きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

日記:知恵の暴力

6/29 曇り 

 暑いわ、雨が降るわで訳がわからない天気が続く。日記に書くようなイベントも起こらずに、日常は吹き荒んでいく。

 あえて書くなら、FGOを始めたことくらいだろうか。何もない素晴らしき日々

 

 知識の暴力というものについて考える機会が最近多い。

 私は常々から、知識を大っぴらにひけらかすことは暴力に値すると肝に念じている。

 知識を一方的にまくしたてるという行為には、相互の理解がなく、必ず相手側に不快感を与える。それが正しい知識や、論理的な根拠に基づいていたとしてもだ。

 そういう輩に限って、相手の無知をバカにすることが多々ある。人は自分が無知だった頃を思い出すことが難しいので、それもしょうがないのかもしれないが、やはりそれを不快に思う人は多いだろう。私は不快にならないが。

 知識を持っているという優位性を元に、相手を言葉で殴りつけるのは、やはり暴力だろう。

 

 ドイツ語の授業で、それを実感する出来事が起こった。

 私のドイツ語の教師は自発的に、かつ相手との対話の機会をも許さないほどの、知恵の暴力を振るう人だ。授業中、ことあるごとに西洋に関する知識とリベラルなイデオロギーをもって、学生に早口でまくしたてる。そして、学生の無知を笑うのだ。

 これがもし、自発的でなかったり、対話を持ちかけたり、相手を馬鹿にしなかったり、その中の一つでもマシであったなら、学生からの印象はもう少し良かっただろう。知識の暴力を振るうことに快楽を覚えるようになってしまった人の末路だと、私は勝手に思っている。

 こういう人は教師に多い。小中高の教師にも、このような人がいたような気がする。全く、専門の知識を会得している人と、そうでない人との間には何の差もないというのに、知識は優越感の元となるから困りものだ。それが義務教育で養われた無知を笑う教育の賜物なのか、その人の元来の性格が原因なのかは分からない。

 

 彼らを反面教師に、私は知識の暴力を振るうことのないよう日頃から心がけている。

 もし、誰かに知識を教授しなければならなくなった場面においても、必ず相手の考えを聞いてから、自分の意見を言うようにしている。相互的な知識の伝達は、お互いのスキルアップに繋がる。

 それでも、相手から何の返答、反論がなかった時には、少々不安になる。知識を持つことによる、存在しないはずの優越性が顕現してきたようで、不気味な感じがするからだ。

 いっそ、私の言っていることが分からないのなら、相手に開き直って欲しい。無知は恥ずかしいことではない。私も心理学、人類学といった専門領域以外の物事に関しては全くの無知だ。この間も、漢字や英単語が読めなかったり、第一次大戦の年号が答えられなくて恥をかいた。

 こういった詰め込み式の知識を覚えるのが私は苦手なので、知らないことを尋ねられた時はすこぶるバカになるようにしている。恥を忍んで無知を突き通すより、相手に答えを教えてもらった方が手っ取り早い。無知は力になる。

 知らないということに対する恥は捨てた。それに混じって色々な恥も捨ててしまった。

 

 知識がないことは悪いことではない。真に悪いことは、思考することを止めることだ。

 答えが出ない時でも、すぐに考えるのを止めるのと、考え抜いても答えが出なくて考えを止めるのとでは、後々変わってくる。たとえ正解が見つからなくても、考えるということに価値がある。その時間はいつか自分の力になるだろう。

 まぁ、私立文系なんて受験システムが知識だけで十分なので、知識の詰め込みが優先的な価値を持ってしまうのだろうが。大学で学んだ知識は、10年後には無事ゴミになっているか、完全に忘れ去られていることだろう。

 私にとってドイツ語はゴミだ。ゴミは海馬にではなくゴミ箱へ。

日記:被れば尊し我が帽子

6/24 曇り 

 クッソ暇な休日。やることは多いが、全く進捗がない。しらみつぶしに課題をこなす毎日。なんだかいつもするべき課題が溜まっているような気がする。暇なのか忙しいのか、自分でも分からない。

 それでも、パワーを持て余している感じはするので、発散できる場を探そうと考えた。もはや読書では心が満たされない。無知だった頃の自分は5000兆光年ほど遠くに行ってしまった。

 

 帽子をかぶる機会が減った。あえて減らした、と言ったほうが正しいかもしれない。

 そもそも、なぜ私が帽子をかぶっていたかというと、単に実用的だからだ。朝、かぶるだけで寝癖をなかったことにできるし、虫の大群に帽子を盾にして突っ込むこともできるし、落石から身を守れる。日除けにもなるし、冬の冷たい風も防ぐことができる。これほど実用的な道具はなかなか無い。

 では、なぜ帽子を外そうと思ったのか。それは、夏は帽子が役立たずだからだ。黒入りの帽子なので、暑いし、虫も最近はそこまでいない。首も疲れてきた。これほど実用的でない服装はなかなか無い(自己矛盾)。

 

 帽子を外して初めて、これが自分の確固としたアイデンティティーになっていることを実感した。私が帽子をかぶっていたのは、ほんの一年の間でしかないのに。

 実は、私も入学後の数日間はワックスをつけて学校に通っていた。それをやめたのは、準備が面倒くさいし、ワックスをつける意味がないように思えたからだ。そして、代わりに帽子をかぶり始めた。

 当時は、まさか一年も帽子をかぶり続け、それが私のトレードマークになるとは思いもしなかった。結果的には、帽子をかぶっていてよかったと思う。同じく帽子をかぶる同志に出会えたし、皆がすぐに私に気づいてくれるようになったのは大きい。

 また、帽子をかぶった人が全員、私に見えるという話も聞いた。私イコール帽子と周囲に条件づけられたことは、密かに嬉しいことでもある。周囲が気づいてくれるというのは僥倖である。逆に言えば、誰にも気づかれないというのは辛いことだ。つくづく、個人の存在は周囲によって規定されているのだと思う。

 

 ともかく、帽子とはしばしの別れである。

 帽子を被らなくなっても、意外と皆が自分に気づいてくれたことが喜ばしかった。結局、私個人も帽子に劣らず、強烈な個性を放っていたらしい。友人曰く、オーラで私に気づくとのこと。そこまで変な気は放っていないはずだが。

 その、邪なオーラを抑えてくれていた帽子に感謝の念を込めて、今日の日記を終えたい。

 ぼうち、ぼうち、ぼうちんこ!!!!

日記:日記

6/23 曇り 

 小林麻央氏が亡くなったが、地球は相変わらず回っている。

 若くして死んだという事実は、いつまでも不幸として取り沙汰されるだろう。芸能人に対する墓暴きは無くならない。どうか、彼女の関係者たちの心が晴れますように。

 そして、私はビジネスプランコンテストに落選した。

 我ながらいいアイデアだと思ったのだが、不思議な力が働いて選ばれなかった。プログラミングを始めて復讐するまである。

 何より、不登校支援のバイトの先輩が二次審査に進んだということが気に食わない。

 なーにが「インターン with 大学」じゃ! 意識高い系顔面アンパンマン野郎め。おかげで、しばらく勉強を続けることができるモチベーションが湧いた。他人への嫉妬で生きていく。いっそ筒井康隆のように、審査員を抹殺する小説でも書いてやろうか。

 書きたいことは多いのだが、それを書くには時間も体力も不十分なので今日はここまで。

 迫る七夕、枯れる心。

日記:ふたなりジャッカル

6/19 晴れ 

 本格的に、心理学や英語の勉強を開始した。自発的に勉強するというのは、やはり良い。充足感と疲労感がいい感じに退屈な日常にテイストを添えてくれる。しかしながら、人と違う勉強を継続するというのはそれなりに辛い。

 「耳をすませば」の雫のお父さんの言葉に「人と違う生き方は、それなりにしんどいぞ。何が起きても誰のせいにもできないからね」というのがある。

 全くその通りである。止めるつもりは、端から無いが。

 

 学術誌ばかり読んでいては、変な方向に尖りすぎて不味いことになると思い、自己啓発本に手を出した。「GRIT」という、それなりに売れている本を読んだ。

 成功者は、生まれ持っての才能というよりは、やり抜く力を兼ね備えているということを様々な事例から説明した本だった。

 「一年間以上、本気で何かに取り組めば成功者になれる」と書いてあったが、読書に本気を出してきた自分が成功も何もしていないので、タメにならなかった。

 自己啓発本なんてそんなもんである。迷っている人が背中を押されるために、自己啓発はあるのであって、一人でどこかに突っ走ってしまうような奴に啓発は必要ない。そろそろ、何らかの論文コンテストで入賞して報われたいものだ。

 

 必要のない知識が増えてきた。

 地球が約60億年経てば太陽に飲み込まれることや、時間は未来から過去に流れるものだ、といった知識はまだ良い。自分の世界観を変えるかもしれないし、超低確率で、その解決に関わるかもしれないからだ。本当に、その確率は低いが。

 だが、ジャッカルはメスに偽物のチンコが付いていることや、人には乳首が実は4つあることは、いつ使えばいいのだろうか? 

 俺はジャッカルのメスがふたなりだという事実だけで、ご飯が3杯食べられるようなケモナー兼変態でもないし、人の第3、第4の乳首をいじくりまわす趣味も持ちわせていない。これまでも、おそらくこれからも全く使わない知識だろう。

 これらの無駄知識が私の脳みそを着実に侵食しつつある。しかも、この無駄知識は有効活用が死ぬほど難しい。人の乳首の話を語学のクラスで披露したら、残酷なほど微妙な空気になってしまった。生き恥。

 さらに、無駄知識は覚えているのに、人の顔は覚えられない。そんな馬鹿馬鹿しい事態に見舞われている。人に興味がないのか、無駄知識に興味があるのか。悲しいことに、そのどちらも私は当てはまっている。

 新しい人に出会うよりも、一つの使い所のない知識を優先する。そんな人間にいつしかなってしまっていた。真っ当に生きたい。

 

 この期に及んで、教養を身につけることの意味を考えた。

 リベラルアーツを読者に勧める本では、「教養を身につけることが、この先の厳しく、予測不可能な時代を生きていくことに役立つ」と申し合わせたように述べられている。

 私はまっっったく、そう思わない。生きることはいうほど厳しくないし、教養を得て『全ての事象は予測不可能だ』ということを知り得たからだ。

 教養は物事を予測するために身につけるのではない。あらゆる物事が予測不可能だと知るために、教養を活用するのだと考えるようになった。

 考えてみれば、太陽が地球を飲み込むかどうかなど、まだまだわからない。人類が生きてきた時間はあまりにも短すぎて、まるでデータが足りないのだ。予測は仮説である。時間が未来から過去へと流れるのはメタファーであって、実際は時間なんて、ただの物質変化の指標にしかならないのかもしれない。しかし、これも断言はできない。

 既存の知識に、別分野の知識や、磨き上げた鑑識眼を持って挑みをかける。それこそ教養を身につけることの醍醐味だと思う。別分野の知識を統合し、この世の不確実性を実感できれば、そこには誰も知り得ない未知の世界が広がっている。

 深海や宇宙、人の頭の中に潜む神秘に、未だ人類はたどり着けていない。飛行機が飛ぶ原理も不明なままだし、天気予報が外れることも多々ある。

 ここに、教養を得ることの楽しさ、さらに言えば、この世界に生きている楽しさもあるのだと思う。

 

 まだ見ぬ世界を探求するということは、まさに生物の歴史そのものである。

 海で生まれた生物は陸へ、空へ。そして遂に星を抜け出そうとしている。生活空間だけでもなく、生活のいたるところに、フロンティアは存在する。

 つい最近まで、人はテントウムシが羽を広げる仕組みさえ知り得なかった。この発見は、人工衛星のパネルへと応用されようとしている。

 一見、無駄知識に見えても、実は使える知識というのは、結構あるのかもしれない。そういったものを含めて楽しむのが教養なのだと思う。

 まずは、ジャッカルのメスの偽ちんぽを楽しむため、ケモナーになろう。

日記:残像

6/10 晴れ 

 梅雨入りしたが、二日続けて晴れている。相変わらず暑い。

6月も、あっという間に三分の一が終わってしまった。夏は長いようで短い。為すべきことは為せているだろうか。

まさに「曾子曰く、吾日に我が身を三省す。人の為に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝えしか」である。風呂場で自問自答する日々。

 

 ある少女の話をしようと思う。彼女は私の人生のある一時期で、とても大切な友人だった。今でも、夏が来るたびに彼女のことを思い出す。

 

 彼女に初めて会ったのは四年前、私が高校一年生の頃の初夏だった。

 ある日の登校途中、朝の電車で中学校の頃の友人に会った。友人は、府内の偏差値の高いO高校に通っていた。そんな彼の隣に、彼女がいたのだ。

 ミディアムヘアの艶のある黒髪に、陳腐な表現だが、陶磁器のような白い肌。初めて見たときから、紛うことない美人だと思った。どうやら、彼女は友人とO高校で知り合ったらしい。

 当時、男子校に染まりつつあり、女子へのコミュニケーション・スキルが減退していた私にとっては、初対面の時、彼女をとても手強い相手だと感じたものだ。

 結局、そんな当初の不安は杞憂に終わった。彼女のコミュニケーション・スキルが優れていたおかげか、それとも友人のそれも優秀だったおかげか、私はすぐに彼女と仲良くなった。

 その日から、携帯をいじるか、他愛のない話を友人とするしかなかった私の登校は、とても華やかなものになった。今振り返れば、あの朝の時間のおかげで、男に囲まれ腐りきることもなく、それなりに楽しい時間が過ごせていたんだと思う。

 

 誰もがそうであるように、高校生の時間というのは直ぐに過ぎ去ってしまう。息つく暇もなく、私たちは高校二年生になった。

 そのうち、文理選択の時期がやってきた。彼女や友人は、さも当然かのように、理系を選択した。二人とも、進学校に通っているからか、とても頭が良かったのだ。

 かくいう私は、学期末テストで学年最下位の成績をマークしたところだった。良いのは国語の成績だけで、数学はおろか、化学や物理といった主要な理系教科は、思わず目を覆うほどのひどい成績だった。

 「いい加減勉強すればいいのに」と、二人やその他諸々の友人にも言われたが、とにかく勉強するやる気が起きなかった。

 「君たちは勉強をすることに何の苦痛も抱かないんだろうが、俺はとにかく辛いんだ! そうじゃねえと受験に落ちて私立になんか来ねえよ!」とつくづく思ったものだ。今でもそう思っている。

 結局、私立専願に身を落とすことを良しとしなかった私は、理系を選択した。二人の影響なのか、つまらぬプライドの所以か、もしくはその両方のせいだろう。後々、指定校推薦に全敗した私は受験期に突然文転するのだが、それはまた別のお話。

 落第を避けるため、勉学による激痛に身を悶えながら、その頃から二人曰く「最低限」の勉強を始めた。朝、彼女や友人に会えば、彼らは親切に確率やモル濃度の計算について教えてくれた。教えることが最高の勉強法だと、二人は熟知していたのだ。

 彼女は京都大学の理学部志望、友人は医学部志望だった。目指している場所がまるで違った。それでも、二人にいつかは追いつきたいと、ぼんやりと私は考えていた。

 

 別れはいつも突然に訪れる。友人に、彼女が亡くなったということを伝えられた。交通事故らしい。彼女と出会ってから、ちょうど一年経った頃だった。

 明るかった友人は、しばらく口数がめっきり減ってしまった。

 私はその事実を受け入られられなかったのか、悲しくはならなかった。あまりにも突然のことだったので、彼女がいなくなってしまったという実感が湧かなかったのだ。呆けたように、登校する日々が続いた。

 学校では意識しなくても、平常のように過ごせた。悲しさを感じられない自分に腹が立ったりもした。それでも、涙は一滴もこぼれなかったし、悲しい気持ちになることもなかった。

 時間はあっという間に過ぎて、夏休みが始まった。私は出席できなかったが、その頃には彼女の葬式も、お別れ式も全てが終わった後だった。

 

 すぐに夏休み中の夏期講習が始まった。忙しさからか、彼女のことが頭から抜け落ちることも多くなっていた。

 そんなある日、友人に電車の中で会った。彼もその頃には、幾分元気を取り戻していた。

 彼との会話の最中、自然な形で、彼女のことに関する話になった。友人は私の知らない彼女の生前のエピソードを語ってくれた。

 料理が下手で、バレンタインのチョコレートは全て購入したものにしているということ。

 極度の方向音痴で、課外学習の時に一人迷子になったということ。

 運動神経が悪くて、サッカーのリフティングが3回しかできないということ。

 私にそれらのことを秘密にするように、友人に頼んでいたということ。

 彼女が、私に一定の好意を抱いていたということ。

 どのエピソードも、私にとっては意外なものだった。

 思わず、彼女の「今の場所」を訪ねる言葉が、口をついて出た。友人が教えてくれたのは、H市の大きな霊園だった。

 

 次の休日、私はそこへ赴いた。友人に教えられた場所を大きな看板で発見して、無事辿り着くことができたのを覚えている。

 自分の他に人がいない、静かな緑に囲まれた霊園だった。

 そのうち、彼女の名字が刻まれた、綺麗なお墓を見つけた。訪ねる人は多いのか、多くの花が手向けられていた。

 ふと、暮石の側面に、刻まれたばかりの彼女の名前を見つけた。

 私はしゃがみこんだ。不意に、人差し指がその名前を撫でた。

 その時、とめどない悲しみが私の胸を打った。悲しみは濁流のように押し寄せてきた。嗚咽が止まらなかった。

 ようやく、彼女がいなくなってしまったことを、私は理解したのだった。

 

 今でも、彼女のことを思い返すことがある。駅のホームで、木々の合間に、夏の透き通った空に、彼女の面影を垣間見る。

 友人とは、今でも時々会っている。医師資格の獲得に向け、日々精進しているようだ。

 かくいう私も、無事大学生になることができた。最近は、二人に追いつけるような算段もついてきた。これも二人のおかげなのかもしれない。

 彼女は、もう友人とも、私とも会うことができない。

 でも、もし、彼女と会うことができたのなら、「また会ったね」と気軽に声を掛け合うことのできる仲でありたいものだ。

 だから、「また会おうね」と、今は別れの声を掛けておこう。

 私が見ていたのは、あまりにも世界を早く駆け抜けた、彼女の残像だったのかもしれないのだから。

日記:読書のデメリット

5/23 晴れ 

 「NO.1に聞け」的なタイトルのテレビ番組で、芦田愛菜が読書家として登場していた。小学校のうちに1000冊読んだという。読書家が推すナンバーワンの本は何か、というインタビューに笑顔で答えていた。いや、俺に聞きに来いよ。小学生と張り合う大学生、タチが悪すぎる。

嘆いていても仕方がないので、芦田愛菜が推していた山中伸弥氏の自伝を図書館に借りに行った。すでに借りられていた。悔しさと、自分と同じような考えの人がいることへの安心感。なんだか救われた気持ちになった。

 

 自分がなぜ読書をしているのか分からなくなったので、読書のメリットをゆっくり考えてみた。

知識を得ることができる、語彙力が増える、話題が増える、以上。マジでメリットがあまり思いつかない。

Googleで検索してみても、アイデア力が身につく、人間力が身につくなど、曖昧で概念的なものしか見つからなかった。少なくとも、人間力が身につくというのは大嘘である。そもそもなんだよ、人間力って(哲学)。あらゆる物事に対する猜疑心が身についたのは確かである。

 

 ならば、逆に読書のデメリットを考えてみよう。

視力が悪くなる、虚無感に駆られる、周囲の物事が色彩を無くす、以上。

こちらもGoogleで検索してみたが、あまりロクなデメリットが検索結果に出てこなかった。そこまで、読書が崇高な行為だとはとても思えないのだが……。

実は、未だに自分が読書をしていて何かの役に立ったという実感があまりない。ブルーハーツの「情熱の薔薇」ではないが、自分が学んできたことが全てデタラメだったら面白いだろうなあ、というのが現在の自分の素直な感想である。そんな気持ち分かるでしょ?

 

 読書で得た知識が活かせていないのは、まさしく己の怠慢の所為である。知識を活かすため、ディベートサークルに入ろうかと悩んだ時期もあったが、人間関係が険悪そうなのでやめた。

そもそも、自分が理論武装をして物事について語って良い結果を生んだ試しがない。所詮は人を無為に傷付けることへの恐怖故のジレンマである。

人を傷付けるということは、大抵は無意識に行われ、行為者がそのことに気が付くのは事後だ。その事実が人を傷つけることの恐怖の源泉である。その時に、自らの理性が全く働かないことの哀しさ。

 

 読書とは孤独な行為である。読書中、自分と本以外にこの世界にある、あらゆる対象は消え失せる。

その上、その本にふれる他に、誰にも理解することができないような知識が蓄積される。化学物質がプランクトンや小魚、より大きな魚、水鳥を経由して猫に辿り着き、その猫が狂い出すのと同じ原理である。おつむがイタイイタイ病。知識とは毒にもなる。誰かにその矛先を向けることも容易い。

読書はメリットだらけなのではなく、そういう見方もできるということだ。ネガティブ思考な文章は読んでいてあまり気持ちの良いものではないが、ある側面では正しいことでもあると思う。うつ病患者が一般人に比べ現実をそのまま認知する能力に長けているように。「普通の人は日々、夢心地で生きているんだと思う」、そんなうつ病患者の言葉が脳裏に浮かんだ。まぁ、私は最近ハッピーだが。ハッピー!

 

 最近、自分の知識の吐き出し口として、小論文コンテストに応募をしている。どれも表彰された時の副賞の金額が高価だ。最高50万円の物もある。お小遣い稼ぎ程度に入賞したい。ようやく見つけた知識の排水溝なのだから。

己の凡才に溺れることがないように心がけたい。

自省とツイ禁

5/22 晴れ 

 面倒な事案を起こしすぎた。人生の汚点。おそらく、数日後には忘れているので、ここに自責を書き記しておく。それが重要なことだと思う。心境は最悪だ。

 

 まさしく、今回の事案は私の無作法な退屈しのぎが引き起こしたものである。すべての責任は私にある。

これ以上、言葉を続けても醜い文面しか出てこないので、簡潔に記す。

 

 私はあまりにも暇だった。某サークルを某氏に持ちかけられ、復活させてから、つらつらとツイートをしていたものの、どのツイートもいつしかサークルの主題とは違うものに成り果てていった。

それは、衰退した大学教育への失望と、刺激のため、自分の経験から来る怒りによるものだった。そして、壊滅である。

「迷惑」という言葉は嫌いなのであまり使いたくはないが、多くの人に迷惑をかけたことは確かだ。

特にある一人には非常に迷惑をかけた。謝りたいが、実際に会うとクソのような言葉しか出てこないだろうし、ラインでメッセージを送る度胸もない。自分に腹が立つ。

 

 色々と悪いものが溜まっているあるので、リフレッシュし、これ以上周りに害を与えないためにも、しばらくツイッターをしないことにした。

通信制限が近いし、色々な文化圏の人をフォロワーに集めすぎたし、険悪な人間同士のいざこざを眺めていることに疲れたからでもある。ツイッターを続けるメリットがなくなったと言ったほうが早いか。ともかく、無期限で休止する。

ブログは続ける。この媒体なら言葉不足で誤解を生むということも少なくなる。

と言いつつも、ブログでもある程度人に遠慮してしまっている自分がいる。書きたいことをあえて書かないと言ったことも多くなった。「言っても理解されないだろう」という考えの所為である。こんなことをしているから孤独感が積もっていくのだ。

けれども、集団に迎合するようなことはできない。理由は語らない。

 

 肥大化した自尊心の怪物になりかけている。中二病感たっぶりの語彙力。だが、それ以外に自らを表現する術を知らないのだ。

 

 元気がないので今日はここまで。メンタルがやられている。自分が傷つくのは嫌だが、人を傷つけることはもっと嫌なのだ。

赤の他人を「人」とみなすことのできない自分の偏狭さよ。