きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

成人式

2/13 曇り

 

 久しぶりの日記。

 更新が滞っていたのは、テストで忙しかったり、モンハンにハマっていたりしていたからだ。

 世間ではオリンピックが始まったり、様々な出来事が起きているが、それらについて何も書き記すことなく日記の更新が止まっていた。

 

 文章を書くことを一度やめてしまうと、再び書き出すことが億劫になる。

 何事でも、継続させることは難しい。

 文章を書くリハビリがてら、また日記を再開したいと思う。

 

 

 ブログという形で公開するかどうか悩んでいたが、成人式で感じたことについて書こうと思う。

 去年、「成人式に行くのが嫌な理由」というタイトルで日記を書いた手前、けじめをつけなければならない、とも感じたからだ。

 もしかしたら、このことについて書き渋っていたせいで、ブログの更新が滞っていたのかもしれない。

 そのくらい、成人式について自分が気持ちの整理をつけるのには時間がかかった。

 

 

 成人式の日。直前まで私は行こうか行くまいか考えていたが、結局行くことにした。

 今も親交のある中学校からの友人と二人で会場である地元の中学校へと向かった。

 普段、身だしなみを全くと言っていいほど気にしない私だが、成人式には流石に格好を小綺麗にしてから臨んだ。

 

 会場へ着くと、いくらか見覚えのある顔があった。

 と言っても、中学校を卒業したのが約五年前なので、曖昧な記憶を辿りながら、比較的仲の良かった人たちに話しかけた。

 話しかけたはいいものの、相手には自分が誰なのか気づかれていなかった。

 怪訝な態度で皆接してくる。

 身長が卒業してから三十センチ近く伸び、声も低くなり、メガネからコンタクトに変えていては、私が誰なのか分からないのも当然と言えばそうである。

 自分の名前を出すと、ようやく私のことを思い出してくれたのか、態度が比較的軟化した。

 

 卒業から五年も経てば、マイルドに言って、同級生の格好はバリエーション豊かになっていた。

 エグザイル風の男から秋葉原の量産型オタクのような見た目の男まで、見た目は様々である。

 女子の格好は振袖で統一されていたので、それぞれの違いは目立たなかった。

 だが、細かいところまで目を配ると、厚化粧であったり、黒いマスクをつけていたり、清楚系とギャル系に大きく二分されているように見えた。

 こうすると、いかに公立中学校という場が多様な社会階層のごった煮なのかよく分かる。

 成人式を機に、私たちの道が交わり合うことは二度とないだろう。そう思った。

 その方がいいのかもしれない。

 

 意外と成人式はすんなり終わった。

 式の後、もともと私が所属していた男子バトミントン部の有志たちで昼食を取りに行った。

 男子バトミントン部の人だけを見ても、昔から変わらない人と、落ち着いた性格になった人がいた。

 もともと大人しかった人が、よりダウナー系になっているような気がした。

 男子バトミントン部の面々と話していると、徐々に妙な違和感に襲われていった。

 まるで、私に向けて発した言葉でも、私に向けてその言葉が届いていないような、そのような違和感だ。

 私もそれに対して受け答えするのだが、少々手応えがない。

 言葉の芯を掴めていないような気がした。

 

 ご飯を食べ終わった後、成人式に一緒に来た友人はカラオケに誘われた。

 私は誘われなかった。

 カラオケに行っても、レポートを全て終わらせられるほどの余裕はあった。

 だが、「レポートをやらないといけないから」と、私は誰に言うでもなく嘯いた。

 そして、口元をぎこちなく歪ませ、下手くそに笑った。

 ここでカラオケに乗り込むほどの積極性や厚かましさを、私は持ち合わせていなかった。

 こういう笑みを浮かべるのは本当に辛い。

 「二度と会うことはないかもな」と、かつての部員におどけてから、帰路に着いた。

 

 家に帰ってから、違和感の正体について探った。

 その結果、皆の言葉は中学生の頃の私に向けたものであって、現在の私に向けたものではないということを発見した。

 

 かつての同窓の人々は、中学生の頃の私に対して接するように、今の私にも接した。

 しかし、皆がこの五年で変わったように、私も変わってしまっていた。

 そのイメージの齟齬が、会話での違和感を生んだのだと気付いた。

 中学生の頃の私は、確かに今よりも碌でもない人間だった。

 五年という歳月による周囲との解離よりも、過去の自分との断裂を強く感じ取った。

 

 

 以上が成人式の感想のようなものである。

 やはり日記はいい。

 ウジウジと考えていたことを書き留めると気分が爽快である。

 

 たった三年という月日で、人は恐ろしいぐらいに変わってしまう。そして、大抵は悪い方へと変わってしまう。悪化してしまった同級生。そして、彼らを通して悪化してしまった自分を直視するのは、なかなか勇気のいることだ。

 

 去年の私はこのようなことをブログに書いている。

 少なくとも、私はこの五年でより良い方向へ向かっているようだ。

 知識を蓄え、交友関係も主観的には充実したものになり、将来の目標も定まりつつある。

 中学の頃の私に笑われないよう、これからも進んでいきたいものだ。

 次の五年が楽しみである。

 

 

 最後に「成人式に行くべきかどうか」というよくある議題に、自分なりの答えを出しておきたい。

 ズバリ、「どちらでもいい」である。

 私の中学時代の友人にも、成人式に来ていなかった人たちは結構いた。

 彼らの「成人式に来ない」という決断は一人の二十歳の人間の選択として尊重されるべきだと私は思う。

 人は一人でに育つ。

 成人式に行ったか行かなかったかに関わらず、大人への第一歩は祝福されるものだ。

 そうすると、結局はどちらでもいいのではないか、と思う。

 アンサー、「どちらでもいい」。

 また曖昧な結論に終わってしまった。

 折衷案はいつも不人気である。

 全国の二十歳に幸多からんことを。

 平昌で活躍する同年代の選手を見ながらそう思う。

 

未来

12/31 曇り

 

 2017年も今日で終わり。

 一歩も家から出ない年末だった。来年から本気を出したい。

 

 来年度は英語力の底上げを目指したい。

 ついでに、論文をスラスラと読めるになりたい。

 

 一年という区切りは、惑星の公転を基にした時間の区切りにすぎない。

 無情に時間は過ぎ去るものだが、カントの言う通り自律によって人間は時間を統制することができる。 

 

 希望のゼミに入ることもできたし、十分に勉強をすることのできる環境は整っている。

 私が何もできずに朽ち果てるか、何かを成すことができる変態となるかは、来年度の働きが大きく関わってくるだろう。

 私はまだ若い。できることは、沢山ある。

 

 

 来るべき成人式に備えて、小中学校の頃の卒業アルバムを眺めている。

 

 「成人式には行かない」と去年のブログには書いたが、気が変わった。

 20歳を目前に控え、ここらで愚かな自分の過去を清算しておくのも悪くない。

 

 高校から大学へと、中学校までの私の性格は消え去ったも同然である。

 しかし、成人式で出会う同級生たちは、私に対する昔のイメージのままで接してくるはずだ。

 それにうまく対処するため、昔の自分がどのような者だったのかを卒業アルバムを見ることによって思い出そうとしているのだ。

 

 中学校の頃の私は一体どこに行ってしまったのだろうか。

 いや、どこにも行っていないはずだ。

 確かに、子供の頃から脈々と続く『何か』が私の中にあるのだろう。

 それは記憶だろうか、臓器だろうか、それとも遺伝子だろうか。

 実際は、それらの他にも色々付け加え、混ぜ合わせたものを幼少期から受け継いできたのだろう。

 人間は単なる遺伝子の運び手でも、ミーム・マシーンでもない。

 

 

 卒業アルバムをめくっていると、自分が昔書いた作文を見つけた。

 文章はほぼ箇条書きをつなげたものに近く、まるでやる気が感じられなかった。

 内容はもちろん無い。最低限先生に与えられた文字数制限だけはクリアしようという心意気だけが伝わった。

 

 ブログやレポートを書きまくっている今からは想像も出来ないが、小中学校の頃まで私は文章を書くことが大嫌いだった。

 自分の書いた文章を誰かが読み、薄情な評価をされたり、軽蔑されるのでは、という恐れが常にあった。

 

 実際、このブログを始めた動機の一つが「自分の主張を語る勇気を持つ」ことだった。

 その結果、今年は地震のブログでの言説を巡っていくつかトラブルと遭遇したが、後悔はしていない。

 公に自分の考えを主張することは、批判を受けることよりも価値がある。

 好き勝手な文章をブログに書き込むようになってから、精神状態も非常に改善した。

 言論の自由のありがたみを私はつくづく思い知った。

 

 まあ、こんな文章を半分実名のような形でインターネットに書き込むことができるのは、学生のうちで最後だろうが。

 そのうち完全に匿名に移行しなければ、とも思う。

 

 

 卒業アルバムによく書き込まれがちな、将来の夢もアルバムに書き込まれてあった。

 

 小学校ではサラリーマン、中学校では公務員だった。

 今の私とは違い、超安定志向である。

 

 今ではサラリーマンも、公務員も安定的な仕事と思うことができなくなってしまった。

 今の私にとっては、どちらも場合によっては低給で休みが少なく、単調でやりがいの無い仕事だ。

 

 最近、語学のテスト勉強だったり、とにかく単調な作業が嫌になってきた。

 自分の頭を働かせ、何かに打ち込んでいる方が精神的には楽だ。

 

 こうして見ると、本当に昔と現在の私はまるで違う。

 思考回路からして違う。どこか昔の私は、謙虚で弱気だ。

 私の傲慢は一体どこからやってきたのだろうか。

 宇宙から来ていたら面白い(面白く無い)。

 

 

 大晦日の今日に、母親に大学三年生になったらインターンシップをするように言われた。

 両親は私が研究職志望であることは承知のはずだが、「社会を知った方がいい」と言われた。

 

 絶対に嫌だ。社会のことなど知ったこっちゃない。

 社会など、人間にも似つかぬ感情を失くした魑魅魍魎が跋扈する場所に決まっている。

 そんなところに行って一体何を知れというのだろうか。

 死ぬ物狂いでインターンシップを回避する予定である。

 

 2018年、金こんにゃく氏の未来は暗い。

 インターンシップによって来年ごろには、今年の私は小中学校の頃の私と同じように息絶えてしまうのだろうか。

 社会を知って、謙虚になどなりたくない。

 

 己の引きこもり精神と傲慢さを賭けた一年が、今まさに始まろうとしている。

 

 

 今年は皆様ブログを読んでいただき、ありがとうございました。

 それでは、良いお年を。

 

「ビリギャル」と「ビリオタ」

12/26 曇り

 

 クリスマスが平穏に終わった。

 今年はイブにプラカード持ちのバイトをしていた友人に会い、次の日はタイ料理の店に行き、平年に比べて楽しい時間を過ごすことができた。10代最後のクリスマスにふさわしい。

 

 私はいつも読書よりも、友人との会話を優先するようにしている。

 立派な理由は無い。そっちの方が楽しいからだ。

 頭の体操にもなるし、人との会話の方が案外役に立つ情報を得ることもできる。

 孤独は退屈だし、酷く寂しい。

 今年のクリスマスは孤独でなくてよかったと、心からそう思う。

 

 

 「ビリオタ」を書いてから、ちょうど1週間くらいになる。

 いくつか端折った場面はあるが、あれは全体的に一応実話である。

 

 「綺麗な話じゃ無いじゃないか!」と読んだ人が感じたのなら、それは私の受験や生活そのものが汚れているせいであって、読者の感受性がひねくれていることは一切ないので安心してほしい。

 そろそろ自分の行動を顧みて、綺麗な思い出を作りたいものだ。

 

 

 「ビリオタ」を書くに当たって、私はこれまで読んでいなかった「ビリギャル」を最初に読んだ。

 

 今更説明は不要かと思うが、「ビリギャル」はお嬢様学校に通っていたギャルが、そのうち清楚な服装をするようになり、慶應義塾大学に最終的に合格する話である。

 よくできた成功談だ。この物語に勇気をもらった受験生はそれなりにいるだろう。

 

 名前をパロディーしたが、「ビリギャル」と「ビリオタ」で違う点というのは結構存在する。

 中でも一番大きな違いは、いかに高校生活でこの二人が腐っていったか、ということだろう。

 

 「ビリギャル」は不真面目な友人に囲まれ、未成年飲酒や喫煙を繰り返し、勉学を放棄し、典型的な不良・ギャルとして腐っていった。

 一方、私はネットの大海で沐浴しながら、勉学を無視してオタク知識を頭に詰め込んでいった結果、徐々に腐っていった。

 

 「ビリギャル」は周囲の目に見える形で腐っていったが、「ビリオタ」は人知れず静かに腐っていった。

 そこが「ビリギャル」と私の、一番大きな違いだと考えている。

 

 「ビリギャル」には、学校の教師に「君はね、人間のクズだよ」と罵られ、激昂するシーンがある。

 私が同じことを高校時代に言われていたとしても、激昂できた自信がない。

 

 少なくとも高校時代の私なら、ニヤケ面を晒しながら「何言ってんだこいつ」という視線を教師に投げかけていたであろう。

 

 怒ることができるぶん、「ビリギャル」の方が救いがあるだろう。

 怒りというエネルギーを放出できるなら、まだまだ未来は明るいからだ。

 軽蔑に対して感情の波が立たないのは、本当にピンチである。

 まぁ、高校時代の私なのだけれども。

 

 

 「ビリギャル」の概要は知っていても、「ビリギャル」のその後を知る人は少ないと思う。

 

 「ビリギャル」は慶應義塾大学総合政策学部に合格した後、6万円かけて付け毛などをして、容姿を元のギャルに戻した。

 大学入学後はかの悪名高い広告研究会に所属し、サークル活動に勤しんだらしい。

 落単を繰り返し、留年ぎりぎりで卒論を書くことなく卒業し、最終的には大きなブライダル会社に就職した。

 その後、2年半でその会社を辞め、別のブライダル会社に就職。

 下北沢で居酒屋の店長をしている男性と結婚し、今に至る。

 

 「ビリギャル」のその後は「ビリギャル」ほど、輝かしい人生ではないのは一目瞭然である。

 慶応の広告研究会といえば集団強姦事件で有名だし、2年半で退職というと就職が失敗したように受け取れるし、下北沢にはホモしかいない。

 

 どう考えても、「ビリギャル」のストーリーに比べれば、その後の生活は見劣りする。

 

 要は、どこで区切って一つの物語にするか、ということである。

 「ビリギャル」は低偏差値の不良から慶應義塾大学に合格するという人生の一部を区切って、素晴らしい物語に仕立て上げたものだ。

 

 私だって、偏差値35の状態から3ヶ月程度勉強して関西学院大学に合格した。これでも宣伝文句にはなるであろう功績だと思う。

 私の大学受験も、一つの立派な物語に仕立てあげることができるだろう。

 

 だが、私がオカズをマイナーにしていき、どこのラインまで自慰行為に耽ることができるかという物語を仕立て上げたらどうだろうか。

 おそらく、売れない。ごく一部には需要があるかも知れないが。

 

 「ビリギャル」も、そうである。

 大学入学後のエピソードを「ビリギャル」に掲載していたら、売れ行きに多少の変化が見られたかも知れない。

 

 区切りによって、物語とそれに関わる人への印象は大きく変わる。

 「ビリギャル」がギャルのままであったら、彼女をクズと罵倒した教師にも多少の共感が集まったかも知れない。

 

 

 ある人生の一部で「ビリギャル」は勝者だった。

 ある人生の一部で「ビリオタ」は敗者だった。

 

 「ビリオタ」の最後にも書いた通り、勝者の物語も、敗者の物語もその後続いていくのだ。

 

 生きている限りは前へと進んでいくしかない。

 

 「ビリギャル」には「関西学院大学なんて慶應義塾大学の滑り止め、入試は楽勝だった」という記述があった。

 

 それを「ビリオタ」である私が読んだ時、無性に腹が立った。

 形容しがたい悔しさが、心中に立ち込めた。

 

 大丈夫、今は怒りが湧くようだ。そう自分に言い聞かせる。

 

 拝啓、「ビリギャル」こと「さやか」さん。

 私は敗者らしく、これからも頑張っていきます。

 大学受験や、編入試験が人生の目標ではないのですから。

学年ビリのオタクが1年で大阪大学の編入試験に不合格した話 後編

 試験日の直前に、文化祭があった。

 

 大学の文化祭は高校に比べてやたらと豪華だ。出店は多いし、四日間もあるし、芸能人も来る。

 

 だが、そんなことは今年の私には関係なかった。

 

 文化祭の期間中も、図書館に籠りっぱなしだったからだ。

 

 いや、去年の文化祭も図書館に籠りっぱなしだったが。それはそれで悲しい。

 

 周りが賑やかだと、孤独は加速する。

 

 文化祭の四日間は、夏休みよりも精神面では辛かった。

 

 試験のプレッシャーと、疎外感が重くメンタルにのしかかった。

 

 そんな時、私が勉強しているところに友人二人が訪れてくれた。

 

 正直、嬉しくて泣きそうになった。嬉し泣きしそうだったのは生まれて初めてのことだ。

 

 たとえ、サークルの売り込みだとしても、とても感動した。

 

 二人に頼んで、サークルの出していたタコ焼きの乗ったせんべいと、他サークルのコーラフロートを図書館まで取ってきてもらった。

 

 すっかり冷めてしまった冷凍食品のタコ焼きは、絶妙に微妙な味がした。

 

 

 文化祭の後、試験日がやってきた。

 

 皆にとっては祭りのあとだったのだろうが、私にとってはこの時点で焦っても、後の祭りである。

 

 これまで学んだことの軽い復習をして、テスト会場までの電車内の時間を過ごした。

 

 試験時間の1時間ほど前に大阪大学人間科学部棟に着くと、もうすでにかなりの人数が建物の入り口近くに集まっていた。

 

 私が着いた後も、受験生は続々とやってきた。

 

 そのほとんどが親に付き添われ、タクシーでやってきていた。

 

 大阪大学レベルになると、編入試験であっても全国から受験者が来るのだろう。

 

 受験者はほとんど「中央ゼミナール」だの、「EEC編入予備校」だの、編入試験に対応した予備校のファイルを持っていた。

 

 ファイルには過去問がぎっしりと詰まっている。

 

 この試験に賭けているものが違う、と私は思った。戦慄した。

 

 また、子供を連れずに母親一人が試験会場に来ていると思ったら、その人自身が受験生だということもあった。

 

 編入試験には受験年齢の制限は特といって無いので、大学生だろうが老人だろうが受験することはできるのだ。

 

 歳を取っても勉強をするため編入試験を受ける。この心意気には尊敬の念を抱いた。

 

 だが、試験で負けるつもりは毛頭無かった。

 

 19歳だろうと50歳だろうと、ここに来るまでやってきたことでぶつかり合うのみだ。

 

 

 会場の指定された座席に座ってから、すぐに最初の英語の試験が始まった。

 

 配られたプリントが薄っすらと透けて、長文の量が見えた。

 

 私の持っていた過去問の英文の、4倍くらいの量があった。

 

 試験開始の合図とともに、問題用紙を表に向ける。

 

 手が湿っている。やけにうまく用紙が摘めた。

 

 いざ、英文を読んでみる。

 

 「難しい」と、素直に思った。

 

 めげずに、うまく和訳できるように努める。

 

 回答用紙が手汗で湿って、シャープペンシルで書いた文字が薄くなった。

 

 意識が飛びそうになった。

 

 

 自身の英語力の無さを痛感したまま、英語の試験が終わった。

 

 気分転換を図るため、休憩時間に会場の外へ出た。

 

 遠くに太陽の塔が見えた。太陽の塔の、背中の黒い顔がこちらを静観していた。

 

 「岡本太郎は阪大出身だったっけ」と、まとまらない思考を宥めながら会場に戻った。

 

 

 小論文の試験は上出来であった。

 

 レポートに励んだおかげか、贅肉の無い良い文章が書けたと思う。

 

 問題形式があまり過去問と変わらなかったこと、日頃から考えている「世間」についてなどの問題が出たことが良かった。

 

 小論文のおかげで、なんとか心の平静は保つことができた。

 

 

 昼食をとってから、専門科目の試験が始まった。

 

 自由論述の小論文では、学習と遺伝が行動にどのような影響を及ぼすのかを問われた。

 

 これには、ローレンツの刷り込みや、観察学習や洞察の実験の例を出して論じた。最低限のことは書けていたと思う。

 

 単語の意味を問われる問題では、t検定といった統計の用語や、愛着などについて問われた。

 

 これらも、自分の持てる知識を活かして、よく書けたと思う。

 

 問題が記述式だとすぐに試験時間は終わる。この試験も、その例に漏れなかった。

 

 自分の斜め前に、先ほど見かけたご婦人が座っていたので、試験終了後に回答をちらりと見た。

 

 恐ろしいほどの文量の小論文を回答用紙に書いていた。

 

 負けたと、シンプルに思った。

 

 

 三教科の試験を終えて、残すは口頭試問のみとなった。

 

 試験前にトイレに行っておいた。

 

 すると、隣に教授らしき人物がやって来て、小便をし出した。

 

 アイドルでは無いが、教授がおしっこをする場面は、これまでイメージをすることがあまり無かった。

 

 小中高と、トイレが生徒用と教師用で分けられ、教師の小便を見かけることがなかったからだろうか。

 

 こうして見ると、教授もなんの変哲のないオッサンのようだ。

 

 しかし、その禿げかけた頭は明晰で、膨大な知識が詰まっているのだろう。

 

 

 口頭試問の待合室に入ると、受験する順番が黒板に張り出されていた。

 

 確認すると、私がトップバッターであった。慌てて志望理由書を見直した。

 

 そのうち私の名前が呼ばれたので、口頭試験が行われる教室に急いだ。

 

 教室に入ると、7人ほどの先生がいた。

 

 顔を見渡すと、自分の志望している研究室の教授がいる。

 

 口頭試験の教室は二つある。おそらく志望分野で試験の教室が分けられているのだろう。

 

 一礼してから席に着くと、口頭試問が始まった。

 

 最初に、自分が志望している分野と、入学後に何がしたいかを3分以内で説明するように伝えられた。

 

 私は全く面接の練習をしていなかった。ぶっつけ本番だ。

 

 腕時計をちらりと見てから、はっきりとした声が出るように努めて説明をした。

 

 正直、緊張しすぎてイントネーションが所々おかしくなっていた。

 

 一通り説明を終えたので、腕時計を見た。秒針を確認する。

 

 あれ、どの時刻から説明を開始したっけ? 

 

 鳥肌が立った。

 

 かといって、これ以上説明をすることもなかったので、「以上です」とだけ、私は少し小声になって答えた。

 

 その後は志望分野に関連する本はどのようなものを読んだのか、不登校支援の経験がどのように現在につながっているのか、心理学検定を取ったことなどを尋ねられた。

 

 それぞれ、しどろもどろになりながらも必死に答えた。

 

 緊張しすぎて、それ以上のことは覚えていない。

 

 ただ、一人の教授が隣の教授に「この子が合格してきても大丈夫ですか?」と囁きかけたことは記憶している。

 

 囁かれた教授は小声で「ウン」と答えた。

 

 どういう意味なんだこのやり取りは。私は気が気でなかった。

 

 

 口頭試問が終わると、そのまま帰宅することを指示された。

 

 私はツイッターに試験が終わったことをツイートし、親にラインをしてから、大阪大学の近くにあるエキスポシティに向かった。

 

 エキスポシティにあるゲームセンターで軽く音ゲーをして、試験後の気分を発散しようとした。

 

 英語の試験の不出来や、面接の緊張を試験後も引きずっていたからだ。

 

 軽く気分転換にはなったので、フードコートに寄って大きなハンバーガーを頼み、それに齧り付いた。

 

 戦いを終えた後の体に、旨味のある肉汁が浸透した。

 

 

 編入試験の合格発表は試験の4日後であった。

 

 大学入試と異なり、結果が出るまでの時間が短い。

 

 そのせいか、この4日はずっと緊張していた。

 

 寝不足にも、下痢にもなった。

 

 合格発表が近づくに連れ、自信がなくなっていった。

 

 

 結果発表当日、発表時間まで私はずっと図書館に籠っていた。

 

 本を手に取るが、気が紛れない。時計ばかり気にしてしまう。

 

 時間が経つこと認識すること自体が苦痛だったので、一眠りすることにした。

 

 イヤホンを耳に挿して目を瞑る。寝不足だったおかげか、すぐに眠りについた。

 

 

 目を覚まし、時計を確認する。合格発表の五分前だった。

 

 結果が発表されるページを検索し、更新ボタンを連打する。

 

 時間は早く経つもので、気がつくとサイトに「平成29年度合格者」のリンクができていた。

 

 震える指でスマートフォンをタップした。すぐにページが切り替わる。

 

 私は固まった。

 

 合格者が少ないせいで、私の合否はすぐにわかってしまった。

 

 そこに、私の受験番号はなかった。

 

 

 スマートフォンの画面を消して、重い深呼吸をした。

 

 間も無く、両親から慰めのメッセージが届いた。

 

 入試に落ちたことをツイッターに書き込むと、励ましのリプライがたくさん届いた。

 

 これを見て、少し元気になった。

 

 どこかで諦めていたのだろうか、不合格した時、それほどの衝撃はなかった。

 

 意外なほど無感触な敗北であった。

 

 先ほど述べたご婦人は合格していた。さりげなく、彼女の受験番号を確認していたのだ。

 

 「もう二度と、ご婦人には負けないぞ」と思った。

 

 幸か不幸か、私の勝負への熱意は冷めなかった。

 

 

 こうして、私の約1年に及ぶ受験勉強は幕を下ろした。

 

 だが、生活は続いていく。

 

 これまで何度も、大きな勝負に私は負けてきた。だからこそ、何事もなかったかのように日常が続いていくという、この奇妙な感覚を嫌という程知っている。

 

 受験後、私の試験勉強中に父方の祖母が乳がんになり、私に心配をさせてはいけないので、このことを秘密にしていたということを知った。

 

 それは、祖母の乳がんの手術が終わり、完治した後だった。

 

 「どうせそのことを知っていても、試験には落ちていた」と、私はふざけた風に笑った。でも、その気遣いは嬉しかった。

 

 受験勉強は、周囲の人たちから優しさを感じることのできるイベントでもある。

 

 そこまでの大ごとに挑戦しないと、優しさを感じることのできない私の感受性や人間性にも問題があると思うが。

 

 何はともあれ、結果が不合格で終わっても、得たものは多かった。

 

 学力は全体的に向上しただろうし、人からの温かいものを感じることもできた。

 

 何より、大学院試験という次の戦いへの準備にもなった。

 

 編入試験を受けて、後悔はしていない。

 

 

 勝者の物語は続いていく。

 

 敗者の日常は終わらない。

 

 大学受験が全ての終わりでなかったのと同じように、3年次編入の試験は終わりではない。

 

 もちろん、これは大学院試験にも言えることだ。

 

 敗者にできることは、次の戦いに備えて努力を続け、いつか自分が思うことを成し遂げることだ。

 

 重要なのは勝つことではない。どんなにプライドが汚れても、自分の夢を叶えることだ。

 

 諦めたくない、そんな泥臭い感情が肥料となり、人の夢を実らせる。

 

 夢が叶うまで諦め悪く努力を続ければ、その過程は無駄にはならない。

 

 

 これは、一人のオタクが「ゼッタイ無理」に挑んでみた物語だ。

 

 そして、奇跡は起こらなかった。

 

 編入試験という一章は、ここで終わる。

 

 だが、物語は終わらない。

 

 この未完の物語で、これからも努力を積み重ねていこう。

 

 それがいつか、奇跡に届くことを願って。

 

学年ビリのオタクが1年で大阪大学の編入試験に不合格した話 中編

 

 こうして、私は志新たに受験勉強を始めたわけだが、これまでの目を背けたくなる失敗を繰り返してしまうかも、という心配があった。

 

 大学生になってまで、時間を無駄にするわけにはいかなかったので、日常生活の根本から改革し、勉学に取り組もうと考えた。

 

 受験勉強を始めるにあたって、私が気をつけた点を以下に述べる。

 

 

 このたった三つである。

 

 とにかく、以前の失敗を顧みて、健康的で勉強に集中できるような生活を心掛けた。

 

 ニュートンは研究に全力を注ぐため、オナ禁は愚か生涯童貞を貫いたという。

 

 そのくらいの気概が私にも必要だと思った。

 

 1年間読書や勉学を積み重ねてきたのだ。今回こそは受験に成功するだろう。

 

 そんな、これまで努力に裏付けられた自信が心中にあった。

 

 

 3年次編入は情報戦である。

 

 情報を多く取り揃えたものが勝利する。そんな記述をインターネットの海で見かけた。

 

 全くその通りだと思った。まずは相手を知らなければ話にならない。

 

 私には、編入試験についての知識が明らかに不足していた。

 

 受験勉強を始める際、まずは情報を集めようと思い立った。

 

 

 とりあえず、入試験の問題が分からなければ対策のしようがないので、大阪大学に過去問を取りに行くことにした。

 

 大阪大学では、大学院試験や3年次編入試験の過去問をそれぞれ一年分だけ配布している。平日限定である。

 

 人間科学部の棟に着いた後、2階の受付に行って過去問の見本を貸していただいた。

 

 「これを近くのコピー機で印刷し、返却してください」と、懇切丁寧に伝えられた。

 

 私はビビリなので「もし他大学の学生だとバレて、冷たい視線を向けられたらどうしよう」と思いながら行ったのだが、見事に杞憂であった。

 

 

 受験教科は英語、小論文、専門科目の三教科である。

 

 この順番で試験が行われ、3教科が終わった後に口頭試問、つまり面接がある。

 

 

 英語の問題はどこかの専門書や、論文から引用してきた長文が用いられていた。

 

 一つの大問に二問ずつ和訳や日本語での説明を求められる問題があった。

 

 長文の量はそこまで多くはなく、大問一つあたり250語くらいであった。

 

 長文の話題は介護ロボットの是非やレジリエンスの説明など、やはりというか、社会科学に関連したものばかりであった。

 

 

 小論文の問題も、英語と同じく社会科学系のトピックであった。

 

 ただ、英語と違い日本語であるぶん、文章の内容の難易度は高く、人間の認識やクオリアについて問われるなど、人文・自然科学の基礎的な知識も求められるものだった。

 

 大問は二つで、それぞれ小問が一つずつ。

 

 内容は、要約と自分の考えを述べるというものだ。典型的な小論文の問題だった。

 

 

 そして専門科目である。

 

 大問は二つであり、一つが自由記述式の小論文、もう一つが語句について説明する小問が五つあるものであった。

 

 自由記述の小論文は、人間が新奇な環境に適応することを行動学的立場から説明することが求められ、漠然とした問題にどう自分の論を組み立て論じて行くかが鍵になっているように思えた。

 

 一方、小問では幅広い心理学の領域から単語が出題されており、中には「ツァイガルニク効果」など、相当その分野の詳しい知識がないと説明することができないような言葉もあった。

 

 

 過去問が1年ぶんしかないのは少し備えに不安があるように思えたが、問題形式がわかっただけマシであった。

 

 問題形式が分かれば話は早い。

 

 英語は短めの長文を読解し、和訳する練習をすればいい。

 

 小論文はこれまで通り読書で幅広い分野の知識を養い、論理立てて文章を書く練習をブログなどで行う。

 

 専門科目は小論文の練習とともに、心理学の知識をさらに培っていけばいい。

 

 少し視界が開けたように思えた。

 

 

 では、口頭試問はどのようにこなせばいいのか。これがいちばんのネックだった。

 

 面接で何が聞かれるのかは大体見当がつく。

 

 「大学に入学できたら何を勉強したいか」、「なぜこの分野に興味を持ったのか」、「これまでどのような本を読んできたのか」、そのようなことを、おそらく聞かれるだろう。

 

 口頭試問は志望理由書に基づいて質問が飛ばされるのだろうと、私は予想した。

 

 志望理由書とは、願書を出すときに併せて、自分の出願への経緯を載せて提出する用紙のことである。

 

 この用紙に、自分の志望分野や受験への想いを約600文字でまとめなければならなかった。

 

 これを作る過程で、大学入学後のことや、自分の興味関心についての自身の考えをまとめていこうと考えた。

 

 口頭試問の本格的な練習は、編入試験専門の予備校にでも入っていなければ、なかなかできないものだ。

 

 実際、このような予備校に入学し、大学や専門学校を半年から一年休学して編入試験に挑むものは多い。

 

 予備校のサイトで合格者を見ていると、大体がそのような者たちばかりであった。一方、私は休学することなく試験に臨むことになる。なかなかにこれは厳しい。

 

 口頭試問の練習ができないのなら、自分の考えをあらかじめまとめておき、本番に素直に答えて矛盾が出ないようにすればいい。

 

 自分の考えをまとめるため、志望理由書を私は利用した。

 

 志望理由書には以下のように書いた。全文ママである。

 

 私は、人間の集団内での規範意識について研究したいと考えている。いじめなど集団内で逸脱行動が発生する仕組みを探求していきたい。そのために、私は大阪大学人間科学部で、その研究に必要な知識や研究方法を学びたいと思っている。

 

 私がこのように考えているのは、大学一年生の時、不登校支援のボランティアを一年間したことがきっかけだ。私は初め、臨床心理士になることを目指していた。しかし、支援を行なっていくうちに、臨床的なケアだけでなく、彼らを不登校に至らせない環境を形成することも必要と考えるようになった。

 

 心理学検定一級を取得し書籍を読んでいくにつれて、社会心理学の領域に魅力を感じ、行動生態学にも興味を持つようになった。だが、現在の自分にはこれらの分野の知識が不足しており、現在の大学では学ぶことのできない知識を大阪大学で身につけたいと考えた。社会心理学の領域ではグループ・ダイナミクスなどの知見を参考にし、自分の研究を深めていきたい。また、行動生態学の領域では霊長類と人間の規範意識にどのような類似や差異があるかを研究したい。

 

 今後は大学院へ進学して博士号を取得し、将来は自分の蓄積した知見が学校制度などに反映されるよう社会に積極的に提案していきたい。

 

 志望理由書は、自分が心理学検定を取得し、これまで着実に行動科学の知見を積み重ねてきたこと、入学した暁には何を勉強したいかを、明確にアピールした。

 

 また、不登校支援から現在の関心に至るまでの経緯を短く、わかりやすくまとめることに徹した。

 

 

 これで試験への基本的な準備は整った。

 

 あとは出願し、本番まで勉強を続けるのみである。

 

 

 3年次編入を志し、過去問を取りに行ったのが春のことである。

 

 春から夏までは、各教科の基礎固めに力を注いだ。

 

 英語は高校時代に使っていたターゲット単語帳を引っ張り出し、それを何周もして大学受験以来記憶が薄れつつあった英単語を再び暗記していった。

 

 また、基礎英文問題精講を解き始めた。

 

 この問題集は本当にいい。英文読解の能力が気づかぬうちに跳ね上がっている。

 

 小論文は書き方を指南している参考書を数冊購入し、それを読んだ。

 

 それから、その本に書いてあった論理的な文章の書き方を参照しながら、ブログやレポートを書いた。理論&実践である。

 

 専門科目は東京大学出版会の「心理学」というテキストを購入し、それを読み込んだ。

 

 さらに、心理学検定受験の際に購入した検定の問題集や一問一答、心理学用語単語集を利用して学習を進めた。

 

 

 だが、夏休みに入ったあたりから、胸の中に不安が蠢き始めた。

 

 それは、自分が社会から隔絶されたように感じるという、孤独感そのものであった。

 

 ちょっと勉強をやめて、図書館から出てみれば、楽しそうなカップルや、遊びに明け暮れている同じ年くらいの大学生が沢山いる。

 

 これを見るだけでも、心が痛くなった。

 

 やはり、人間は楽な方に流されていく生き物である。

 

 この引力には逆らいがたい。しかし、私は逆らってしまった。

 

 逆らった先には、おぞましいまでの孤独感が待っていた。

 

 この時、私は浪人生のおよそ半分が、成績が向上しない訳を思い知った。

 

 かつて私が高校生だった時、成績の上がらない浪人生を笑い飛ばしたことがある。

 

 怠惰である、なぜ努力ができないのだ、と。

 

 経験して初めてわかること世の中には沢山ある。これも、その中の一つだ。

 

 なかなかに孤独というのは辛い。

 

 人間の心は、週囲の社会から外れて一人コツコツと何かを続けることには、とても向いてはいないのだ。

 

 

 大学が夏休みになってから、私はいよいよ完全に孤独になってしまった。

 

 孤立はしていない。友人がいるのだから。

 

 それを分かっていてなお、孤独は苦しいものだった。

 

 誰もいないキャンパスに朝から赴き、夕方まで勉強し、帰宅する毎日。

 

 こういうことを繰り返していると、人はダメになってしまう。

 

 私の思考は徐々にマイナスの方向へと向かっていった。

 

 生きる意味とは、己の使命とは、第二外国語を勉強する意味とは、なぜダンスサークルというものがこの世に存在しているのか、とくといって面白くもないお笑いサークルに人が集まるのはなぜなのか。

 

 

 不毛な思考の渦にぐるぐると巻き込まれていた時、友達に遊びに誘われたことは本当に救いになった。

 

 私は人から元気を吸収して生きている人間なので、たっぷり彼からは元気を吸い取らせていただいた。

 

 これには本当に感謝している。元気を吸い取れたことじゃなくて、遊びに誘ってもらったことに。

 

 勉強には息抜きが本当に必要である。何事もメリハリが大事である。

 

 

 こうして、どうにか精神を持ち直した私は夏休みに毎日受験勉強に励み、やがて新学期を迎えた。

 

 ここまでくると、遠くにあった試験がいよいよ見えてくる。

 

 九月の初め、願書を提出してからは、かなり内心焦っていた。

 

 この頃から大阪大学の大学受験過去問や、旧帝大レベルの英文の和訳問題を解き始めてはいたのだが、まるで編入試験に受かる気がしなかったのだ。

 

 これまでの受験が頭をよぎる。

 

 高校、大学まで、私は第一志望に合格したことが一度もなかった。

 

 思えば私のこれまでの短い人生は、敗北の連続であった。

 

 部活の試合もあまり勝ったことがないし、彼女がろくにできたこともない。

 

 常に、私は持たざる者だった。今回も私は敗北してしまうのか。

 

 焦燥にじりじりと、私の精神は焼かれていく。

 

 

 九月までくれば、もはや受験は耐久戦である。

 

 辛さはあったが、私はラストスパートに向けてエンジンをかけ始めた。

 

 試験日は11月7日。本番はすぐそばに見えていた。

モテないラベリング

12/5 晴れ

 

 突然に寒くなった。

 私は冬が嫌いだ。

 まず、寒いのが嫌いだ。これがけでも辛いのに、クリスマス、バレンタインデーと、全く私に関係のないイベントが連発する。こんなの嫌いにならないほうがおかしい。

 これらのイベントで街が盛り上がるたび、私は強烈な孤独を感じる。

 まるで、社会から自分が隔絶されてしまったような、刺々しい孤独である。

 私が非リアに孤独を感じさせる側になる日は来るのだろうか。

 寒くなると、人肌恋しくなってしまっていけない。将来はシンガポールにでも住もうか。

 

 自分の「モテない奴だ」という烙印を消そうと、最近頑張っている。

 私のモテない原因は、おそらくここにある。

 私のように傲慢であろうと、交際関係のある人間は腐るほどいるし、私以上の問題児でも付き合っている人間はごまんといる。

 しかし、それらの欠点に比べて圧倒的に、「モテない奴」というラベルをベッタベタに貼られている人間は、モテない。その男がいかに善良で素晴らしい人間であっても。

 いや、この男というのはもちろん私ではないが。

 誤解を解く注釈をつけておかないと、理不尽な非難にあってしまうということを、最近は再認しまくっている。

 

 「モテないラベル」の根は深い。

 

 その犠牲者は主に、

童貞であることを声高々に主張する者

・根暗なラノベ読者

・不潔な者

・欲のない者

 である。

 

 これらの特徴に当てはまったり、兼ね備えたりしたときに、「モテないラベル」は発動する。

 

 「モテないラベル」は言うまでもなく、物質ではない。

 周囲が「ああ、こいつはモテないな」と認識したときに、不可視の概念として「モテないラベル」は生成される。もはや一種のミーム災害である。

 「モテないラベル」の粘着力はアロンアルファを軽く捻り潰すレベルである。

 それこそ、そのラベルを貼られた環境では二度と恋愛できない程度には強力である。

 「モテないラベル」により、男たちの価値はジンバブエドルのように急落する。

 そんな男と付き合うことを女性は拒み、負のスパイラルが生まれていく。

 

 では、「モテないラベル」に冴えない男たちが対抗するにはどうすれば良いのか。

 まずは、まだ「モテないラベル」が貼られていない純粋無垢な男たちの対処法を紹介する。

 それは、先ほどの犠牲者の逆のようになればいいのだ。

 

 つまり、

童貞であることをわざわざ自らネタにしない

・明るいラノベ読みになる

・清潔感を保つ

・強欲な壺と化す

 ことである。

 

 高校時代、サイドブレーキのごとく自らのジョニーをいじくり回してきた隠の者でも、爽やかなオタクに変貌することができれば、恋愛することは難しくない。レッツチェンジだ。

 

 すでに「モテないラベル」を貼り付けられてしまった者でも、再び蘇ることは可能だ。

 

少しの期間、入居者(交際相手)を無理矢理にでも招き入れ、「モテないラベル」を消す

・別人に変貌するレベルで自分を取り壊し、美しくリフォームする

・時間の経過を待ち、別の環境で頑張る

・物好きな入居者を探す

 

 以上である。

 なんだか、事故物件への対処法みたいになってきた。

 

 モテないことは辛いことだ。

 同級生が冬のイベントを楽しんでいるのを横目で眺めるのにも、飽き飽きしてきた。

 むしろ、横目で眺めすぎて白目になった。

 私同様、モテない男たちにはこの冬こそ、頑張ってもらいたい。

 人肌に触れ合うことができず、厳しい冬を乗り越えられずに心が凍死してしまわないよう、努力してもらいたい。

 以上、なんのエビデンスもない恋愛講座でした。

 

土偶のエロス・一人焼肉・北野天満宮

10/21 雨

 

 今日は気分転換に京都に来た。

 現在開催中の国宝展で展示されている横山大観の「風神雷神」が見たかったということや、北野天満宮でおみくじを引きたいという目的もある。

 天気が良くないからこそ、人数が少ないということを狙って京都に来た。

 しかし、京都国立博物館は30分待ちの大行列だった。まあ、そういうこともある。英単語の勉強ができたので無問題。

 

 個人的な験担ぎで、私は受験のたびに北野天満宮に参拝している。

 高校受験も大学受験も、おみくじで大吉を引いたが第一志望には落ちてしまった。

 今回はあえて凶を狙う。大吉で落ちるなら、凶で受かる。

 これが、母数が2しかないクソのような帰納法から導かれた答えである。まるで頼りにならない。勉学の方がよっぽど信頼できる。

 

 京都国立博物館土偶を見て考えた。

 縄文時代土偶たちはみな「ボン・キュッ・ボン」な体型だった。エロい。

 縄文人は現代人の同じように、「ボン・キュッ・ボン」が好きだったのだろうか。

 多様化した文化を持ち合わせていなくても、エロスの感じ方が現代人と似通っているというのは、なかなか興味深い。

 エロは時空を超える。いつか「快楽天」などのエロ雑誌も、考古学的な資料になるのだろう。

 

 初めて一人焼肉に来た。一人焼肉は私の悲願である。

 一年ほど前、「孤独のグルメ」の実写ドラマで主人公が一人焼肉に訪れる回が放映されていた。この役者、普段は少食なのに、とても美味しそうに食べるのである。

 その回を見てから、無性に一人焼肉に私は行きたいと思うようになった。

 皆で食べる焼肉もいいが、一人焼肉も何だか満ち足りて幸せそうに思えて来たのだ。

 だが、なかなか一人焼肉に行く機会がなく、今日になってようやくその悲願が果たされることとなった。

 店を訪れ、ランチメニューを頼み、分厚いカルビを小柄な金網の上に置く。

 肉が焼ける小気味良い音が、私の食欲をそそった。

 辛めのタレに少し焦げ目が付いた肉を浸し、一気に頬張る。

 その瞬間、口内に旨味が溢れた。たまらない。

 肉が焼けては、次々と口の中に放り込む。うおォん、まるで私は人間火力発電機だ。

 結局、満腹になるまで焼肉を喰った。一人焼肉はやはり最高だ。社会からのやや冷たい目線を無視すれば。

 

 その後もホットケーキを食べたり、出町ふたばで豆餅を買い、緑寿園で黒豆紫蘇味という謎の金平糖を買ったりと、充実した1日だった。

 十分にリフレッシュできたので、心置きなく編入試験に挑戦できる。

 

 ついでに、北野天満宮のおみくじは中吉だった。学問の欄には「入学よし」の文字が。

 「いいよ」の「よし」か、「よしなさい」の「よし」か、それが分かるのは試験の出来次第である。結局は個人の努力ということだ。

 北野天満宮には受験を控えた高校生が多く来ていた。

 何となく、自分の受験期を思い出した。あの頃、私は自分が編入試験を受けるとは微塵も思わなかっただろう。

 未来の自分など知ったことではないので、せめて現在は努力を続けていきたい。