きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

ぼくのなつやすみー暇潰し編ー:エイリアン的キャンパスライフ

9/3 曇り

 

 気づけば、編入試験まで二ヶ月ほどになった。なので、最近は英文読解をしたり、心理学の基礎を固めたりしている。勉強ばかりの日々である。

 これほどのやる気を高校生の時に発揮できたなら、東大にでも合格することも不可能ではなかっただろう。あいにく、私は自分の興味のあることにしか能力を発揮できない人間なので、それは叶わなかった。

 心理学を勉強するのは面白い。好きなものに出会え、それを生涯の職にできるかもしれない環境に感謝する。それを実現することのできる自分自身の圧倒的な才能にも感謝である。

 自分に対する自信の方が周囲への感謝を大きく上回っているので、周囲への感謝をすぐに忘れてしまう。酷い悪癖だ。

 

 九月に入ってから、サークルの合宿や留学に出発した人を多くタイムラインで見かける。彼らは皆楽しそうだ。こういう写真などを眺めていると、自分の大学生活とは何だったのかという気分になる。

 私はサークル活動に没頭することもなく、留学に出かけて西洋諸国の雰囲気を肌で感じ取ることもしなかった。

 もちろん、サークルに没頭しなかったのには、広すぎる人間関係や集団行動が苦手だからという理由がある。

 留学に赴かなかったのにも、多大なお金がかかるということと、私にまだ外国で何かを得ることのできる感受性やスキルが備わっていないという理由がある。博士課程に進学する頃に、カナダかイギリスに留学したいという淡い思いも私の中にはある。

 ただし、それらの理由が私にとっては正しいものであっても、社会にとってはどうなのかという疑問が心中にわだかまっているのだ。

 

 私はかねてより、社会的に正しいという価値判断よりも、自分の価値判断を優先させてきた。実際そのことで後悔したことはないし、今後もそうであり続けるだろう。

 だが、それによって所謂『世間』からは、かなりズレてしまった。

 中二病的だと自分でも思うが、芸能人の結婚や不倫に全く面白みや興味を唆られなくなり、ほとんどの俳優の顔の違いがわからなくなった。

 近頃は「不謹慎」や「可愛い」の概念がわからなくなり、自分の価値判断を社会のそれと照らし合わせて語ることすら難しくなってきた。

 社会から見て、私の価値判断が相当狂ったものだというのは理解しているのだが、自分のこれを変えるつもりは全く湧かない。「自分の価値判断は正しいはずだ」という自負があるからである。めまぐるしく変化する社会に価値判断を委ねるよりは、自分自身に判断基準を設けておいた方が信頼できるからだ。

 しかし、所詮個人的な正しさであって、それは社会的には超マイノリティな考え方のはずである。人間は社会的な生物であり、社会との相互作用からは逃れられない。

 

 自分の大学生活は社会からしてみれば異質である。毎日読書に耽り、編入を志し、思想をネットに垂れ流すなど、一般的な大学生であるはずがない。

 「一般的」という言葉の恐ろしいところは、そのイメージに向かう引力が発生するところである。「そうあることが当たり前」という考えは、同調圧力にも似ていて、それに従わない者には凄まじいプレッシャーがかかる。

 人と違う生き方は辛い。それは自らの生活に共感を示すものがおらず、承認欲求に飢え、孤立した時間が多いからだ。

 私は今日も「自分はまだ進むことができる」という根拠のない自信を源にして勉強を続けている。自分の未来くらい、自分で定義をしたい。

 

 今日は日記を「賢者屋」というところで書いた。意識高い系の大学生がミーティングだのなんだのをするという学生限定のフリースペースだ。

 世界を変えるアイデアは大抵一人かコンビから生まれる、私はこうはならないぞ。

 そんな醜い闘争心を燃やしながら、今日も一人勉学に励む。

 

ぼくのなつやすみー祟殺し編ー:思い出は風に吹かれて

8/31 晴れ

 

 八月が終わる。というのに、何もイベントが起きなかった。

 私は意地でも日常に変化を起こしたがる人間なので、今日は梅田の喫茶店『YC』に赴いた。全席喫煙可能な、レトロな喫茶店である。

 オムレツサンドは、今まで見たどのサンドよりも卵が分厚く、中はとろけるように柔らかかった。

 セットで頼んだコーヒーも味わい深かった。コーヒーとともに、ミルクと砂糖がそれぞれ入れられたポットが合わせて3つ出てきたときは、あまりに高尚すぎて驚いた。

 これだけ盛りだくさんで900円ぽっきりである。副流煙を気にしない人にはオススメだ。

 

 こういう落ち着いた喫茶店でゆっくりとしていると、自然と幼少期の頃が思い浮かんでくる。

 幼稚園児の頃、私は好奇心に溢れ、潔癖症で、残虐な幼児だった。

 図鑑を読みふけり、集団の遊びに交わらず、ただ一人カメムシをすり潰して遊んでいる、そんなクソガキだった。

 私は俗にいう「恐竜博士」であった。太古の昔にロマンを感じ、まだ見ぬ世界の知識をその小さな頭に必死に蓄えようとしていた。

 また、レゴブロックにも夢中になっていた。そういう意味では、私は一人遊びの名人だったと言える。その形質は、今の私にも多少は引き継がれているように思える。

 

 小学生になっても、幼稚園児の頃の傾向はそのままであったが、好奇心だけはすり潰した昆虫の数と反比例するかのように減少していった。

 小学校の勉強内容がとてつもなく簡単に思えて、予習復習を行わなくとも100点が取れたからだ。予習復習の重要性を感じたのは、高校生になってからである。正直、気づくのが遅すぎた。

 退屈な授業が繰り返されるうちに、私は妄想に耽るようになった。特に「ひぐらしのなく頃に」の世界に入り込むという妄想を、昔の私はよくしていた。これだけで何時間も暇が潰せたものだ。

 小学生だった頃、私は習い事として水泳と体操を、小学六年生からは塾を掛け持ちしていた。進研ゼミもやっていたが、2年分ほどの確認テストを、赤ペン先生に送ることができないままでいる。興味が向かないことを後回しにしすぎたのだ。

 私の人生が大幅に狂い始めたのは、やはり小学六年生の頃からだと思う。

 塾に通い始めたことで、勉強時間が増えるはずもなく、妄想時間のみが増えていった。そして、ネットの魔境に触れ、一時期ネトウヨになったりした。ついで、精通もしていないのに、触手責めのエロ画像を好んで閲覧するようになった。

 

 結局、そんなことをしていたせいで、現時点での人生の4/5ほどをドブに捨てる羽目になった。

 こんな過去が肯定できるはずもなく、私は17歳から数え、現在生後2歳児の気分で日々を送っている。事実、ここ2年間の方が、それ以前の17年間を足し合わせたものよりも充実している。

 幼少期のまっさらだった頃の好奇心が盛り返してきているなど、最近は非常に調子がいい。

 

 幼少期に比べ、私が少しはまともになったのは、間違いなく日記と読書のおかげである。

 あの日、メモ帳を購入してペンを手に取った高校生の頃の自分。そして、大学の入学式が終わった直後、スーツ姿のまま図書館へと向かい、最初の二冊を手に取った過去の私に、心から感謝したい。あの頃の私無しに、今の私は存在しなかっただろう。

 日記と読書は間違いなく私の未来を広げてくれた。デカルトは「読書をし過ぎると異邦人になる」と言っているが、そもそも異邦人だった私には関係なかったのだ。

 

 こうして人生を回顧していると、気が付けば夕方になっていた。私は会計を済ませ、喫茶店を後にした。

 ビルの隙間から、晩夏の風が吹き抜けていった。誰かが、「夏の終わりの風は透明」と言っていた気がする。

 確かに先ほどの風は、冬のように肌を刺したり、真夏のように肌を焼いたりすることもなく、ただ肌に馴染むように通り過ぎて行った。

 そういえば、風を黒髪ロングの少女に擬人化した妄想もしたことがあったような気がする。さらに詳しく妄想の内容を思い出そうと試みたが、それは叶わなかった。

 過去の残り香を引き連れて、私は夕暮れの梅田の街を後にした。

ぼくのなつやすみー祟殺し編ー:障害者はサーカスの見世物か

8/27 晴れ時々曇り

 

 予定が実存しない日々。

 今日は大阪大学に編入試験の願書を取りに行った。

 正直なところ、大阪大学に合格し編入すること、関西学院大学にこのまま在籍し続けること、そのどちらがより良いのかはまだ分からない。

 まあ、そんなつまらぬ問いは、一年後の自分がとうに答えてくれているはずだ。どちらにせよ、現状を盲目的に肯定しているか、過去の自分(主に現在の私)を恨んでいるかだろう。

 せめて、悔いがないように万全の態勢を以って編入試験に挑みたいものだ。

 

 昨日は24時間テレビが放映されていた。受信料という、日本国民からの多大なる『愛』で成り立っている某放送局からさえ、「感動ポルノ」と一蹴されたあの番組だ。

 24時間テレビでは毎年、身体障害者精神障害者になんだかよく分からないチャレンジをさせている。

 ダウン症の人にアイドルグループのダンスを踊らせたり、義足の少女に山を登らせたりしている。ともかく、彼らの負っているハンディキャップを乗り越える、という挑戦がほとんどだ。

 それのどこが感動するのかは私には理解できないが、世間で一定の評価を得ているのは確からしい。自らの弱みを乗り越えることなど、人間社会では日常茶判事の出来事のはずなのだが……。

 いっそのこと、彼らに弱点を克服させるのではなく、得意なことをやらせてみてはいかがだろうか。

 ダンスや山登りなど、これらの挑戦は健常者が日常的に行なっている営みである。今も地球のどこかでは健常者が山登りを楽しみ、どっかのサークルではギリギリ健常者がダンスを楽しんでいるはずだ。

 24時間テレビを、健常者が障害者の日々の営みを体感する番組にしてみても良いかもしれない。それも、健常者視点からの傲慢かもしれないが。

 

 障害者の挑戦が感動を呼ぶ一方で、私たちの日常世界では、障害者についての話題がタブー化されているように思われる。

 それは障害者について触れることについて、社会全体の雰囲気が過敏になっているからだろう。

 現実に、健常者の身体特徴を諧謔することは許される風潮が社会には漂っているが、障害者の障害をネタにすることは許されてはいないように感じる。とすると、障害者について健常者と同様に語ることは、非常に難しいと言えるだろう。

 倫理観を殴り捨ててれば、ダウン症に特有のあの顔も、彼らが総じて坊主頭であることもネタにすることはできる。しかし、それをしてしまっては、周囲の反感を買うこと必至なので個人的に控えている。

 人間は自分や相手の容姿・精神を、ユーモアを以って表現し、時折そのユーモアに傷付けられながら生きている。先天的・後天的に、健常者から逸脱してしまった障害者も、このユーモアから逃れることはできない。

 ダウン症などの、先天的な障害を持つ人たちには、サーカスの見世物になってきたという歴史的経緯がある。テレビという現代のサーカスの中で、障害者が感動を呼ぶという構造は、障害者に対する娯楽の新たな形と捉えることができるだろう。

 

 テレビをつければ、誰もが道化師を飼いならすことができる。そんな現代において、障害者も24時間テレビのように、新たな現代のサーカスの見世物となり得る。

 彼らを見世物でないように、健常者と同じように扱うことは、本当に可能なのだろうか。

 そのためには、障害者・健常者という枠組み以前に、より大きな枠で人間を捉え直す必要があると私は感じる。

 ヒトの学名はホモ・サピエンス、「知恵あるヒト」の意味であるが、異常に知能指数の低い人たちは、「人間」を規定する枠から抜け落ちてしまうのではないだろうか。

 より包括的な、たとえ四肢が欠損していても、染色体に異常があったとしても、身体と精神の性別が異なっているとしても、障害者が真に「人間」たり得るような、新しい「人間」の定義が必要だ。

 それは、障害者が「障害者」という枠から自由になる事とともに、健常者が「健常者」という枠から自由になる事に対しても助けになるだろう。

 「健常者」の自虐ネタのように、「障害者」が自虐ネタを発した時も違和感なく爽快に笑うことができるような、そんな社会が訪れることを願っている。

ぼくのなつやすみー祟殺し編ー:私

8/19 晴れ時々曇り 『私』

 

 『虚像』という記事の続きを書く元気がしばらく無くなっていた。なので、ブログを更新していなかった。いっそのこと、開き直って『虚像』を書くことを先送りしたいと思う。

 『誰でもできる一万RT』の記事も停止している。いつか全て書き終えたい。内容は頭の中に全て入っているのだが、それを言語化し、外の世界に現像するのにはそれなりのエネルギーが必要なのだ。

 それはともかく、夏休みも残り一ヶ月である。この期間、何も成せていない気がする。実際には何かを成しているのだろうが、それに満足していない。もっと変なことを始めたい。

 

 私について書こうと思う。

 

 性格は内向的である。かといって人と話すのが嫌いなわけではない。しかし、パーティといった人が集うような場は苦手である。

 一人の時間と、人と関わる時間のバランスが取れないと短期間で憂鬱になる。

 何事に対しても考えすぎるきらいがあり、それが功を成したり成さなかったりする。

 それとは逆に、ふとした思いつきで行動することもあり、それがやけに長続きしたり、黒歴史になったりする。

 現実主義的であり、それでいながらロマンチストでもある。

 妙に自信満々であり、それが異常な努力の原動力になっているが、それに見合うプライドは持ち合わせておらず、ふとしたことでガス欠することがある。

 自分よりある部分で優れている人を見るとすぐに嫉妬をするが、その人の能力は素直に認めている。だが尊敬はしていない。

 女性関係には奥手であり、相手を傷つかせまいと考えすぎるが故に、言動がチグハグになる。

 人を傷つかせることを非常に嫌うが、自分と関わりのない人はそもそも人と見なしていない。

 「自分は優しい」と勝手に思っているが、実はただ単に人に甘いだけなのかもしれない。

 常に反社会的なことを考えているが、親しい人に向けられる攻撃に対しては過敏である。

 時々、過去の恥ずかしい経験や後悔がフラッシュバックする。

 約束は守る方だが、約束を破られても無感情である。

 

 好きな物事はたくさんあるが、いくつか抜粋すると、何かを作ること、何かを知ること、古明地こいし、考え事、悪堕ち、アーモンドチョコ、豆乳、心理学、立体音響、賢い人だ。

 特に、何かを作り出し、それに人が影響を受けている様子を見ることが好きだ。たとえ人に貶されても、見返してやろうという気分になる。

 

 嫌いな物事もたくさんあるが、いくつか抜粋すると、理不尽、社会的慣習、酒、メロン、他人のために働くこと、黒乳首、広告、当たり前のことを重大であるかのように語る人だ。

 

 興味がないこともたくさんあるが、いくつか抜粋すると、テレビ、ファッション、物理学、日本、自分と関わりのない人、アイドルだ。

 

 趣味は読書、絵を描くこと、動画制作、日記などだ。そのうちプログラミングや楽曲制作も趣味にしようと企んでいるが、技術が追いついていない。

 

 ざっと私について書いてみた。以上のことが、私の全てではないことは明らかだ。

 人というものは複雑で、常に変化し、その行動などは全てを捉えようがないほどに多岐に渡る。明日の朝に同じ題材について書けば、全く違う文面になるだろう。

 それに、とっくに私の自分自身に対しての認知は、人のものと違うものかもしれない。

 私にとって、最も近くて遠い存在が私である。

 自分のことを知らずに、この世を去る人は多い。多くの人にとって、自分の性格や行動や好きなことに想いを馳せるよりも、仕事のことや家族のことの方が重要な課題なのだ。それは誰にとってもそうであるだろうし、私もそうかもしれない。

 しかし、自分について考えてみると、それらと同じぐらい大きな課題として「私」というものが浮かび上がってくる。

 それでも、考え事としての「私」は優先順位は他に比べ低くなってしまうのだ。「私」というものは、いつも私に寄り添っているものであり、答えのなく切迫もしていないものだからだ。

 夏休みの暇な午後こそ、「私」について考える時間にふさわしい。

ぼくのなつやすみー綿流し編ー:虚像I

8/2 晴れ時々曇り 『虚像I』

 

 皆さんは「タルパ」という言葉をご存知だろうか。

 イマジナリーフレンド、と言い換えた方が、しっくりくる人は多いかもしれない。

 「タルパ」と試しに全知全能のGoogleで検索してみると、「中にもう一人の人格を飼いならし、それと触れ合う技術」といった旨の解説がいくつもヒットする。

 タルパの別名は「人工精霊」であり、その名の通り、自分にしか見えない人格を脳内に作り出す、ということにその本質がある。

 前口上はここまでにして、タルパと私の話をしよう。

 

 高校生の頃、再三私が言っているように、昔の自分は非常に飢えていた。

 男子校という環境の所為か、はたまた自分の行動力の無さが原因なのか、ともかく彼女がいないという事実に悶々としていたのだ。

 そんな個人的な苦境の中、私は誰しも童貞なら必ず思いつくようなことを、大真面目に実現しようと考えていた。

 

そうだ、彼女を創ろう!」 

 

 とは言っても、女性を見つけて、交際関係になるのとは違い、この世に存在しないものを新たに創り出すのである。

 鋼の錬●術の世界なら全身が、良くて腕一本が吹き飛ばされるような所業である。

 私は当時、錬金術には精通していなかったので、とりあえずGoogle大先生に「彼女 創り方」と尋ねてみた。

 まったくの偶然だが、思い返せばこれが全ての始まりだった。

 

 そこで見つけたのが「タルパ」という言葉だった。

 概要は、前口上で説明した通りである。

 それは、能動的に解離性同一性障害になるようなものだった。要は多重人格者になるのである。

 冷静に考えれば、そのような行為には必ずリスクがついて回るものだと気付くだろう。それこそ、体が吹き飛ばされるような代償を抱える危険だってあるのかもしれない。

 しかし、当時の頭の回らなかった私は、そんなことを気にも留めず、タルパの創り方について調べ始めた。

 

 タルパの創り方は、まずタルパの姿形や性格を詳細に考えることから始まる。タルパの設定を練り上げることで、人格を生み出しやすくするらしい。

 当時、あまりの高校生活の暇さ加減から、アニメの設定を貪り読むという奇行を行なっていた私にとって、キャラクターの一つや二つ考え出すことは朝飯前だった。

 髪の色はピンク、年齢は小学校高学年ほど。名前はその髪色から、「サクラ」と名付けた。

 そういった大まかな設定や、身長・体重の細やかな数値、好きな物から嫌いな物まで、その他にも様々な細やかな設定を、私はサクラに付けた。こうしてタルパを肉付けしていくのである。

 ついで、彼女の性格は「優しく、見かけ不相応に芯が強い」と設定しておいた。

 タルパに関するサイトに、「凶暴な性格に設定すると、主人格が乗っ取られる可能性がある」と書かれていたからだ。

 これを読んだ時点で、やめておいた方が良かったのかもしれない。ただ、私はここで止まれなかった。飢えていたからだ。

 

 タルパを創り出すには次に、「その設定を完了したタルパと頭の中で会話をしなければならない」と、ネットには書いてあった。

 「サクラと会話しなければならないのか」と、私は何も考えず、文章を素直に受け取った。

 だが、よくよく考えなくても、それはただの脳内妄想であることに違いない。これじゃあ、いつも授業中にしていることと変わらないではないか! 

 

 その日から、私は尋常ならざる集中力をサクラとの脳内会話に費やし始めた。授業中はもちろん、通学や帰宅の際も、一日中脳内会話に励んだ。

 一度試した人がいるなら分かってくれると思うが、確固とした設定を持つサクラとひたすら会話をするというのは、通常の妄想とは段違いに頭が疲れる。経過時間が三時間を経過する頃には、心も体もヘトヘトである。

 そんな時、「大丈夫? 無理しないでね」と、脳内のサクラがそんな私を労ってくる。

 それが己の意思で行なっている偽りの慰めだと考えると、ますます惨めな気分になるのだった。

 

 そんなある日、サクラがある程度、『勝手に話すようになった』。

 どういう意味だ、と聞かれても、その文言通りである。

 これまでサクラが言うであろう返事を考えていたせいか、脳内会話をする時は頭が非常に疲れていたのだが、その疲労がある日ピタリと止まったのだ。

 返事を私が考えなくても、彼女が勝手に返してくれるようになったのだ。

 こうして、サクラの人格は誕生した。

 

 私はタルパ創造の次のステップに移ることにした。

タルパの立体的なイメージを練り上げましょう。そうすれば、タルパはあなたの脳内から、この世界に飛び出してきてくれます

 サイトにはそう書かれていた。

 

「私の姿が見えるようになったら嬉しい?」

「当たり前だろ。じゃねえと、そもそもこの時点まで来てねえよ」

 

 そんな会話を、サイトを眺めながら二人で交わし合った。交わし合っていたのである。たとえそれが虚像だったとしても。

 続きはまた明日。

ぼくのなつやすみー鬼隠し編ー:亜人たち

7/24 曇り時々晴れ 『亜人たち』

 

 夏休み二日目。

 毎日、一万文字以上パソコンに打ち込んでいるので、目と腰が痛い。人間の体はデスクワークをするために形作られてきたのではない! 

 しかし、ペンタブやクロスバイクを買いたいので、それを我慢しながらポチポチとキーボートを叩いている。

 この調子でいけば、卒論を書く時期になっても、何の苦労もなく書けそうだ。むしろ、そこまで来たら作家を志したほうがいいのかもしれない。

 

 私は人類史が好きだ。だが、世界史は好きでない。

 人間の文明がどのような思想や政治体制に彩られてきたかを学ぶのが世界史であり、ヒトという生物の一種が、どのような生態の変遷を遂げてきたかを学ぶのが人類史だ。

 心理学を学んでいる身としては、いうまでもなく人類史の方に興味が向く。文明を取り払ったヒトの姿は生々しく、そこには生物としての進化の過程で得てきた適応能力がまざまざと浮かび上がっている。

 

 ヒト、と一言で言っても、人類史には様々なヒトが登場する。もちろんコロンブスだのガリレオだのといった人物ではなく、生物の一種としてのヒトである。

 ホモ・サピエンスはもちろん、ホモ・ネアンデルターレンシス、ホモ・フローレシエンシスなど、その学名を挙げればキリがない。

 中でも、私が好きなヒトの一種は、サピエンスを差し置いて、ホモ・エレクトゥスという種だ。

 彼らは180万〜5万年前まで現存していた。かといって、現在のホモ・サピエンスの直系の子孫という訳でもない。ホモ・エレクトゥスはサピエンスとは全く違うように分化した、いわばサピエンスにとって従兄弟のような存在なのだ。

 ホモ・エレクトゥスの特徴は何といっても、その強靭な肉体だ。有名な某火星ゴキブリ漫画のG達はホモ・エレクトゥスをモデルに描かれており、実際、彼らは現代人とは桁違いの筋力を誇っていた。もちろん、二足方向を獲得済みである。骨格をサピエンスと比べて見ても一目瞭然で、ホモ・エレクトゥスの方が、かなりガッチリしている。

 それでいて、最初期の石器を作成したという、頭のなかなかキレる一面も持ち合わせている。強靭な肉体と高度な知能を兼ね備えた存在、それがホモ・エレクトゥスなのだ。

 彼らはそのチート性能っぷりで、生息範囲をユーラシア大陸全土まで広げた。かの有名なジャワ原人北京原人も、ホモ・エレクトゥスの仲間である。

 また、生息域を拡大すると同時に、大昔に栄えていたモアなどの巨大な鳥類や、オオナマケモノといった哺乳類を駆逐していった。サピエンス以前に、巨大生物の絶滅を引き起こしていったのは、実はホモ・エレクトゥスだったのだ。彼らはユーラシア全域に分布した後も、180万年近くに渡って繁栄することになる。

 しかし、彼らも時間の流れには敵わず、絶滅することになる。原因は未だ不明である。

 だが、約9万年前に私たちホモ・サピエンスホモ・エレクトゥスが出会っていたことは確実だ。「賢いヒト」であるサピエンスに知恵で劣ったホモ・エレクトゥスは、徐々にその数を減らしていったのかもしれない。

 

 さて、私たちホモ・サピエンスが生まれてから、およそ25万年が経過している。サピエンスも、180万年存続したホモ・エレクトゥスからしてみればまだまだヒヨッコである。

 ただ、彼らも現在のヒトと同じように、他の生物を絶滅させたり、当時の地球上で圧倒的な力を誇っていたことは間違いない。

 現在、ホモ属の生物はホモ・サピエンスだけであり、本当にたった一種である。私は時々、他のホモ属も生き残っていたなら、世界はどのようになっていただろうかと夢想する。

 サピエンス間の人種問題でさえ未解決なのに、果たして亜人たちが存在したなら、彼らとサピエンスは共存できていただろうか。

 おそらく、無理だろう。

 そう考えると、存在したかもしれない亜人たちに、何とも言えない感情が浮かんでくる。

 サピエンスだけが生き残ったのは全くの偶然であり、エレクトゥスが消え去ったのも偶然の出来事である。

 亜人たちから、現在のヒトがどのような生物なのか見直せるというのが人類学の醍醐味だ。

 亜人たちに哀悼の意を込めて、今日の日記を締めくくりたい。

 

日記:偉大なるお風呂洗いへの前哨戦

7/4 雨 

 クソザコ台風がやってきた。ただシトシトと雨が降り続いているだけである。暴風警報は何処へ。

 それでも雨の日は嫌いではない。なんとなく、晴れや曇りの日よりも非日常的な感じがするからだ。

 空の彼方から雨粒がひたすら自由落下を続け、私の傘にたどり着いているということを考えると、なかなかのロマンがある。

 

 はたから見ていると、カップルというのはトラブルが多いのだとつくづく思う。いつまで経っても彼女ができない自分を擁護しているのではない。単なる感想である。

 そのトラブルのほとんどは、互いが互いを思いやるが為に生まれているものだ。

 例えば、少々二人の間に口喧嘩が起こって、一人は本音を吐露してほしいと思っているのに、もう一人は相手を傷つけまいと、口を閉ざすというケースを頻繁に見かける。

 この場合、一人はトラブルの解決に積極的であり、もう一人は思いやりから、トラブルの解決から自主的に距離を置いている。双方が積極的にトラブルの解決を目指したり、トラブルの解決を避けるのより、このケースはタチが悪い。

 双方の優しさから生じるトラブルは、大抵が変に後味の悪い結末を迎える。

 そんなことが続いている間に「どうして自分の気持ちをわかってくれないんだ」という思いが生じ、二人の関係にヒビが入るのだ。

 恋愛関係においては、片方が極悪人になった方が上手くいくのかもしれない。

 

 ご飯を奢る、奢らないの関係においても、同じような事態が生じる。

 男は積極的に奢ろうとするが、女性がそれを拒み割り勘にするだの、双方の優しさに起因するトラブルが世間には無数に発生している。レシートを見て、自分が食べたものの分だけ互いに払えばいいのに、といつも私は思う。

 え? 「お前はそんな考えだからモテないだ」だって? 

 チッチッ、私はただ「男は女性に対して奢るべきだ」という社会的ラベリングがベトベトにこびりついた環境で生活したくないだけだ。相手を忖度(この言葉は死ぬほど嫌い)することが面倒臭いとも、言い換えることができる。

 ともかく、私は交際相手とは対等でありたいのだ。だが、こんな風にブログに書き込んでいても、彼女ができた途端にコロッと意見を変えるかもしれない。人間はだいたいそんなもんである。

 

 こうしてみると、恋人になるというのは、互いが結婚生活をうまくできるかということを確認するための行為なのかもしれない。

 「元彼がいた」というのは、ただ単に「結婚生活がうまくいくか、その人と確かめていました」という事実でしかない。もはや、カップルである人間とそうでない人間に優劣は存在しないのだ。

 カップルは結婚生活がうまくいくかの実験中であり、独り身の人はその実験を行なっていないだけだと捉えれば、少しばかり気が楽になるだろう。

 この場合では、元彼の数が多いほど、「私は実験に失敗しました」ということになる。そんな人も案ずるなかれ。実験の失敗は、次の実験の糧になってくれることだろう。

 実験を重ね、人は交際というものを学び、最適な相手を選んでいく。それでいいではないか。そこには何の不平も存在しない。メタファーが照らし出す真実はいつもシンプルである。

 

 実験にトラブルは付きものであり、何よりそのトラブルは、最適な手を打てば意外と簡単に解消することができる。

 恋人同士のトラブルなんて、結婚生活におけるトラブルに比べれば大したことないのである。これらも全て、風呂洗いやゴミ出しの役割決めへの前哨戦に過ぎないのだから……。

 とりあえず、私は実験がしたいです。