きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

学年ビリのオタクが1年で大阪大学の編入試験に不合格した話 中編

 

 こうして、私は志新たに受験勉強を始めたわけだが、これまでの目を背けたくなる失敗を繰り返してしまうかも、という心配があった。

 

 大学生になってまで、時間を無駄にするわけにはいかなかったので、日常生活の根本から改革し、勉学に取り組もうと考えた。

 

 受験勉強を始めるにあたって、私が気をつけた点を以下に述べる。

 

 

 このたった三つである。

 

 とにかく、以前の失敗を顧みて、健康的で勉強に集中できるような生活を心掛けた。

 

 ニュートンは研究に全力を注ぐため、オナ禁は愚か生涯童貞を貫いたという。

 

 そのくらいの気概が私にも必要だと思った。

 

 1年間読書や勉学を積み重ねてきたのだ。今回こそは受験に成功するだろう。

 

 そんな、これまで努力に裏付けられた自信が心中にあった。

 

 

 3年次編入は情報戦である。

 

 情報を多く取り揃えたものが勝利する。そんな記述をインターネットの海で見かけた。

 

 全くその通りだと思った。まずは相手を知らなければ話にならない。

 

 私には、編入試験についての知識が明らかに不足していた。

 

 受験勉強を始める際、まずは情報を集めようと思い立った。

 

 

 とりあえず、入試験の問題が分からなければ対策のしようがないので、大阪大学に過去問を取りに行くことにした。

 

 大阪大学では、大学院試験や3年次編入試験の過去問をそれぞれ一年分だけ配布している。平日限定である。

 

 人間科学部の棟に着いた後、2階の受付に行って過去問の見本を貸していただいた。

 

 「これを近くのコピー機で印刷し、返却してください」と、懇切丁寧に伝えられた。

 

 私はビビリなので「もし他大学の学生だとバレて、冷たい視線を向けられたらどうしよう」と思いながら行ったのだが、見事に杞憂であった。

 

 

 受験教科は英語、小論文、専門科目の三教科である。

 

 この順番で試験が行われ、3教科が終わった後に口頭試問、つまり面接がある。

 

 

 英語の問題はどこかの専門書や、論文から引用してきた長文が用いられていた。

 

 一つの大問に二問ずつ和訳や日本語での説明を求められる問題があった。

 

 長文の量はそこまで多くはなく、大問一つあたり250語くらいであった。

 

 長文の話題は介護ロボットの是非やレジリエンスの説明など、やはりというか、社会科学に関連したものばかりであった。

 

 

 小論文の問題も、英語と同じく社会科学系のトピックであった。

 

 ただ、英語と違い日本語であるぶん、文章の内容の難易度は高く、人間の認識やクオリアについて問われるなど、人文・自然科学の基礎的な知識も求められるものだった。

 

 大問は二つで、それぞれ小問が一つずつ。

 

 内容は、要約と自分の考えを述べるというものだ。典型的な小論文の問題だった。

 

 

 そして専門科目である。

 

 大問は二つであり、一つが自由記述式の小論文、もう一つが語句について説明する小問が五つあるものであった。

 

 自由記述の小論文は、人間が新奇な環境に適応することを行動学的立場から説明することが求められ、漠然とした問題にどう自分の論を組み立て論じて行くかが鍵になっているように思えた。

 

 一方、小問では幅広い心理学の領域から単語が出題されており、中には「ツァイガルニク効果」など、相当その分野の詳しい知識がないと説明することができないような言葉もあった。

 

 

 過去問が1年ぶんしかないのは少し備えに不安があるように思えたが、問題形式がわかっただけマシであった。

 

 問題形式が分かれば話は早い。

 

 英語は短めの長文を読解し、和訳する練習をすればいい。

 

 小論文はこれまで通り読書で幅広い分野の知識を養い、論理立てて文章を書く練習をブログなどで行う。

 

 専門科目は小論文の練習とともに、心理学の知識をさらに培っていけばいい。

 

 少し視界が開けたように思えた。

 

 

 では、口頭試問はどのようにこなせばいいのか。これがいちばんのネックだった。

 

 面接で何が聞かれるのかは大体見当がつく。

 

 「大学に入学できたら何を勉強したいか」、「なぜこの分野に興味を持ったのか」、「これまでどのような本を読んできたのか」、そのようなことを、おそらく聞かれるだろう。

 

 口頭試問は志望理由書に基づいて質問が飛ばされるのだろうと、私は予想した。

 

 志望理由書とは、願書を出すときに併せて、自分の出願への経緯を載せて提出する用紙のことである。

 

 この用紙に、自分の志望分野や受験への想いを約600文字でまとめなければならなかった。

 

 これを作る過程で、大学入学後のことや、自分の興味関心についての自身の考えをまとめていこうと考えた。

 

 口頭試問の本格的な練習は、編入試験専門の予備校にでも入っていなければ、なかなかできないものだ。

 

 実際、このような予備校に入学し、大学や専門学校を半年から一年休学して編入試験に挑むものは多い。

 

 予備校のサイトで合格者を見ていると、大体がそのような者たちばかりであった。一方、私は休学することなく試験に臨むことになる。なかなかにこれは厳しい。

 

 口頭試問の練習ができないのなら、自分の考えをあらかじめまとめておき、本番に素直に答えて矛盾が出ないようにすればいい。

 

 自分の考えをまとめるため、志望理由書を私は利用した。

 

 志望理由書には以下のように書いた。全文ママである。

 

 私は、人間の集団内での規範意識について研究したいと考えている。いじめなど集団内で逸脱行動が発生する仕組みを探求していきたい。そのために、私は大阪大学人間科学部で、その研究に必要な知識や研究方法を学びたいと思っている。

 

 私がこのように考えているのは、大学一年生の時、不登校支援のボランティアを一年間したことがきっかけだ。私は初め、臨床心理士になることを目指していた。しかし、支援を行なっていくうちに、臨床的なケアだけでなく、彼らを不登校に至らせない環境を形成することも必要と考えるようになった。

 

 心理学検定一級を取得し書籍を読んでいくにつれて、社会心理学の領域に魅力を感じ、行動生態学にも興味を持つようになった。だが、現在の自分にはこれらの分野の知識が不足しており、現在の大学では学ぶことのできない知識を大阪大学で身につけたいと考えた。社会心理学の領域ではグループ・ダイナミクスなどの知見を参考にし、自分の研究を深めていきたい。また、行動生態学の領域では霊長類と人間の規範意識にどのような類似や差異があるかを研究したい。

 

 今後は大学院へ進学して博士号を取得し、将来は自分の蓄積した知見が学校制度などに反映されるよう社会に積極的に提案していきたい。

 

 志望理由書は、自分が心理学検定を取得し、これまで着実に行動科学の知見を積み重ねてきたこと、入学した暁には何を勉強したいかを、明確にアピールした。

 

 また、不登校支援から現在の関心に至るまでの経緯を短く、わかりやすくまとめることに徹した。

 

 

 これで試験への基本的な準備は整った。

 

 あとは出願し、本番まで勉強を続けるのみである。

 

 

 3年次編入を志し、過去問を取りに行ったのが春のことである。

 

 春から夏までは、各教科の基礎固めに力を注いだ。

 

 英語は高校時代に使っていたターゲット単語帳を引っ張り出し、それを何周もして大学受験以来記憶が薄れつつあった英単語を再び暗記していった。

 

 また、基礎英文問題精講を解き始めた。

 

 この問題集は本当にいい。英文読解の能力が気づかぬうちに跳ね上がっている。

 

 小論文は書き方を指南している参考書を数冊購入し、それを読んだ。

 

 それから、その本に書いてあった論理的な文章の書き方を参照しながら、ブログやレポートを書いた。理論&実践である。

 

 専門科目は東京大学出版会の「心理学」というテキストを購入し、それを読み込んだ。

 

 さらに、心理学検定受験の際に購入した検定の問題集や一問一答、心理学用語単語集を利用して学習を進めた。

 

 

 だが、夏休みに入ったあたりから、胸の中に不安が蠢き始めた。

 

 それは、自分が社会から隔絶されたように感じるという、孤独感そのものであった。

 

 ちょっと勉強をやめて、図書館から出てみれば、楽しそうなカップルや、遊びに明け暮れている同じ年くらいの大学生が沢山いる。

 

 これを見るだけでも、心が痛くなった。

 

 やはり、人間は楽な方に流されていく生き物である。

 

 この引力には逆らいがたい。しかし、私は逆らってしまった。

 

 逆らった先には、おぞましいまでの孤独感が待っていた。

 

 この時、私は浪人生のおよそ半分が、成績が向上しない訳を思い知った。

 

 かつて私が高校生だった時、成績の上がらない浪人生を笑い飛ばしたことがある。

 

 怠惰である、なぜ努力ができないのだ、と。

 

 経験して初めてわかること世の中には沢山ある。これも、その中の一つだ。

 

 なかなかに孤独というのは辛い。

 

 人間の心は、週囲の社会から外れて一人コツコツと何かを続けることには、とても向いてはいないのだ。

 

 

 大学が夏休みになってから、私はいよいよ完全に孤独になってしまった。

 

 孤立はしていない。友人がいるのだから。

 

 それを分かっていてなお、孤独は苦しいものだった。

 

 誰もいないキャンパスに朝から赴き、夕方まで勉強し、帰宅する毎日。

 

 こういうことを繰り返していると、人はダメになってしまう。

 

 私の思考は徐々にマイナスの方向へと向かっていった。

 

 生きる意味とは、己の使命とは、第二外国語を勉強する意味とは、なぜダンスサークルというものがこの世に存在しているのか、とくといって面白くもないお笑いサークルに人が集まるのはなぜなのか。

 

 

 不毛な思考の渦にぐるぐると巻き込まれていた時、友達に遊びに誘われたことは本当に救いになった。

 

 私は人から元気を吸収して生きている人間なので、たっぷり彼からは元気を吸い取らせていただいた。

 

 これには本当に感謝している。元気を吸い取れたことじゃなくて、遊びに誘ってもらったことに。

 

 勉強には息抜きが本当に必要である。何事もメリハリが大事である。

 

 

 こうして、どうにか精神を持ち直した私は夏休みに毎日受験勉強に励み、やがて新学期を迎えた。

 

 ここまでくると、遠くにあった試験がいよいよ見えてくる。

 

 九月の初め、願書を提出してからは、かなり内心焦っていた。

 

 この頃から大阪大学の大学受験過去問や、旧帝大レベルの英文の和訳問題を解き始めてはいたのだが、まるで編入試験に受かる気がしなかったのだ。

 

 これまでの受験が頭をよぎる。

 

 高校、大学まで、私は第一志望に合格したことが一度もなかった。

 

 思えば私のこれまでの短い人生は、敗北の連続であった。

 

 部活の試合もあまり勝ったことがないし、彼女がろくにできたこともない。

 

 常に、私は持たざる者だった。今回も私は敗北してしまうのか。

 

 焦燥にじりじりと、私の精神は焼かれていく。

 

 

 九月までくれば、もはや受験は耐久戦である。

 

 辛さはあったが、私はラストスパートに向けてエンジンをかけ始めた。

 

 試験日は11月7日。本番はすぐそばに見えていた。

モテないラベリング

12/5 晴れ

 

 突然に寒くなった。

 私は冬が嫌いだ。

 まず、寒いのが嫌いだ。これがけでも辛いのに、クリスマス、バレンタインデーと、全く私に関係のないイベントが連発する。こんなの嫌いにならないほうがおかしい。

 これらのイベントで街が盛り上がるたび、私は強烈な孤独を感じる。

 まるで、社会から自分が隔絶されてしまったような、刺々しい孤独である。

 私が非リアに孤独を感じさせる側になる日は来るのだろうか。

 寒くなると、人肌恋しくなってしまっていけない。将来はシンガポールにでも住もうか。

 

 自分の「モテない奴だ」という烙印を消そうと、最近頑張っている。

 私のモテない原因は、おそらくここにある。

 私のように傲慢であろうと、交際関係のある人間は腐るほどいるし、私以上の問題児でも付き合っている人間はごまんといる。

 しかし、それらの欠点に比べて圧倒的に、「モテない奴」というラベルをベッタベタに貼られている人間は、モテない。その男がいかに善良で素晴らしい人間であっても。

 いや、この男というのはもちろん私ではないが。

 誤解を解く注釈をつけておかないと、理不尽な非難にあってしまうということを、最近は再認しまくっている。

 

 「モテないラベル」の根は深い。

 

 その犠牲者は主に、

童貞であることを声高々に主張する者

・根暗なラノベ読者

・不潔な者

・欲のない者

 である。

 

 これらの特徴に当てはまったり、兼ね備えたりしたときに、「モテないラベル」は発動する。

 

 「モテないラベル」は言うまでもなく、物質ではない。

 周囲が「ああ、こいつはモテないな」と認識したときに、不可視の概念として「モテないラベル」は生成される。もはや一種のミーム災害である。

 「モテないラベル」の粘着力はアロンアルファを軽く捻り潰すレベルである。

 それこそ、そのラベルを貼られた環境では二度と恋愛できない程度には強力である。

 「モテないラベル」により、男たちの価値はジンバブエドルのように急落する。

 そんな男と付き合うことを女性は拒み、負のスパイラルが生まれていく。

 

 では、「モテないラベル」に冴えない男たちが対抗するにはどうすれば良いのか。

 まずは、まだ「モテないラベル」が貼られていない純粋無垢な男たちの対処法を紹介する。

 それは、先ほどの犠牲者の逆のようになればいいのだ。

 

 つまり、

童貞であることをわざわざ自らネタにしない

・明るいラノベ読みになる

・清潔感を保つ

・強欲な壺と化す

 ことである。

 

 高校時代、サイドブレーキのごとく自らのジョニーをいじくり回してきた隠の者でも、爽やかなオタクに変貌することができれば、恋愛することは難しくない。レッツチェンジだ。

 

 すでに「モテないラベル」を貼り付けられてしまった者でも、再び蘇ることは可能だ。

 

少しの期間、入居者(交際相手)を無理矢理にでも招き入れ、「モテないラベル」を消す

・別人に変貌するレベルで自分を取り壊し、美しくリフォームする

・時間の経過を待ち、別の環境で頑張る

・物好きな入居者を探す

 

 以上である。

 なんだか、事故物件への対処法みたいになってきた。

 

 モテないことは辛いことだ。

 同級生が冬のイベントを楽しんでいるのを横目で眺めるのにも、飽き飽きしてきた。

 むしろ、横目で眺めすぎて白目になった。

 私同様、モテない男たちにはこの冬こそ、頑張ってもらいたい。

 人肌に触れ合うことができず、厳しい冬を乗り越えられずに心が凍死してしまわないよう、努力してもらいたい。

 以上、なんのエビデンスもない恋愛講座でした。

 

土偶のエロス・一人焼肉・北野天満宮

10/21 雨

 

 今日は気分転換に京都に来た。

 現在開催中の国宝展で展示されている横山大観の「風神雷神」が見たかったということや、北野天満宮でおみくじを引きたいという目的もある。

 天気が良くないからこそ、人数が少ないということを狙って京都に来た。

 しかし、京都国立博物館は30分待ちの大行列だった。まあ、そういうこともある。英単語の勉強ができたので無問題。

 

 個人的な験担ぎで、私は受験のたびに北野天満宮に参拝している。

 高校受験も大学受験も、おみくじで大吉を引いたが第一志望には落ちてしまった。

 今回はあえて凶を狙う。大吉で落ちるなら、凶で受かる。

 これが、母数が2しかないクソのような帰納法から導かれた答えである。まるで頼りにならない。勉学の方がよっぽど信頼できる。

 

 京都国立博物館土偶を見て考えた。

 縄文時代土偶たちはみな「ボン・キュッ・ボン」な体型だった。エロい。

 縄文人は現代人の同じように、「ボン・キュッ・ボン」が好きだったのだろうか。

 多様化した文化を持ち合わせていなくても、エロスの感じ方が現代人と似通っているというのは、なかなか興味深い。

 エロは時空を超える。いつか「快楽天」などのエロ雑誌も、考古学的な資料になるのだろう。

 

 初めて一人焼肉に来た。一人焼肉は私の悲願である。

 一年ほど前、「孤独のグルメ」の実写ドラマで主人公が一人焼肉に訪れる回が放映されていた。この役者、普段は少食なのに、とても美味しそうに食べるのである。

 その回を見てから、無性に一人焼肉に私は行きたいと思うようになった。

 皆で食べる焼肉もいいが、一人焼肉も何だか満ち足りて幸せそうに思えて来たのだ。

 だが、なかなか一人焼肉に行く機会がなく、今日になってようやくその悲願が果たされることとなった。

 店を訪れ、ランチメニューを頼み、分厚いカルビを小柄な金網の上に置く。

 肉が焼ける小気味良い音が、私の食欲をそそった。

 辛めのタレに少し焦げ目が付いた肉を浸し、一気に頬張る。

 その瞬間、口内に旨味が溢れた。たまらない。

 肉が焼けては、次々と口の中に放り込む。うおォん、まるで私は人間火力発電機だ。

 結局、満腹になるまで焼肉を喰った。一人焼肉はやはり最高だ。社会からのやや冷たい目線を無視すれば。

 

 その後もホットケーキを食べたり、出町ふたばで豆餅を買い、緑寿園で黒豆紫蘇味という謎の金平糖を買ったりと、充実した1日だった。

 十分にリフレッシュできたので、心置きなく編入試験に挑戦できる。

 

 ついでに、北野天満宮のおみくじは中吉だった。学問の欄には「入学よし」の文字が。

 「いいよ」の「よし」か、「よしなさい」の「よし」か、それが分かるのは試験の出来次第である。結局は個人の努力ということだ。

 北野天満宮には受験を控えた高校生が多く来ていた。

 何となく、自分の受験期を思い出した。あの頃、私は自分が編入試験を受けるとは微塵も思わなかっただろう。

 未来の自分など知ったことではないので、せめて現在は努力を続けていきたい。

 

 

夏の亡霊たち

10/18 雨

 

 ずっと雨。

 今日は、観察学習と心の理論の関連について考えた。

 最近、京大の霊長類研究所が、チンパンジーにも心の理論が存在するという証拠を発見した。

 チンパンジーは観察学習によって「完全な模倣」を行うことができる数少ない動物でもある。

 観察学習による模倣と心の理論の間には、何らかの関係があるのだろうと私は思う。

 観察する対象に意思があると信じることができなければ、そもそも模倣という現象も生じることはないだろう。

 イルカにもおそらく「完全な模倣」が生じると考えられているので、イルカも原始的な心の理論を持ち合わせているのかもしれない。

 ここら辺のことが勉強したいのなら、やはり中島ゼミだろうか。

 大学院の進学をどこにするのかも、そろそろ考えていかなくてはならない。

 

 夏が完全に過ぎ去り、季節は秋を迎えた。

 肌寒い日が続き、自らが持ち合わせている服装のレパートリーの少なさに嫌気が差す時節でもある。あの長ったらしかった夏が懐かしく思える。

 

 大学生になってから、毎年夏になると、私は図書館に通いつめる。

 起きて、図書館で本を読みふけり、寝る。そんな生活が2ヶ月に渡って続く。

 こんなことを続けていれば精神に異常をきたすのも当然で、1ヶ月を超えたあたりから言動がおかしくなってくる。

 こうした夏休みの後遺症を抱えたまま、いつも秋学期を迎えるのだ。

 他の大学生がどのような夏休みを送っているかなど、もう想像もつかない。

 バイトをしているのだろうか。サークルでどこかに旅行にでもいっているのだろうか。交際相手の家に通っているのだろうか。答えは遠い夏の中。

 

 秋になると、いつも夏のことを忘れてしまう。

 あの肌を焼くような日光も、耳をつんざくような蝉の声も、今となっては朧げだ。

 多くの人は、夏のことを「懐かしい、かけがえのないもの」と捉えがちだ。

 しかしいざ夏が来ると、そんな夏に対するイメージはたちまち消え失せてしまう。真の意味での夏はいつも、私たちの頭の中にのみ存在する。

 

 路傍で蝉の抜け殻を見つけた。

 中に詰まっていたはずのものはもういない。

 ふと、晩夏に一匹の蝉の声が聞こえたのを思い出した。

 仲間が死に絶えた中、交際相手を求めて一人鳴き叫ぶ蝉に、同情を感じたものだが。

 蝉の声はもう聞こえない。

 抜け殻も思い出も、全ては夏の亡霊である。

  

ちんくそ

10/13 雨

 

 また傘を忘れてしまった。実験実習が終わった後に雨が止んでいればそれでいい。

 それにしても通勤中は皆、傘を持っていないのに、雨が降り出した途端に傘をさす人が増えるのは、一体どういうことなのだろうか。

 彼らの持っている傘は、明らかに折り畳みのものではない。世界一一四五一四不思議のうちの一つだ。

 

 目くそ・鼻くそ・耳くそは「くそ」なのに、なぜチンカスだけ「かす」なのだろうか。

 昨日の夕方に「天かすという名称は下品」というツイートを見かけてから、このことについてずっと考えている。

 「くそ」が名称に付くのは、主に身体から生じるものである。目くそ・鼻くそや耳くそは、全て分泌物と埃の混合物である。

 糞(くそ)それ自体も、身体から生じるものだ。さっきまで体の中にずっといたのに、出てきた瞬間嫌われるだなんて、やっぱりうんこはくそである。

 

 ならば、なぜチンカスは「ちんくそ」ではないのだろうか。

 チンカスの正体を調べて見たところ、これもやはり分泌物であった。むしろ、埃が混じっていないぶん、チンカスの方が純度は高い。

 「くそ」の格上が「かす」なのだろうか。そういや、天かすも衣100パーセントで構成されている。

 試しに辞書を引いてみると、「くそ」は『垢や滓(かす)』を表す言葉としても使われるという記述があった。なるほど、「くそ」は「かす」を含有していているのか。

 一方、「かす」には『良い部分を取り去って、あとに残った不用の部分』、『劣等なもの。つまらぬもの。』という意味がある。「かす」は「くそ」を含有していない。

 

 これより、「くそ」=「かす」ではないことは明らかだ。

 むしろ、「くそ」集合の一部として「かす」が位置付けられていると言っても過言ではない。

 「かす」は「くそ」よりもネガティブなイメージが強調されている。「かす」は「くそ」界の悪役なのだ。

 とすると、目くそなどよりもチンカスの方が悪質なもの、ということなのだろうか。

 まあチンカスは目くそなどに比べて病気を引き起こす可能性が高いので、当然といえば当然のような気がする。

 

 と思っていたら、広島弁ではチンカスのことを「ちんくそ」と言うらしい。

 きっと広島の人たちにとって、チンカスは無害なものなのだろう。彼らの免疫の強靭さにただただ驚くばかりだ。

 でも天かすは天かすのままらしい。もう訳がわからない。

 

 最近、耳かきの同人音声作品を視聴していたら、声優の方が耳くそのことを「耳かす」と読んでいた。

 どうやら、「くそ」か「かす」かは、かなり人の主観によって変わるらしい。

 耳かきに執着する人にとっては耳くそは耳かすになり、性病が怖くなければチンカスはちんくそになり得る。

 ま、どうでもいいけど。

私は日本語ができない

10/6 雨

 

 久しぶりに雨が降ったような気がする。

 一週間は長いようで短く、すぐに実習の授業がまた来てしまった。

 今ではあまり顔の見せていないサークルの先輩がTAとして配属されているので、最初はなかなか気まずかった。

 今は普通に話せている。私の発話の内容が普通かどうかはわからない。

 相手にどう思われているかはともかく、今尚話してくれるというのはありがたいことだと思う。

 集団の中で生活するのが苦手な私には、ノンサー生活もなかなか捨てたものではない。

 個人が自由な人間関係の中で生活できるというのは、大学という場の利点だと感じた。

 

 私は日本語が苦手だ。

 普段、文章を他の人よりは書きまくっている私だが、それでも全く日本語が上達した実感が抱けない。

 私の日本語の拙さはこういうブログよりも、日常生活の場で露呈してしまう。

 例えば、人に「頑張れ」という内容のラインを送る時、何か文言を和らげるための語尾を付けようとしてしまった。

 ストレートに人を応援するのが私は苦手だ。なんだか、真面目な応援はその人の努力に対して無責任な感じがするからだ。

 ここは素直に顔文字や記号でも付けておけば良かったのだが、その時私は関西弁で語尾を和らげようとしてしまった。

 気づいた頃には「頑張れや」と送信してしまっていた。

 後から見ると、ガラが悪く、上から目線のとんでもないメッセージである。関西弁を付ける場所を大いに間違えてしまった。

 私はその日の自分の失敗を、何度も反芻してしまう人間なので、脳内で何度もこの失敗がループしたものだ。送った相手がなんとも思っていなければいいが。

 

 日本語のニュアンスの他にも、単語の読み方をよく間違える。

 高三まで「字幕」「じぼ」と読んでいたし、「好々爺」「すきすきじじい」と読んでいた。

 最近にも紀伊國屋「きいくにや」と読んでしまって、それを友人に指摘された。

 英語やドイツ語はもちろん、日本語さえまともに読めない。

 自分の間違えを、逐一誰かが訂正してくれるのはありがたい。

 そのままずっとバカを晒すより、その場で正しい読み方を教わった方がよっぽど効率的だ。

 私は小学生の頃から分からない漢字は辞書を引くことなく、なんとなくでその読み方を想像して黙読していた。

 おかげで読書は嫌いにならずに済んだが、その弊害が大学生となった現在に現れている。その時その時で、細かく正しい読み方を学んでいくしかない。

 

 英語の早期教育が唱えられる現在、日本語さえも使いこなせない人は結構な人数いると思う。

 私だって、日記を習慣づけていなかったら、マトモに自分の意見や考えを文章化することすら困難だったかもしれない。

 日本語はスポーツと同じで、日々鍛えることでその技量を増すことができる。

 文章力に不安のある人は、是非とも日記を始めることをオススメする。

 というか、私が人の日記を読みたいだけである。

 恥ずかしいラインを送ることも、変な音読をすることもない、素晴らしい日本語ライフを送りたいものだ。

「いじめ」を考える

10/4 晴れ

 

 10月が始まり、日記はサボり、満月は登り、時は流れる。

 ノーベル賞の季節だが、まるで今回は心理学と関連した話題が出てこない。強いていうなら「体内時計」だろうか。

 ノーベル賞にも心理学の部門を創設してほしい。数学とは違い、ノーベルは心理学に対する怨念がないはずだ。そろそろ心理学にも、れっきとした科学の光を当ててやってほしい。

 もし今の状況で、心理学でノーベル賞を獲るなら、「心の理論」や「ミラーミューロン」くらいだろうか。

 ロジャーズが平和賞を貰いかけた「エンカウンターグループ」が成功すれば、平和賞も獲得できるかもしれない。もしくは自らの文筆で「夜と霧」のようなものを完成させて、文学賞を狙うかである。

 ノーベル賞は毎年数人しか選ばれない非常に狭い門だ。固執するのは良くないだろう。

 でも、やっぱりノーベル賞を獲得して周囲からチヤホヤされたいのだ。

 

 大学に入学してから、『いじめ』の経験者に何人か会った。

 私が中学生だった頃にも、何人かいじめられっ子がいたので、いじめの経験者に会うこと自体は珍しいことではないだろう。

 彼らを助けようという気は当時の私には毛頭無かったが、なんとなくいじめっ子が気に入らなかったので、学校裏サイトを創設して、彼らのグループを疑心暗鬼に陥れ、貶めようとしたことがあった。

 結果、彼らに胸ぐらを掴まれたり、殴り合いの喧嘩になったりしたのはまた別の話だ。

 現在は、私が彼らよりも社会的地位も知能もバイタリティも性格も金銭的な羽振りも、全て上位に立つことができているので、非常に気分がいい。

 低学歴ヤンキーは死ぬまで地元を愛して、将来が報われない子供を育て、子孫代々ブルーカラーとして細々と生きていくがよい。そう、心の中でほくそ笑んでいる。

 昔の私はクソガキで狂犬だった。改めて、そう思う。それは今も変わらないのかもしれない。

 

 いじめの問題は、昔から異論されているのにもかかわらず、全く解決していない。環境問題の方がまだ幾分はマシである。

 いじめが原因の自殺というのは、未だに多い。

 事故や病気を差し置いて、学校での問題は中学生の死因の第一位となっている。

 そろそろ、本気でいじめの問題を解決しなければならない。

 子供への曖昧な呼びかけは、明日にも自分を殺すであろう子供には届いていないのだ。

 

 いじめに対する教育学からのアプローチは散々これまで行われてきたので、今日は比較行動学の視点から、いじめという問題を眺めていきたい。

 ヒトに一番近い動物であるチンパンジーや、その他のサルには、人間と同様のいじめの行動が見受けられる。

 人間の場合もサルの場合も、いじめの原因は個体間のトラブルである。特に、人間の場合は、いじめの被害者となる個体が気づかない些細な出来事がいじめの原因となり得る。

 

 サルのいじめは、個体間の諍いを解決するための手段の一つに過ぎない。

 食料の豊かな地域に住んでいる「ボノボ」と呼ばれるチンパンジーの仲間は、争う理由が非常に少ないので、いじめ行動を起こさない。争いが起こっても、個体間の毛づくろいや性行為ですぐに仲直りしてしまう。

 一方、食料の少ない地域に住んでいるチンパンジーは、同じ集団の子供を大人が殺したり、いじめといった暴力的な行動がよく見られる。

 他のオスの子供を殺したり、集団内の下位オスを上位オスが虐げたりした方が、限られた資源の元では、上位オスが集団内で自分の遺伝子を残せる可能性が高まるからだ。

 資源が豊富なボノボでは、争うよりも協調的な行動が、資源が乏しいチンパンジーでは、攻撃的な行動が適応行動となる。こうして、それぞれの形質が子孫へと引き継がれていくのだ。

 以上の法則を教室の中に当てはめると、上位オス、つまりいじめっ子を排除すれば、いじめは起こらなくなる。

 実際に、サルの上位オスが火事で死に絶えた集団では、温厚な個体が残り、その後一切攻撃的な行動が見られなくなったという研究もあるくらいだ。

 あとはいじめっ子の家庭が豊かになるだけである。これで資源の問題もバッチリだ。はい解決!!!

 

 

 言うまでもなく、そんな簡単にこの法則を適応できるわけがない。

 いじめっ子をガス室送りにすることは不可能であり、ヤンキーの家庭が貧乏スパイラルから抜け出すことも容易ではない。

 何より、人間はただのサルではない。少なくともチンパンジーより複雑なサルである

 人間のいじめは攻め、受けの関係が頻繁にひっくり返るということが知られている。これはサルのいじめに見られない特徴だ。社会性が極端に発達した人間ならではの特性だろう。

 そもそも、チンパンジーのいじめ行動が遺伝に関するものだとしても、人間のいじめもそうだとは限らない。いじめっ子への社会的影響を加味する必要がある。

 いじめの問題は、教育学のみならず心理学、比較行動学、政治学など、様々な学問からのアプローチがなければ解決しないだろう。どうりで、現在もなおいじめが消滅していないわけだ。

 

 26世紀青年という、アメリカのB級映画がある。

 富裕層は数少ない子供を大切に育てるが、貧困層は子供を多く産む。その結果、26世紀にはアメリカはバカで溢れてしまった、という内容だ。

 まさしく馬鹿げた話だが、決して笑い飛ばしてはならない薄ら寒さを、この映画からは感じる。

 貧富の差と、それによって起こる問題というのは、現に私たちが直面している脅威だからだ。

 いじめも、貧富の差と大いに関係のある問題である。

 私立校の方が公立校よりいじめが少ないというのは、周知の事実である。

 子供の命を守るには、ブルーカラーのヤンキーたちにも協力してもらう他ない。

 だがそれも困難だろう。

 私を含め大人には、格差に対する優越感、自業自得だという信念が深く根付いているのだから。

 共産主義国家にでもなれば、少しはいじめもマシになるのかもしれない。いじめより多くのものを失うだろうが。