きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

地震、6/18

6/18 曇り時々雨

 

 阪急電車の車内でこの記事を書いている。

 

 先頭の車両から避難誘導が始まっているらしいが、先行きの見通しは立たない。

 この後、近くの駅に移動してどうするか、ということすら、わからない。

 私もこれで立派な帰宅難民である。

 東日本大震災の時、多くの人が困った理由がよくわかった。

 

 「地震はいつか来るもの」と少しの心構えはして来たつもりだったが、いざ地震が起こると何をすればいいのかわからない。

 ペットボトルの水を買って、家に持ち帰ることぐらいしか思いつかない。

 その帰った先の家でさえ、食器棚が倒れたりと無茶苦茶である。

 

 家族全員が無事なことだけが、不幸中の幸いである。

 生きていれば、なんとかなる。

 

 

 ここからは、友人宅で書き上げた文章である。

 とりあえず、今の所は電車の運行状況や、その他諸々の情報を考慮して、家に帰るかどうか考えようと思う。

 余震の危険性は未だにあるし、これから本震が来る可能性も否定できない。

 地震が起きてしまったことは仕方がないので、ちっぽけな私にできることは、「この状況でどう動くか」と考えることのみである。

 

 これから二週間程度は防災意識を高めていこう。

 私が地震で亡くなった後に、このブログの記事がメディアに引用されないことを祈りたい。

 

 自然に比べてあまりにも矮小な私たちにできることは、万全を期すことのみである。

 

 状況が変わり次第、これからも再びブログを更新する。

 

プレゼン天国と地獄

6/9 晴れ

 

 勉強に忙しくなったら、案の定ピタリと日記を更新することがなくなってしまった。

 

 卒論のテーマについてより理解を深めたり、動物実験の手法について勉強したり、TEDを見てプレゼンの方法とリスニング能力を学んだり、Rの勉強をしたりと、することが多い。

 退屈よりはマシだと、嬉しい悲鳴を上げながら勉強をやっていく。

 私は本来、ここまで勉強好きの人間ではなかったはずなのだが。

 

 高校時代に比べて、格段に何かをこなしたり、色々な作用の効率が大学生になってから跳ね上がった。

 成長するのは基本的には良いことだが、ここまでがらりと変わってしまうと、アイデンティティの拡散に悩まされる。

 真面目な自分は、果たして本当に自分なのか。

 

 

 この頃悩まされていたプレゼンの発表が、ようやく終わった。

 

 英語が得意というわけではないのに英語論文を選択してしまい、グループワークなのに課題を一人で抱え込んだのが運の尽きであった。

 アヒアヒ言いながらパワポを完成させ、なんとか発表に漕ぎ着くことができた。

 動画が反映されなかったり、スライドの一部がバグっていたり、不手際は多かったが、なんとかプレゼンを終わらせることができた。

 

 

 普段は学校の課題には何の興味も示さない私が、今回のプレゼンにそれなりに本気になった理由は3つある。

 

 一つ目は、プレゼン自体が自分の成長に繋がると確信したからである。

 これまで、数多くの卒論生や研究者のプレゼンを見てきたので、そこから得た教訓を自分でも実践してみようという気になったのだ。

 

 二つ目は、この良いプレゼンができれば、多くの人の信頼を得ることができると考えたからだ。

 信頼は金では買えない。

 そこに多くのリソースを割く価値は十二分にある。

 ある程度プレゼンをまとめ上げ、完璧に質疑応答をこなせば、何人かの目には頼れるクールガイに私の姿が映るはずだ。

 このようなことをこのブログに書いている時点で、プレゼンで得た信頼もチャラになってしまったかもしれない。

 それはそれで愉快である。

 

 そして三つ目の理由は、私がマゾだからだ。

 しばらく退屈に苛まれていたので、このプレゼンはいい刺激になった。

 退屈をもっとも忌むべきものとしている私にとって、ここ最近の忙しさは嬉しい限りである。

 自分のかけた努力が、全て自分に跳ね返ってくる。

 本当にこれは素晴らしい、素晴らしいよ。

 

 

 そこそこ頑張ったはずのプレゼンだったが、それでも多くの反省点が残った。

 それをここに記そうと思う。

 

 このブログの醍醐味の一つとして、一人の人間の、失敗の歴史が公にされているということが挙げられると思う。

 成功は記録に残りやすいが、それとは対象的に反省点や失敗というのは、なかなか公開されない。

 

 私は恥という感情が希薄なので、ここにプレゼンの失敗を箇条書きで記す。

 来週以降の発表者が参考にしてくれれば幸いだ。

 

 パワポの文字の大きさは統一する。

 できれば28ポイント以上が見やすい。

 

 リハーサルはきちんとする。

 当たり前のことだが、台本を読むのをぶっつけ本番で行うと、アラが出やすくなる。

 原稿なしで自分の考えを伝えられるようになるのがベスト。

 

 実験の「ネタバラシ」はうまく行う。

 MUR先生とOGW先生の合同ゼミに以前参加したことがあったが、序論を全て最初に詰め込んだ発表はすこぶる退屈だった。

 これを参考に、今回のプレゼンでは序盤を分割してプレゼンの前半と後半で割り振ってみたが、その目論見はうまくいかなかった。

 ネタバラシの構成をきちんと見直すべきだった。

 

 質疑応答には備えておくこと。

 これは絶対。

 堂々と、正確な知識を、はっきりした口調で話す。

 質疑応答によってプレゼンの評価が180度変わることだってあると思う。

 今回は予想問題集のようなものも作っておいたので、しっかりと対応できた。

 次回とも、この習慣は続けていきたい。

 

 負担をメンバーで分担する。

 きつかった。

 

 これくらいだろうか。

 

 

 私は人のプレゼンを見るのが好きだ。

 来週からも、誰かがこの反省点を見つけて、より良いプレゼンを見せてもらえたら、と思っている。

 

 ついで、下手な質問を乱射できたら、とも思っている。

 下手な質問、数射ちゃ上達する。

 来週が楽しみだ。

 

6/2 晴れ

 

 自分の身体まで溶け込んでしまいそうな青空。

 いよいよ、夏本番といった感じである。

 

 「本を読む、寝る」の繰り返しの夏には、今年で終止符を打ちたい。

 だからといって、読書の代わりに何がしたいかと聞かれると、論文を読むかRの勉強をするか、そのくらいしか思いつかない。

 果たして私の青春はどこに隠れてしまったのだろうか。

 

 この間、ニキビがひどくなったので皮膚科に行ったら、医者に「ニキビが出ている間は、人間みな思春期」と言われた。

 下手すりゃ、60歳間近までニキビはでき続けるらしい。

 思春期ノットイコール青春、である。

 

 それに、青春が60歳に来られても困る。

 心は若いままでいられても、その年齢になるまで青春を満喫するほどの体力が残っている自信がない。

 まだ若いうちに、青春を能動的に作っていこう。

 というか、そもそも青春ってなんだよ。

 

 

 昔から私は、人間の鼻という部位があまり好きではない。

 

 自分の鼻がコンプレックスだ、ということはない。

 ただ、鼻に集中して顔を眺めると、たちまちどんな美形の人でも、顔の造形が狂って見えてくるのだ。

 

 堀北真希大原櫻子の様な美女から、神木隆之介松本潤の様な美男子まで、どんな顔の人間でも、鼻をじっと見ると醜い肉塊に見えてくる。

 鼻に集中するたび、人の顔が食品売り場のオージービーフとそんなに変わらないもののように思うのだ。

 

 この傾向は、人の顔を努めて見る様になった最近、さらに著しくなった。

 梅田を歩いていて、ふとすれ違う人の顔を見ると、視点が鼻に向いた瞬間、人の顔のデッサンが狂いだす。

 こうして、また私は下を向いてしまう。

 地面のタイル模様を眺めながら、駅から駅へと急いで歩く。

 

 なぜだか、「沙那の唄」というゲームを思い出した。

 人が肉塊に見えるクトゥルフエロゲー、確かそんなゲームだった気がする。

 

 

 鼻を見た瞬間に人の顔がゲシュタルト崩壊する。

 この感覚は、多くの人には理解してもらえないだろう。

 

 なんなら、鼻フェチの人なんかには激怒されるかもしれない。

 「シュッとしていて、この素晴らしい形の鼻の良さがわからないなんて、なんてナンセンスな男なんだ!」と。

 さすがに、このような過激派の鼻フェチはいないか。

 

 巨乳フェチや、黒タイツフェチは数多くいれど、鼻フェチの人にはまだ会ったことがない。

 鼻フェチの生活とはどのようなものだろうか。

 芥川龍之介の「鼻」の、内供の鼻を治療する場面ばかり、読んでいるのだろうか。

 想像がつかない。

 鼻フェチ原理主義なんて連中がもし存在するなら、たちが悪すぎる。

 さすがの私でも、それには引く。

 

 

 なぜ私は鼻にそこまで嫌悪感を抱いているのだろうか、と思う。

 「火の鳥」のような、手塚作品に出てくる登場人物に、何かトラウマでもあるのだろうか。

 それとも、鼻の限りなく小さいアニメ絵の見過ぎか。

 

 アニメ絵はなぜ、あそこまで鼻が強調されていないのだろうか。

 アニメの中の美少女は、みな鼻が小さく描かれている。

 現実世界での美少女にも、鼻はあるのに。

 さりげなく、深い問いかけである。

 

 

 有り余る時間を用いて鼻について考えていると、顔面の部位で鼻だけが、それほど生存に影響しないということに気がついた。

 

 目や耳や口は言わずもがな、人が生きていくのに必須の器官である。

 目が使えないなら視覚障害者、耳が使えないなら聴覚障害者になる。

 口に至っては、食べ物を摂取できないとまず生きていけない上に、コミュニケーションも行えない。

 どれもがなくてはならない器官である。

 

 それに比べて鼻はどうだろうか。

 食物の風味を感じ取るのに必要だが、それにしては他の器官に比べてwell-beingの色が強い。

 呼吸も、別に口でもできることだ。

 日常で自分の鼻から情報を得る場面を考えても、くさい・いい匂いを嗅ぎ分ける時しか思いつかない。

 鼻が現代日本で生存に役に立つ場面といえば、ガスが漏れているときぐらいだろうか。

 

 こうして考えると、鼻というのは現代において「快楽のための器官」として機能しているのではないか。

 そんな器官をよりによって顔面の中心に、しかも大きく出っ張らせて付けている気色悪い生物がいる。

 人間である。

 

 絶え間なく、鼻で快・不快を仕分ける生物が私たちだと思うと、人間の見方が様々に変わってくる。

 宇宙人がそんな生物を見つけたなら、反射的に滅ぼしにかかるにちがいない。

 

 さらにいえば、リトルグレイに鼻はない。

 鼻があっても不気味だし、鼻がなくても不気味だ。

 一体何なんだ、この器官は。

 

 

 このように鼻についてだらだら考えているうちに、鼻が一層余計に変なもののように感じられてきた。

 鼻、鼻、鼻、鼻、と。

 鼻への嫌悪感を無くすエクスポージャーはどうやら失敗したようだ。

 これからもできるだけは鼻を意識しないよう、日常生活を送っていきたい。

 

 もうみんなアニメ顔になってくれねえかなぁ。

 

愛飢え男

5/26 晴れ

 

 最近になって学習指導のアルバイトを始めた。

 小中学校に行って、ICT教材を使って生徒に問題を解かせる、という形式のものをやっている。

 生徒の情報がペーパーレスを求められているのに対して、私たち講師の勤務報告書などは書き込み式なのが不合理を感じるが、全体的には楽しいバイトである。

 

 あれだけ働きたくないと喚いていながら、現在は3つもバイトを掛け持ちしている。

 自分の勉強する時間が少なくなったので、少しシフトを余裕のあるものにしようと思う。

 

 

 周りで恋愛が頻発している。

 人肌恋しい季節はとっくに過ぎたはずなのに、大学三年生にもなって恋愛ブームが巻き起こっている。

 これがゼミ分属の力か。

 それとも春が人間の発情期なだけか。

 

 ガチなことを言うと、人間の発情期は動物の中でも珍しく、存在しない。

 それがどのように人間の生存に役立ったのかは、よく分からない。

 人間は社会的生物である以上、集団で交配の機会を探るには一過性の発情期では不利になるだけだったのだろう。

 

 人間の近縁種であるボノボ(ピグミーチンパンジー)なんかは、万年発情期であるどころか、オスもメスも関係なく、喧嘩からの仲直りなどで日常的にSEXが行われる。

 実際のところ、ボノボの発情期は一年中ではないのだが、発情期でもないのに、発情期のサインである性皮 (股の皮)の肥大化が見られる。

 このことは、チンパンジーで行われているような、発情期のメスを巡ってオスが争うという事態を抑制している。

 オス同士、メス同士で盛り合うことも、彼らにとっては日常的である。

 

 そのような近縁種がいながら、なぜ人間はエロを日常から遠ざけ、禁忌にしてしまったのだろうか。

 そういえば、中世日本など多神教を土着化してきた民族では、あまりエロが禁止されることはないらしい。

 むしろエロに寛容でさえあるのだ。

 

 だが、西洋的価値観や文化の流入によって、日本でもエロがタブー視されるようになったという。

 エロのタブー視は、文化が人間の思考に影響を与えるという好例である。

 自身の感情そのものに対する疑念を抱かせない、その無意識性こそが文化や集団規範の持つ強みであり、恐ろしさでもあると思う。

 私はそこらへんがすっかり分からなくなってしまった。

 

 

 私もしばらくは「彼女欲しい、彼女欲しい」と闇に呻くグールだったわけだが、最近はそんなことをめっきり口に出さなくなってしまった。

 恋愛を話の話題に出すのも疲れてきたし、自分の恋愛感情がただの性欲や、孤独を埋め合わせるもののように思えてきたからだ。

 それに、別に子孫を残さなくても、より多くのものを生み出せる方法が私にはあるのでは、と考え出したのだ。

 

 GeneではなくMemeを残す。

 それは私に限らず、誰もができることだ。

 

 もはや、恋愛を過度に神聖化することも必要がないように感じられた。

 結局は、私が交際相手を求めてモゴモゴしていたのも、一般大衆を真似た健常者への擬態の一環だったのかもしれない。

 世間と自分の解離を身に沁みて感じるこの頃である。

 

 

 こないだ、彼女ができる夢をみた。

 彼女といえども、姿形はぼやけていて、はっきりとしなかった。

 

 朝に、どこかは分からない純白の大理石で造られた綺麗な街で待ち合わせをして、水族館に行った。

 ミュラー・リヤーなどの錯視が描かれた体をくねらせて泳ぐ数多のウツボを彼女とともに眺めた。

 彼女のその横顔も、もやのようで思い出せない。

 

 水族館を出ると、隣にいたはずの彼女が消えて、夢から覚めた。

 なんだか、虚無を連れ回していた気分である。

 

 中身のない夢だったが、目覚めは良かった。

 それだけである。

 

 

 今宵も、夢の中で虚無と共にどこかを歩きたい。

 いつも通り、中国人がよく分からない果物をひたすら齧っている動画を見ながら、眠りに就く。

論破されたい欲

5/19 曇り

 

 暑くなったり、寒くなったり、不安定な気温の日が続いている。

 

 実験実習に卒論の計画、プレゼンテーションに統計の課題など、最近はこなさなければいけないことが増えてきた。

 さらに、バイトを3つ掛け持ちしているため、これらの課題に割くことのできる時間も減ってきている。

 

 やばい、と思う。

 明日の自分がこれらの課題を軽々とこなしてくれることを願って、今日も私は眠りにつく。

 

 

 『論破されたい欲』が強まっている。

 できれば美少女に論破されたい。

 論理的な弁舌によって圧倒されたい。

 いつものようなアヘアヘモードの私ではなく、全身全霊をもって論理を展開し、それでもなお軽く一蹴されたい。

 私は頭の回転がそこまで早い方ではないはずなので、この願いは頑張れば叶いそうだ。

 

 では、誰かに論破されるのはどうすればいいのだろうか。

 まずは私が全力で語れる分野に、私より精通している美少女を探すほかない。

 これが結構難しそうだ。

 

 というか、私は論破よりもより建設的な議論を求めているのかもしれない。

 それとも、最近アホなことばっかり言い過ぎて、ただ単に知的な会話に飢えているだけなのかもしれない。

 

 アァ、なんだか何も私が求めているのかわからなくなってきた。

 知的な刺激が欲しいのか、美少女との接点が欲しいのか、どっちなんだ。

 今日は疲れた。

 ツイートのキレもない。

 

 もう私は寝る、おやすみ。

 

自分症スペクトラム

5/9 雨のち晴れ

 

 家を出る頃は雨が降っていたので、傘をさして学校へ向かった。

 大阪に着くと雨はもう止んで、西宮では空が晴れた。

 これが通学片道2時間の力である。

 

 起きている時間の結構な時間が通学時間に取られているという現状はかなりしんどい。

 この時間が私の狂気的な読書習慣の元になったのも確かだ。

 

 通学時間に論文が読みやすいように、タブレットの購入を検討している。

 予算を決めようとATMで残高を調べたら、四千円しか入っていなかった。

 焦ってもう一つの銀行口座も覗いてみた。七百円しかなかった。

 

 

 

 心理アセスメントの授業を受けていると、自分が自閉症スペクトラムではないかとヒヤヒヤする。

 

 いや、ほとんどの診断項目に自分は当て嵌まっていないし、むしろ国語の読解問題なんかは得意だったのだが。

 しかし、ところどころ自閉症スペクトラムの診断基準に心当たりのある項目が存在し、心中不安でならない。

 

 小学五年生の頃、壮年の女教師に「お前は空気が読めない」と言われ続けたことを思い出した。

 義務教育の時は本当に辛かった。

 周囲が見えない。

 他人の動きに興味がない。

 恋愛や結婚の良さを、言葉で説明することができない。

 この辺りの自分の性質は、自閉症スペクトラムにも当てはまるものである。

 自分は大丈夫ということは頭で分かっていても、なんだか落ち着かない。

 

 定型発達者の中でも、極めて自閉症スペクトラムに近いところに私はいるのではないか? 

 そう思えてくる。

 すると、誰からでもなく、「お前は異常だ」と後ろ指をさされているかのような気持ちになるのだ。

 

 

 どこまでを異常、どこまでを定型とするか、というのは臨床心理学を含め医学にとって切実な問題だった。

 

 医学では、病気に対する知見が確実に蓄積されてきたが、これは病気が目に見えるようになってきたということが大きいと思う。

 MRIといった検査機器の発展もこれに拍車をかけている。

 治療法は確立とともに、病気の分類も近年かなり進んでいる。

 

 これに対し、いわゆる『心の病気』はなかなか目に見えない。

 例えばうつ病は、本人が主観的に最近やる気が出ない、眠れないといった症状を判断することは可能だが、これを外見から判断するのは難しい。

 なので『心の病気』を可視化するために、質問紙やカウンセリングといったアセスメントが心療内科などでは行われる。

 

 ここで、異常と定型を分けるわけだが、この区分がなかなか難しい。

 DSM-4などでは、アセスメントによって得られた情報がどの診断基準に当てはまるかによって区分が行われてきた。

 これを病理的基準という。

 

 また、質問紙による検査でのクライエントの得点が±2標準偏差までを定型、これを超えると異常、という判断がなされてきた。

 つまり、人口の5%を異常とするのだ。

 これを統計的基準という。

 しかし、この統計的基準では、例えば日本には1000万人の予備軍がいるとされる糖尿病などを考えると、5%より多くの人が異常と判断されてしまう。

 

 そのため、統計的基準の他に、社会一般において大多数に支持されている価値観から定型・異常を区別する価値的基準、問題を抱える人が社会で主観的・客観的に適応できているかを判断する適応的基準といった判断基準が用いられる。

 

 これらの判断基準を考慮すると、病理的基準・適応的基準からすれば、私は定型ということになる。

 DSM-5の自閉症スペクトラムの診断基準を私は満たしていないし、社会から完全に孤立しているというわけではないからだ。

 

 反対に、価値的基準からすれば、私は定型とは言い難い。

 社会の大多数は私を異常と判断するだろうし、それに私も異論はない。

 統計的基準については、質問紙などをやってみないとわからない。

 

 これら四つの基準を総合的に見て、クライエントの定型・異常が臨床の場で判断される。

 私はギリ定型だろうか、わからない。

 

 

 臨床の場での、定型・異常の判断は本当に難しいと思う。

 極端な例だが、私の所属していたボランティア施設にいたカウンセラーは、ある同僚を自閉症スペクトラムっぽい」と公言していた。

 私はその同僚に一度会ったことがあるが、私が未熟なせいか、とてもそのようには見えなかった。

 この時、彼は定型・異常どちらになるのだろうか。

 

 定型と異常の境目が曖昧なのが自閉症スペクトラムの『スペクトラム』たる所以である。

 誰しも初対面の人には控えめな対応になる。

 さらに、勘違いから話が噛み合わなくなるという経験をしたことが無いという人はほとんどいないだろう。

 黒色はあっても、完全な白はどこにもない。

 ただ灰色の部分がどこまでも続いている。

 

 

 ツイッターで自分のことをADHDと名乗る人が増えた。

 

 彼らについて私は何も知らないので、知ったようなことは言えない。

 だが、ADHD傾向はあっても、完全にADHDという人は少ないと思う。

 ADHD自閉症スペクトラムと同じく、どこまでも灰色の平原なのだろう。

 

 そういった人たちにも、臨床心理学はどのように自分の特性と向き合っていけばいいのか、といった有用な知見を与えてくれる。

 自閉症スペクトラムADHDの人が生活しやすくなる仕組みは、彼らと同様に様々な個性を持つ定型の人たちの生活にも役立つのだ。

 

 

 人間誰しも個性を持つものであり、自らの個性によって自分が苦しんでいるのなら、それはどげんかせんといかんのだと思う。

 

 また、自分の個性は誰かの個性の延長線上にあるということを考えれば、人を見る目が変わってくるだろう。

 

 誰もが、灰色の広い平原で、自分を探して彷徨う存在である。

 架空の白を求めるより、黒い部分を見つめてそこに親愛を抱けたなら、世界は変わる。

 みんなスペクトラムの仲間たちだ。

 

鏡と見ゆる月影は

5/2 曇りのち雨

 

 多忙につき、しばらくブログを更新することができなかった。

 

 新生活もひと段落し、人生が好転し始めたので、精神的な余裕ができ始めた。

 空いている時間につらつらとパソコンに書き込んで、これからもブログ、もとい日記を継続していこうと思う。

 

 文字数がかさむのでここには書かないが、ブログを続けていると様々なメリットがあるものだ。

 メリットを感じている限り、ブログは続ける。

 

 

 最近、塾講師のバイトを始めた。

 

 講師の机に『サピエンス全史』が置いてあるような、意識が高めの職場に勤務している。

 『サピエンス全史』、確かに面白かったが、そんなに売れるほどか? とずっと個人的に思っている。

 

 まだ研修期間なので時給は安いが、講師になった暁には結構な給与が貰えるし、シフトも融通がきく好待遇である。

 友人たちには「あれだけ働くのが嫌だと言っていたのに」と散々馬鹿にされたり、呆れられたりしている。

 シンプルにお金が足りなくなったので仕方ない。

 

 できるだけ社会に貢献することがないよう、情熱無しサボりマシマシ真面目さカラメで働いている。

 塾講で稼いだ分は貯金して、本の購入や大学院の学費に充てよう、と考えている。

 実際は音ゲーに溶けそうだ。

 

 

 プライバシーが云々なので詳しいことは書けないが、私は塾講で現在、小学生の子供を教えている。

 中学受験を志しており、頭の回転も早いので、私としては教えるのがとても楽な生徒である。

 塾に来る前にも、様々な習い事を詰め込まれているので、塾で教えている最中に彼の集中が切れてしまうのが玉に瑕である。

 

 出会った当初は彼も緊張していたが、週に一回、何週も会っているうちに、私にもそれなりに心を開いてくれるようになった。

 

 

 「こんなこと勉強しても、何の役にも立たないのに」

 

 月の満ち欠けや天体の動きについて教えていると、その生徒はこのようなことを口にした。

 なるほど、終わりの見えない勉強に飽き飽きした子供が、必ず口にする典型的な台詞である。

 

 ここで世間の大人の代弁者のように、「勉強しないと立派なシャカイジンになれないよ」と言い聞かせるのも酷だと思った。

 

 なので、どうしてそんなことを言うのか問いかけた。

 心理学科特有の傾聴である。

 心理学は、結構役に立つ。

 

 するとポロポロと、締まりの悪い水道管のように、生徒は学校での不満を漏らし始めた。

 

 曰く、

 

 「授業での勉強をさっさと終わらせて、教科書の問題を先へ先へと解いていたら、教師に『そんなことをしていたらテストで100点を取れないぞ』と叱られた。意趣返しにテストで満点を獲得してやったら、教師に理不尽に怒られた」

 

 「学校の授業は進むのが遅い。ただひたすらに退屈」

 

 などと、愚痴をこぼした。

 

 

 そういった彼の話に頷いたり、空っぽな同情を示したりしているうちに、その生徒が何だか自分の過去と重なって見えてきた。

 

 小学校での六年間、私はただひたすらに退屈だった。

 最初のうちは教科書を先に読み進めるなどして、時間を潰していた。

 そのうち、限界がやってきた。

 

 その結果、私は授業時間のほとんどを空想遊びに費やすようになり、中学校での深刻な学力低下を招いた。

 

 小学校で私と成績を張り合った人たちは、いずれも旧帝大に進学した。

 あの退屈を勤勉に勉強で埋めたか、妄想で費やしたかによって、私と彼らの明暗が分かれた。

 全く、私の自業自得である。

 

 

 生徒はまだ退屈の霧の中にある。

 生徒の能力を妥当に評価しようともしない無能教師により、モチベーションは落ちつつあるが、まだ私のように妄想の泥濘に嵌ってはいない。

 

 「私立中学に入れば、いくら勉強しても文句を言われることもないよ」

 

 その場凌ぎに、私はこの言葉を彼に投げかけた。

 

 「まじ? そんなの勉強し放題じゃん」

 

 生徒は桃源郷を彼方に見たような表情をした。

 ああ、この子は単純に勉強が好きなんだな、と私は思った。

 勉強を『何かの役に立つ知識』で味付けすることなど、彼には必要なかったのかもしれない。

 

 それでも、真に彼が『何かの役に立つ知識』を求めていた時のために、今勉強していることがどのようなことに役立っているのか、講釈を垂れておいた。

 

 「太陽が光り輝く仕組みは、塾の教室や日本中に電気を届けている原子力発電所の仕組みと似ている」と、私は生徒に伝えた。

 少しばかり、彼は興味を持ったようだった。

 

 こう言う話は子供に結構効く。

 私も小学生の頃、科学に関する小話が好きだった。

 何なら今も好きだ。

 

 しかし、太陽は核融合原子力発電所核分裂、実際はほぼ真逆の仕組みである。

 そのことに彼が気づくのは、当分先のことになりそうだ。

 

 

 勤務を終えて塾を出る頃には、時刻は九時頃になっていた。

 自転車をこぎながら、小学校や、中学校の頃の自分の生活をぼんやりと思い出した。

 どういう視点から見ても、ロクな人生を歩んでいなかった。

 

 後悔は多いが、過去には戻れない。

 今の私にできることは、自分と同じ轍を生徒に踏ませないよう、知識を伝えてやることである。

 そうすることで、過去の自身に対して、ツケを払うことができるような気がした。

 

 「中学受験までは、それなりに真面目に教えてやるか」

 

 そのようなことを思いながら、私は帰路に着いた。

 夜の街を照らす月が、背中をずっとついてきた。