きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

はたらキング

4/7 曇り

 

 新年度になり、大学の入学式があり、愛犬は10歳になった。

 私もそろそろ新しいことを始めようと、着々と個別指導塾の講師や大学のラーニング・アシスタントとして働く準備を始めている。

 どちらの研修でも、私のこの世で一番嫌いなものである自己紹介を強いられたので、ここ数日は暗澹たる心持ちが続いている。

 

 自己紹介は本当に嫌いだ。

 吐き気がするし、手汗が止まらなくなるし、ただで遅い思考がさらに鈍くなる。

 春は自己紹介をする機会が多い。

 まだ学校も始まっていないので、ゼミなどの場で数多の自己紹介が待ち構えていると考えると、それだけでゾッとする。

 

 

 働く準備をしていて、働いている人ってスゲェな、と思った。

 正社員やアルバイト関係なく、働いているだけですごい。

 そのような感情が日に日に強まっている。

 

 それと同時に、自分の社会不適合者感にもうんざりしつつある。

 自己紹介一つも満足にこなせない、そんな現状に焦りを覚えている。

 こなせることと、こなせないことの差が、私の場合は大きすぎる。

 

 

 自分の社会不適合者要素は数多い。

 

 人間の集団が嫌い。

 なんの根拠もない言説を押し付けられ、思考停止を強いられるのが嫌い。

 実績も無く、年齢しか誇るものがないのにマウントを取ってくる人間が嫌い。

 怒鳴り散らす人間が嫌い。

 無意味な経験論を長時間講釈垂れる人間が嫌い。

 狂った社会のシステムが嫌い。

 

 こうして見ると、社会の何もかもが嫌いな気がする。

 

 

 私が研究者を志している理由の一つは、論理がしっかりと通っている世界に逃げ込みたいからである。

 自分の考えが論理以外の理由で犯されることなく、むしろ論理によって考えが論破されるなら、それに勝る幸福な環境はない。

 

 しかし、現実は学問の世界すら、アカハラがまかり通る修羅道らしい。

 また、自分が研究者になれるという確証は無い。

 前途多難である。

 

 

 ともかく、私は人間の集団が嫌いだ。

 これは、社会そのものが嫌いだと言い換えてもいいかもしれない。

 

 別に人間自体は嫌いじゃない。

 むしろ好きな方だ。

 人と話すのは楽しいことだし、得られるものも多い。

 

 だが、それが集団になると話は別である。

 私が集団を嫌っているのは、これまで良い集団と出会わなかったからかもしれない。

 もしくは、私の価値観が碌でもなさすぎて、どの集団とも適合しなかったからかもしれない。

 イソップ童話の「狐と葡萄」みたいだが、後者の方があり得そうだ。

 

 

 社会不適合者の私だからこそ、すでに働いていたり、これから就活に臨もうとしている先輩や、インターンを考えている同級生を見ていると、「凄すぎるだろ」と思うのかもしれない。

 研修などに出向くと、みんな自己紹介が上手でたまげることが多々ある。

 彼らはスラスラと自分が働こうとしている理由や、自分の経緯を口頭で説明できている。

 しかもわかりやすく、即興で。

 私には絶対に真似できない領域である。

 そんな時、私は立派な動機を持ち合わせていないので、言いよどんでしまう。

 

 おそらく就職でも、彼らはうまいこと自分を企業にアピールして、内定を獲得していくのだろう。

 私にはそのようなこと、到底できない。

 せいぜい一人で地道に実績を積み上げていき、それを下手でもいいからアピールするしかない。

 

 このままでは私は変人一直線である。

 誰にも理解されず、独り身のまま腐っていくしか無いのだろうか。

 

 彼らの領域にどのように近づけばいいのだろうか。

 貧民と王族のように、埋めがたい差がそこにはある。

 

 

 今日の記事はかなり踏み込んだ内容になった。

 いつも私のブログを見ている人たちに、私がかつて所属していた集団に今も属している人がいるのは確実で、彼らには嫌な思いをさせてしまったかもしれない。

 

 だが、『ツイートとは違い、ブログ記事は積極的に人が読みにくるものだから、好きに自分の思いを綴ってもいい』というブログ開設当初の私の考えに基づくなら、この記事も公開した方がいいと考えた。

 

 このような記事も公開できなくては、この先いよいよ何も表現することができなくなるだろう。

 

 これからもそうのようなスタンスで、このブログを続けていこうと思う。

 今年度はもうちょっとブログ映えする日常を過ごしたい。

 

近状

3/26 晴れ

 

 久しぶりのブログ更新。

 ブログを書く以外にも、「東京シティアンダーグラウンドという題で先日の旅行についての日記を書いたり、「ラーメンつけ麺、僕ザーメン」という題のブログ記事を書こうとしたのだが、公開するクオリティに仕上げられることができなかった。

 そのうち書き終えたら、ブログに更新したい。

 下ネタでもエッセイでも、何かについて語る勇気というのは、体力がある時期しか湧いてこない。

 私の体力は退屈すぎる春休みによってもうヘロヘロである。

 

 しかし、今日の裁判傍聴は楽しかった。

 裁判は異様な緊張感に包まれていた。

 生手錠も、生弁護士も初めて見た。

 手錠はドンキホーテのおもちゃ売り場で見たものとは違い、ガッチリとしていて変な冷たさを感じた。

 自分がこの場に立つ想像をふとして、ゾッとした。

 我が身が被告人にならないことを祈りたい。

 

 ただ祈るだけでなく、日頃の行動を見直したいと思った。

 ツイッターでも、公共の場でも、最近私は下ネタを発しすぎている。

 このままでは公然猥褻で検挙されそうだ。

 検挙されないように、謙虚になりたい(ここうまい)。

 

幽玄の未来

3/12 曇り

 

 昨日、20歳になり、久々に中学生の頃の友人たちと遊んだ。

 充実した誕生日になった。

 20代の始まりは上々である。

 

 昔からの友人と話をしていると、本当に過去の自分はロクデナシだったのだな、と思う。

 大学生になった今、ようやく中学時代の禊を済ませつつある。

 早く人間になりたい。

 大人への道のりは遥かである。

 

 

 19歳の誕生日、20歳の自分に向けて、私は手紙を書いた。

 その内容が以下の通りである。

 

 拝啓、二十歳の私。元気にしてますか? 

 19歳の私はたまに落ち込むこともあるけど基本的には元気です。

 最近は、心理学関連の本を読み直したり、青春小説を読んだり、汚い動画を作ったりしています。

 二十歳の私は何をしているでしょうか? 

 今私がやっていることは継続できていますか? 

 それとも何か新しいことを始めていますか? 

 ご飯はちゃんと食べてますか? 

 彼女はできてますか? 

 単位は十分にとれてますか? 

 友人は増えていますか? 

 フォロワーは増えていますか? 

 賢くなっていますか? 

 健康に日々を過ごしていますか? 

 というか生きていますか? 

 

 19歳の自分は明らかに質問過剰である。

 改めて読み直すと、これまで継続できていることは、ブログと読書しかない。

 彼女もできていなければ、賢くなった気もしない。

 ありがたいことに、20歳まで健康体で生きることだけはできた。

 編入試験にも去年は落ちたし、私はいつも、自分の期待に応えられていないようだ。

 悲しみを感じる。

 

 

 正月頃のことである、自宅に一通のある封筒が届いた。

 差出人は小学校の頃の教師であった。

 結婚したのか、名字が変わっていた。

 

 封筒の中身を開けて見ると、そこには小学生の自分から、20歳の私に宛てた手紙が入っていた。

 昔、そういうものを書いたという記憶は微塵も残っていなかったので、それなりに驚いた。

 全文ママで、ここに書き写す。

 

二十の自分へ

 どーも十二の自分です

 まず最初に

 幸せになってますか?

 幸せならうれしいです。

 

 京大うかってますか?

 たまねぎ食べれてますか?

 自動車めんきょとれてますか?

 結こんしてますか?

 いろんなききたいことがあります。

 もしかしたら死んでいるかもしれないけど

 生きていることを願います。

 

 夢はなんですか?

 

 これがいちばんききたいことです

 二十になったらここにかいてください。

 「            」

 元気なことを祈ります。

 十二の自分より。

 

 

 手紙の端には、太陽の塔を模したような謎のキャラクターが描かれてあった。

 手紙を読む限り、未来の自分を質問責めにするのは、いつも変わらないらしい。

 

 だが、12歳の自分が現在の私に会ったところで失望するだけだろう。

 私は彼の願いを何も叶えられていないからだ。

 京都大学に通いながら結婚生活を送れるほどの胆力は私は持っていなかった。

 そして、たまに幸福になり、不幸になったりもする。

 そのような不安定な存在が今の私である。

 せいぜい生きていること、玉ねぎが食べられるようになったことくらいしか、昔の自分の期待に沿うことができていない。

 無力感に苛まれる。

 だが、夢はある。

 

 

 ふと、手紙を読み終わってから、ギリシア神話の「パンドラの箱」のエピソードを思い出した。

 人類最初の女性とされるパンドラは、ゼウスから「絶対に開けてはならない」と忠告された箱を好奇心から開けてしまい、それにより様々な災いが世界中に飛び散ってしまう。

 こうして疫病、悲嘆、欠乏が世界に満ち、後世の人々はそれらに苦しむようになった。

 だが、箱から唯一「エルピス」だけは出ていなかった。

 「パンドラの箱」はこのような話である。

 

 エルピスは主に希望や期待と訳されるが、それらの言葉のニュアンスによって、このエピソードの真意は変わってくる。

 エルピスが希望なら、希望があるからこそ、災いだらけの世界でも人間は生きていける、という解釈になる。

 一方、エルピスを期待とすると、期待があるからこそ人間は期待と絶望の間で、苦しみ悶えながら生きていかなくてはならない、という意味を持つ話になる。 

 

 

 子供の頃、世界は整合性が取れている場所だと、私は思っていた。

 「やさしさに包まれたなら」の「小さい頃は 神様がいて 不思議に夢を 叶えてくれた」という歌詞にも、今なら共感できる。

 

 世界に神はいなかった。

 世界は混沌を極め、様々な物事が絡み合いまるで予測ができない場所だ。

 パンドラの箱が開けられた後の世界で、人は多くの災いに対して鈍感になりながら、麻痺しながら、エルピスを抱いて生きている。

 

 私はまだ、それらにどのように向き合っていけばいいのか分からない。

 災いとエルピスに対し、受容するのか、もしくは拒絶するのか。

 自分が納得できる方法を探すことが、20代の大きな課題になってくるのだと思う。

 

 小学生の自分からの手紙の最後に、20歳の私が夢を書き込む空白が設けられていた。

 私はペンをとって、夢を書き加えた。

 「研究者になること」。

 それが、20歳の私の夢である。

 

 最近、ようやく自分の興味関心が固まってきたが、未だ何もかもが不明瞭である。

 大学院試験、低収入、ポスドク、自分の精神状態など、数多の障壁が未来に立ちはだかっている。

 だからこそ、夢に向かうことは退屈しなさそうだ。

 

 実りある希望か、空虚な期待か。

 残されたエルピスと共に、明日も夢へと向かっていこう。

 

夢幻の過去

3/10 晴れ

 

 10代最後の日。

 モンハンをしたり、本を読んだり、焼肉を食べに行ったりして、ゆっくりと過ごした。

 大学生の春休みは本当にすることがない。

 バイトも何もやっていないので、時間がただ無為に経っている。

 また自分でやならければならない課題を決めて、それに取り組まなければならない。

 春休みも残り1ヶ月だが、その時間で何かのスキルを上達させることは不可能ではないはずだ。

 20歳から本気を出したい。

 

 

 自分の10代を振り返りたい。

 だが、15歳くらいまで空虚な人生を送ってきた挙句、知的とギリギリ言えるような生活を過ごし始めたのは18歳からなので、語れることはそれほど多くない。

 特に、10歳から小学校を卒業するまでの2年間の記憶はほとんど私の中には残っていない。

 何かに熱中することなく、ただ毎日妄想を繰り替えすだけの小学生時代だった。

 

 ただ、昼休みは図書館に行って、世界の紛争地域の写真集や、何かの図鑑、手塚治の漫画ばかり読んでいたことは覚えている。

 小中学校で過ごす毎日は本当に退屈だった。

 

 

 私の10代を総括する言葉を一つ述べるなら、それは「ネット漬け」だろう。

 小学3年生の頃には自分のノートパソコンを持っていたが、小学6年生でwebブラウザ付きの携帯電話を手にしてから、ネット漬けの生活へと突入して行った。

 

 手始めに、親が私の携帯に付けた有害なサイトへのアクセスを妨害する「安心フィルター」を、外国の検索ブラウザを経由するなどしてすり抜けた。

 なぜか、当時はロシアなどのブラウザを経由することで2chやふたば掲示板へとアクセスすることができた。

 それにより、私は人生で初めてのエロ画像と出会うことになる。

 初めて出会ったエロ画像は「触手もの」であった。

 

 その後、中学生になり、退屈な毎日に飽き飽きしていた私は自らが通っていた中学校の裏サイトを立ち上げたり、アメーバピグで自分の部屋でイベントを開き続けることによって、謎の知名度を得たりした。

 

 高校入学と同時にヨット部に入部したことにより、しばらくはネットでの活動を控えていた。

 しかし、部活を辞めるとともに、ネット漬けの日々が再発した。

 ツイッターでフォロワーをやたらと増やして8万人にしたり、炎上して2000RTを食らったりした。

 個人情報の管理を徹底していた当時の自分に感謝である。

 おかげで今私の家には、宗教の勧誘も、政党のパンフレットも、何も迷惑なものは届いていない。

 

 大学生になると、何を思ったか淫夢動画を作り始めた。

 動画のクオリティはクソだったが、何故か10万再生以上の動画を何本も投稿することができた。

 今日、ツイッターなどで検索をかけて見ると、未だに続編を待ち望んでいる人がいた。

 できるだけ期待に応えたいとは思うが、それは私がモンハンを楽しみ尽くした後の話である。

 その他にも、このブログを開設したり、大学のサークルを煽ったりと、生産性のあることをこの大学の2年間では行うことができた。

 

 

 ブログにはまだ書けないことなど含め、この10代を思い返すと、本当に碌でもない人生を送ってきたと思う。

 恥ずかしいことの記憶が薄れていたり、高校・大学と環境が変わるごとに、過去の私の印象を引きずる人が限られているのは幸運なことだった。

 おかげで、私は20歳になるまで憤死することもなく生きていることができた。

 

 

 小学生の頃、私は「20歳までに自分は死ぬ」という強迫観念に襲われていた。

 その亡霊に中学・高校と度々精神を脅かされてきたが、ようやくそれからも逃れられそうだ。

 小学生や、中学生の頃の自分と現在の私は、ほぼ肉体的にも精神的にも別人である。

 そういう意味では、小学生の頃の自分の強迫観念は正しかったのかもしれない。

 

 現在の私も、いつかの自分に忘れ去られ、この世から消え失せるだろう。

 それでも、昔の自分のスキルや人間関係、わずかながら考え方なども引き継がれるはずだ。

 今の、20歳になろうとしている私ができることは、未来の自分に何かを残してやることである。

 今のところ、モンハンのセーブデータしか未来に残せていない。

 いつかの強くてニューゲームのため、勉学に励もう。

 明日から。

 

B4の紙切れに収まる僕の人生を

3/6 晴れ 

 

 今日は妹の誕生日である。

 妹は今年で17歳になった。

 17歳といえば、私がナニをアンテナ代わりに反り勃てて、エロいことを探していた年頃である。

 その点、私とは対象的に、妹は部活の部長を務めていて立派である。

 私の知的人生は18歳から始まったようなものなので、17歳までの奇行はノーカウントにしてほしい。

 私の見るところ、妹の知的人生はまだ始まっていないようだ。

 妹には私よりも多くのものを知って欲しいと思う。

 世間体や常識、確定申告の方法まで、知識の幅を広げて欲しい。

 私はそれらを知る気は更々無いが。

 

 

 最近、大学の図書館に行くと就活生をよく目にする。

 自分より一個ほどしか年の変わらない人たちが就活をしているのを見ると、「いよいよか」という気がしてくる。

 私は大学院受験をする予定なので、来年頃には高みの見物をしていることだろう。

 勉強が捗らなくて、そのうち低みの見物に変わるかもしれない。

 編入試験に不合格したトラウマが蘇る。

 

 就活生のツイッターを見ていると、自己分析だの、OJTだの、よく分からない単語が飛び交っている。

 皆が一様に黒髪に染め直し、スーツを着るという姿を見ていると、自己分析もクソも無いと思う。

 個性の尊重がただの建前であることが伺える。

 

 あまりに春休みが暇なので、自己分析とやらを自分もやって見ることにした。

 企業に学生を売り渡している悪徳サイト『リクナビで、自己分析の方法を調べてみた。

 「自己分析は、自分の仕事選びの軸を明確にするため、そして自分のことを他人にわかりやすく説明するために必要です」とあった。

 人は自分のことを実はあまりよくわかっていないので、就職を機に己を見つめなおし、言語化できるようにしましょう、ということらしい。

 

 さらに自己分析について調べていく。

 自己分析の一般的な方法は、これまでの人生のエピソードを振り返り、それらを深掘りしていくことらしい。

 エピソードで「なぜ」そうしたのか、などを突き詰めることによって、自分の価値観を見つめ直そうという寸法だ。

 ううむ、なかなか自己嫌悪に陥りそうな方法だ。

 私も試しにやってみよう。

 まだ比較的自分の人生の中でもマシである、動画作りを例にする。

 

 動画作りを頑張った。


 なぜ頑張れたのか。


 自分の作った動画に多くの再生数が付いたり、コメントで楽しんでいる人の数が直感的にわかったり、動画を作る過程で自分が新しい知識を得るのが面白かったから。


 なぜそれらが面白かったのか。


 新しい物事を知ったり、作り出すのが好きだったし、誰かにそれが評価されるのが嬉しかったから。


 なぜ知ることや物事の創出が好きで、評価されることが嬉しいのか。


 数少ない人が知っている物事を自分が知っているという優越感や、新しいものが作り出され、それがより多くの人に広まる過程に参加することが好きであり、その結果さらに多くの人が自分たちに携わったものにポジティブに触れているのを見るのが楽しいから。

 

 ……エクセトラ、エクセトラ。

 

 実際自己分析をやって見ると、これは案外タメになる。

 自分の興味を具体的に言語化することは結構面白い。

 自分のあまり自覚していなかった部分を知ることができて興味深い。

 今回は比較的肯定的なな内容だったから良かったものの、自己分析がネガティブになろうものなら、それなりに精神的なダメージを食らうだろう。

 果たして現在、どれほどの就活生が自己分析で心に傷を負っているのだろうか。

 毎年、就活で病んでいる大勢の人を見ていると、就活が精神にあまり良くないということは想像に難くない。

 

 自分を知るということは痛みを伴うことだ。

 しかし、自分はいつも変化するので、完全に自己を知ることはできない。

 改めて、自分というのは遠い存在だと思った。

 

 普段に似つかわしく、真面目にブログを書き終えてしまった。

 私も卒論や大学院試験に向けて自分の興味関心を固めなければ。

 自己分析、結構オススメですよ。

 

いーーーーーーーなかやばすぎwwwwwwwwwwwwwwwwwwwクソ過疎wwww

2/26

 

 退屈な春休み。

 

 落合陽介がゼミ生にさせているという勉強法を実践してみた。

 落合氏曰く、研究者になりたいのなら、一週間に25本の論文を読み1〜2分のプレゼンに自分が興味を持ったことを落とし込まなければならないらしい。

 正直、論文を25本読む程度ならまだ簡単である。

 それを自分の考えに落とし込むのが難しい。

 自分は口下手なので、プレゼンのような発表の場に慣れなければ、と常々思っている。

 思っているだけで、そのような場に積極的に赴くのは難しい。

 ビビリでチキンなので。

 

 

 久しぶりにアメーバピグにログインした。

 

 アメーバピグとは、6年前ほどに流行ったアバターサービスである。

 昔はそこで私もブイブイ言わせていた。

 最近はリアルが忙しかったり、別のゲームにはまっていたのでログインできていなかった。

 春休みが暇すぎるので、アメーバピグに3年ぶりにログインした。

 

 かつてはユーザー数2000万人を誇ったアメーバピグだが、久しぶりに行ってみると驚くほど人がいない。

 私がログインしていた頃はアクティブユーザーが少なくとも5万人はいたはずだが、現在は多めに見積もっても1000人いくかどうかである。

 

 一応、これほどまで人が減ってしまったのには理由がある。

 アバターブームが過ぎ去ったこと、時間の経過、そして未成年のユーザーに一時期かなりの使用制限を加えていたことである。

 3つ目の理由は、私がアメーバピグから一時的に離れていた原因でもある。

 

 成人からの未成年に対する出会い厨行為が相次いだせいで、未成年ユーザーが他のユーザーと全く交友関係を持てないように設定されてしまったのだ。

 

 具体的には、友達申請の停止、他のユーザーと交友することのできる数少ない手段であるお出かけの禁止、さらには他ユーザーのお部屋への訪問の禁止と、サービスの根本をぶち壊すものだった。

 ただのお部屋アバター着飾りクソゲーと化したアメーバピグに、ほとんどの未成年ユーザーが戻ることはなかった。

 

 なお、現在ではその制限は解除されている。

 出会い厨行為が再発するだとか、そのようなことを運営は考えなかったのだろうか。

 

 アメーアピグに久しぶりにログインしたのには、という他にも、実はもう一つ理由があった。

 最近、meet-me」というこれまた過疎状態にあった古参のアバターサービスが終了した。

 それで、アメーバピグもそろそろサービス終了するのではないか、と不安になったのだ。

 

 アメーバピグは私がネット活動の中心にしていたサービスであり、一応の愛着があった。

 近頃は忘れ去っていたが、meet-meの訃報を聞きつけて久々に顔を出したくなったのだ。

 

 アメーバピグでは自分のお部屋で自由にイベントを開くことができる。

 アバターをお題に合わせて着せ替え、勝敗を決める「コーデバトル」など、様々なイベントが昔は開かれていた。

 中には100人待ちのユーザーの部屋もあったほどだ。

 

 だが、今はイベントの数も少なくなり、順番待ちなどもすることなく、イベントを開いている部屋にすんなりと入れるようになっていた。

 試しにコーデバトルのイベントに参加してみると、生き残りのユーザーが細々と着せ替えている最中であった。

 

 すると、椅子に座っていたユーザーの一人が「あれ、金こんにゃくさんだよね?」と声をかけてきた。

 よく見ると、彼女は以前顔見知りだったカレン氏(仮)であった。

 カレン氏の他にも、その部屋には何人か昔からの知り合いアバターがいた。

 

 私がここに来ていなかった3年間、彼らはアメーバピグにログインし続けていたのか。

 私は愕然とした。

 カレン氏らのなんたる愛郷心

 

 ユーザーが減り、過疎地と化したサービスにも、人は生き続けている。

 それが楔なのか、心の支えなのか、日常なのか、私にはわからない。

 彼らの過ごした3年間に、その答えがあるのだろう。

 

 結局、久しぶりすぎて彼らと何を話せばいいのか分からず、私はアバターを放置したふりをして、静かにブラウザを閉じた。

 気が向いたらまたログインしよう。

 私はそう思った。

 それが何年後になるのかは、分からない。

 

 私は田舎が嫌いだ。

 田舎には人の集まる場所特有のエネルギーが無い。

 テレビもある、ラジオもある、車もなかなか走り回っている現在の田舎だが、ゲーセンが無ければ美味いラーメン屋も無い。

 正直言って、田舎に都市から移住しようとする人の気が知れない。

 田舎にはエネルギーが無いので、人が減り、過疎になり、コミュニティは崩壊していく。

 

 まさか、その過渡期が自分のやり込んでいたサービスで見られるとは思っていなかった。田舎だけに。

 これからもアメーバピグは人が減り、さらには運営のサービスも悪化し、やがては終焉を迎えるだろう。

 村おこしにアメーバピグはこれから成功することができるのだろうか。

 全ては行政、すなわち運営の手にかかっている。

 

 もしくは大物ユーチューバーがネタにするかである。

 アメーバピグにはテレビもねぇ、ラジオもねぇ、希望もねぇ。

君たちはどうイキるか

2/21 曇り

 

 友人に誘われ、長野の白馬に行って来た。

 行きは夜行バス。それからスキーを二日間して、松本市で蕎麦を食べるなど観光をしてから大阪に帰って来た。

 夜行バスもスキーも信州の蕎麦も人生初である。それなりに楽しかった。

 またスキーをしに行きたいか、と聞かれると、微妙である。

 楽しさに比べてお金がかかりすぎる気がする。

 西宮・芦屋や東京都港区に住めるようになったら、また白馬に行きたい。 

 

 春休みがまだ半分もいってないことに気がついて、発狂しかけた。

 毎年のことであるが、春休みは長すぎると思う。

 孤独と焦燥感に苛まれる日々がまた始まる。

 「孤立していないだけまだマシだ」と思いながら毎日を過ごしている。

 

 

 最近、「イキる」という言葉を以前より見かけるようになった。

 これまでも「イキる」という言葉は「調子に乗っている」だとか、「頭が高い」だとか、そういう悪口として使われて来た。

 

 しかし、最近は他人に対してマウントを取る言葉としてよく使われている。

 例えば、単なる持論を表明した人に誰かが「イキっている」と言ってしまえば、そこで持論を述べた人はなかなか不利になってしまう。

 「彼の言説がつまらないものである」というレッテルを強制的に貼られてしまうからである。

 当然ながら、「イキっている」という反論は持論に対する正当な反論では無いし、そこには論理性の欠けらもない。

 それでもマウントを取れるというのは、一種の言葉のマジックである。

 

 以上のような意味で、普段から「イキっている」私だが、実は結構イキり続けるのは難しい。

 イキるためにはそれなりの材料がいるからだ。

 日頃から実績を残せなかったり、何もない日常を過ごしていれば、他人にイキることはできない。

 イキリオタクたちは人に対してイキることのできる材料が尽きると、嘘をつき始める。身長や交際関係を偽り始める。

 私にもそれができれば楽なのだが、あいにく嘘が上手につけないタチなので、最近なかなかイキれなくなってきた。

 イキれなくなると、生きれなくなる。

 インスタグラムへの投稿は減り、ツイッターの文章は退廃的になり、肌はボロボロ心はカサカサ、思考が腐っていく。

 SNSを眺めていると、友人たちの充実した日常がタイムラインになだれ込んでくる。

 私の脆弱な春休みはその重みに耐えきれず、砕け散ってしまった。

 

 そこら中に散らばった春休みのカケラをつまんで、蛍光灯に照らして見つめてみた。

 そこには、モンスターハンターをしている自分の姿があった。

 もう一つ、カケラを手に取り覗き込んでみる。

 その中の自分も、モンスターハンターをしていた。

 バリエーションがない。これでは私はイキれない。

 ゲームをしていることがステータスになる場所など、ネット上にしか存在しない。

 リアルで私はイキりたいのだ。

 

 春休みのカケラを集め、ジクソーパズルのように丁寧に組み合わせていると、一際輝くものを見つけた。

 そのカケラは氷のように冷たかったが、どこか優しさと男臭さを醸し出していた。

 中を覗くと、男子校時代の友人たちとスキーをしている自分の姿があった。

 恐怖に顔が引きつっているが、その姿は気持ち良さげで、楽しそうだった。

 私はこのカケラを胸に優しく抱きかかえた。

 

 ふと、「これを使えばイキれるのでは」という考えが浮かんだ。

 明らかに邪念である

 でも、私はイキることにした。よし、イキってみよう。

 

 スキーかなーやっぱw

 一応オタクだけどスキーできるし、俺って退けない性格だしそこら辺とかめっちゃ滑ってるって言われる()

 スピードも31キロあってスキー場の女子に追い抜かれる←煽られているからやめろ!笑

 俺、これでも大2ですよ?

 

 よくよく考えなくても、イキれるほど私はスキーが上手くなかった。

 5歳くらいの子供にも抜かされるくらいだ。

 

 もう一度胸元のカケラを見た。

 なんだか、そのカケラはさっきよりもイカ臭かった。