呼べる一冊である。

 

 

9冊目:思考の技法—直観ポンプと77の思考術—

ダニエル・C・デネット著 青土社

 

思考の技法 -直観ポンプと77の思考術-

思考の技法 -直観ポンプと77の思考術-

 

 

 至ってマトモな論理から、初見では宮うることが難しい詭弁まで、様々な論述法・思考法を挙げながら、「そうであるとしか考えられない」本質を直接、そのまま汲みだす最強の思考ツール、「直感ポンプ」へと導く本。

後半には中国語の部屋、双子の地球、哲学的ゾンビなどの、まだ未解決の哲学的問題が山ほど載っており、筆者とともにその難問に挑戦することができる。

筆者はタフツ大学教授であるダニエル・C・デネット、意識と心の問題に挑み続けている当代随一の哲学者だ。

読めば気分は哲学者、そんな一冊である。

え? 哲学者の気分なんか味わいたくない? またまた、そんなこと言っちゃってぇ……

 

10冊目:暴力の人類史

スティーブン・ピンカー著 青土社

 

暴力の人類史 上

暴力の人類史 上

 

 

 世界各地ではテロが頻発し、イスラム国が暴れまわり、日本でも暴力事件が日夜起きる……。老人が「昔はもっと良かった」と嘆く姿を誰もが一度は見たことがあるはずだ。平和な時代と言われると、たいていの人は現代ではなくもっと昔、例えば縄文時代を思い浮かべるだろう。

そんな老人の嘆きと、私たちの幻想をブチ壊してくれるのがこの本だ。殺伐としたタイトルとは違い、いかに人類が文明化のおかげで平和になってきたのかを、これでもかというデータの量で示してくれている。「人間の本性について」が冷たい人間観を与えるのとは真逆の内容である。

筆者はハーバード大学教授の心理学者、スティーブン・ピンカーだ。彼はTIMEの「世界で最も影響力のある100人に選ばれたこともある、心理学界の大物研究者だ。

神経生理学など、多彩な手法を用いながら、人間の本性を分析していく様はまさに圧巻である。

この一冊を読んで、あなたも「合理的楽観主義者」に!

 

 10冊の紹介は以上である。いかがだっただろうか。読みたい本は見つかっただろうか。

なかなかに分厚く、手強い本もいくつかあるが、これらは総じて面白く、決してソシャゲをしているだけでは見ることのできない、面白い世界を私たちに見せてくれる。それがファンタジーなどではなく、現実の話なのだから尚更面白い。

これらの10冊を以って、圧倒的な教養を身につける旅のスタートとしてもらいたい。

 

 また、近々惜しくも先行落ちした本たちを一言解説とともに、ブログに載せるつもりである。

こちらも名著揃いなので、この10冊を読み終わった方や、読む本を探したい方には是非とも覗いてもらいたい。きっとお役に立てるはずである。

日記:ヤリサー見聞録

5/6 曇り時々雨 

 ゴムの日。卑猥な考えしか浮かんでこない。

レポートや資料研究・ドイツ語の課題に追われつつ、なんとかこのハードだった一週間を無事終えることができた。あとは、コンタクトを片目だけ落としてひどい目にあったり、かの彼女持ちイケメン氏が日記を書いていることを今更知ったりと、そのくらいだろうか。本当にそのくらいしか出来事がない。

たかが一週間程度、日記を書かなくてもそれほど困るということも起こらなかった。そもそも、私はスケジュール帳を使わないので、脳内で処理できる範囲でしか予定を立てない。バイトをしていた時もそうだった。

少なくとも、このスタイルは健全な大学生のものではないだろう。スケジュール帳を使うという、社会人になるための初歩的な練習ですら怠っている。社会不適合者極まれり。

 

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最近、ヤリサーに関するあれこれをよく耳にする。

例えば「めいめい」。このサークルでは、新歓の一次会の後に陰気な人々は帰宅を余儀なくされ、彼らの知らぬ存ぜぬところで淫猥な二次会が催されているらしいのだ。実際にそれで性行為まで漕ぎ着けたという報告まであるのだから、全く驚きである。ツイッターのアイコンによる、WWFへの風評被害が激烈なサークルでもある。

その他にも、某ダンスサークルや、某軽音サークル・某合唱サークル、さらに某スポーツサークルまで、そういう噂を私は耳にしてしまった。

エチルアルコールという、文化に許容された麻薬を使用して、半自動的に性行為にまでたどり着いてしまうというのは、やはり彼らが阿呆で寂しがり屋だからなのであろう。一人で寂しい奴らが大勢集まると、だ、だ、だっと堕落である。

 

 それにしても、なぜヤリサーはスポーツや音楽という、極めて文化的な事柄を目的にしているサークルを騙るのだろうか。

性行為とは、一般には文化として取り上げられることは少ないはずである。スポーツや音楽をテレビ放送することは社会的に許されるが、性行為はその限りではないだろう。そんなことが許されるのは、アパホテルの有料放送くらいである。

 

 私が思うに、ヤリサーが偽の目的として掲げる文化的な物事は、敷居が低いものなのだ。

テニスを例に挙げよう。テニスはラケットさえ購入すれば、いつでも始めることができ、運動神経がなくてもある程度は試合を行うことができる。

軽音楽も同じである。楽器さえ購入すれば、誰でも始めることができる。吹奏楽や高尚な弦楽器のように、音を鳴らすだけで練習がいるということもない。ピックをピンと弾けば音が鳴り、ドラムをパンと打てば、これもまた音が鳴る。まるで乳首を弾き、後背位でピストンをするが如しである。

さらに、テニスや軽音楽は先輩が後輩に対して指導するとき、体がかなり密着するのだ。テニスのサーブを指導する時は腕や腰に触れる。また、ギターの弾き方を指導する時は、後ろから包み込むような形で指導を行うことが多い。パーソナルスペースを否が応でも犯してくる先輩に、後輩は抗うことができるだろうか。いや、できない。そのまま夜に犯されること間違いなしである。

 

では、なぜこのような危険に思われるサークルが存続できるのだろうか。

そのヒントは、サークルの年に一度の人員補給、新入生にある。テニサーや軽音楽のサークルに入る新入生は、基本的に友達づくりをサークル活動よりも優先している。

彼らにとって、それほど拘束もなく、すでに人員が腐るほどおり、気軽に始めることのできるサークルというのは好都合である。結果、そのサークルに染まっていき、ドボン、である。こうしてヤリサーは維持され、成長するのであろう。

逆を言えば、サークルに入る新入生が少ないと、ヤリサーの存続は非常に厳しくなる。ぶっちゃけ、ヤリサーの取り柄は人員が多いことしかないからである。ヤリサーに恨みを持っている方には、ぜひこの弱点を突いてもらいたい。

 

 ここまで、ヤリサーについて記してきた。率直に言うと、まあ当たり前のことではあるが、ここまでヤリサーについて考えたのは初めてである。新入生の方々には、注意深いサークルを選んでもらいたい。

公認団体や、部活に入るのが個人的にはお勧めである。いくつかこれらの団体に顔を出したことがあるが、皆真面目で、気前よく接してくれた。新入生も暖かく迎えてもらえるはずである。

また、少なくとも3人以上から「真面目だ」という噂を聞いたサークルも、大体は安全である。ヤリサーは悪い噂が出回っていることが多い。因果応報である。

と言っても、もう五月である。犠牲になった新入生はいるのだろうか。日記に書くのが遅すぎた。彼らが心配である。

ヤリサーは最初からあるのではなく、サークルの空気が徐々に変わっていった後の成れの果て、末路である。集団の空気に取り込まれた時の人間は、ひどく意志薄弱で、脆い存在だ。このことを心に刻んで、華々しい大学生活のスタートを切ってもらいたい。

……何この真面目な締め方?

日記:断捨離だったりラジバンダリ

4/22 晴れ 

 日記を書くのをしばらくサボっていたが、その間に大学生活を変えうるであろう出来事が数多く起こった。放送部に勧誘されたり、中国語同好会にいつの間にか入っていたり、交友関係が一気に広がったり。

変化は少しずつ日常を蝕んでいくものであり、気が付かぬうちにかつての日常に成り代わっているものである。なんとなく、『スワンプマン』という思考実験を思い出した。気になる方は各自検索していただきたい。その先には眠れぬ夜が待っていることだろう。

 

 いらぬものばかりで、身の回りが埋まってきた感じがする。

いらぬものばかりに囲まれている状態が続くと、非常に息苦しくなってくる。うまく言葉に言い表せないが、これは『自分』の領域が侵食されていくような感覚に近い。普段の生活の中で、いらぬものまで気に掛けなくてはならなくなるので、だんだん何かをするのが煩雑になってくるし、それに、とても疲れやすくなる。

この現況を打開するにはアレしかない。断捨離である。

 

 まずは趣味である。

数ある私の趣味の中でも、一番無駄だと思われる音ゲーから切り捨てよう。音ゲーをするのは新曲が配信された時だけにしよう。

次に動画制作。月に二回程度の投稿にする。これで、汚い映像に触れなければならない時間はグッと減ったはずである。

読書は一日に十冊程度を維持しよう。読みすぎは体に悪い。それはこの一年が証明している。

これらとは逆に、親に借金をしてまで購入したカメラに関わる時間を増量するつもりである。撮影がうまくなると、ツイッターのネタをいちいち考えなくて済むようになるので、経済的である。

 

 次に生活全般の物事を断捨離する。

まずは……と考えたものの、何を改善すべきか思い付かなかった。正しい生活習慣を送ってきた証である。自分で自分を褒めてやる。よお~~~~~~~~しよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしとってもとってもとってもとってもとってもとってもきゃわィィイイねェェェェェェェェェ、ピーちゃん! よく出来たッ!

よく私が人様に指摘されがちな服装も、このままでいいだろう。服装など、一つの季節に三から四パターンあれば充分なのであって、それ以上は自己満足の領域である。

冬はコートを羽織っていたのでほぼワンパターンの服装だったが、何も悪いことは起きなかった。良いことも起きなかった。さらに、他人はそれほど自分の服装に注目していないし、私もそれほど人の服装に注目していない。したとしても、チェックシャツかどうかという点くらいである。チェックシャツは童貞。

こんなことを言っては様々な人にボコボコにされそうだが、「髪色で大学生活が変わる」というのは、全くの幻想だと思う。

髪色を茶色に変えて、自らの印象を明るくするというのはわからんでもない。しかし、金髪などの蛍光色に変えるのは完全な悪手である。

京都工芸繊維大学とリース大学の共同研究がこれを示している。

ci.nii.ac.jp

論文によると、黒髪が一番日本人にとって好感度の持てる髪色であり、次に茶髪、栗色が続いている。私も黒髪が好きだ。

一方、最も印象が悪いのは金髪であり、次に赤、緑、青という結果となっている。

私はモテたいので、黒髪であり続ける。いや、髪色以前に、このような日記を書いている時点で好感度はだだ下がりかもしれない。

 

 最後に、人間関係の断捨離を考えた。

交友関係が(私視点で)広がりすぎて、一人の時間と他者と関わっている時間のバランスが崩れている気がする。また、各人に注げる時間的リソースも明らかに減少している。各人と関わる時間が減少するというのはなんだか相手に対して不誠実な感じがする。

そもそもの話、友人の名前の記憶すら最近危うい。対人認知の限界を迎えている。これ以上交友関係を増やすのは少々マズイかもしれない。

だからと言って、今ある関係を削るのはさらにマズイので、現状維持。より各人との関係の良好化に努めたい。それが一番無理なく、他者に対して誠実であり続けうことができる方法だと悟った。人間関係のリセット癖が自分には無くて良かったとつくづく思う。

 

 ここまで、いろいろなものを断捨離してきた。

今日立てた目標が達成されるのなら困ることもないのだが、大抵は失敗するのがいつもの私だ。私にとって、目標は破棄されるためにある。

志は大きく、器量は小さく。最低である。