8/1 晴れ
東京の夜景をホテルのラウンジから眺めながら、この記事を書いている。
朝早く起きて東京に赴き、東京大学でベイズ統計モデリングの集中講義に参加した。
明日、明後日と講義は続いて、それが終わる明後日の夜には、新幹線で大阪に戻る。
その次の日には、再び塾講のバイトである。
塾講のバイトは心が削がれるように感じるほどにしんどいものがあるが、ベイズ統計の授業はいくら受けても疲れない。
やはり、やる気の差だろうか。
集中講義では、大学院への進学を志望しているものが受講者のほとんどを占めていた。
周囲のモチベーションが高いと、私もなんだか滾ってくる。
塾講をしている時は、魂がすり減り、欠け落ちる音が耳元で聞こえるようだ。
大学受験だったり高校受験だったりの勉強は、教える側からしてみても面白みのないように感じる。
私自身、勉強嫌いだったことも関係しているかもしれない。
私は塾講に向いていないのでは? と率直に感じる。
講義がいったん終了してからは、気分転換に森美術館に行ってきた。
森タワーという高層ビルの最上階に、森美術館は位置している。
私のお目当ては「建築の日本展」だったが、ジャンプ50周年の記念展も同時開催されていたので、人はすこぶる多かった。
長い列を並び終えて、いざ中へ。
これから見に行く人の楽しみを奪ってしまうかもしれないので詳しくは述べないが、素晴らしい展示だった。
「木組み」といった、木造建築に関する技術の栄枯盛衰が模型を以って解説されていたり、その他にも、日本の建築の特徴や、近現代の建築家の代表作が分かりやすく図解されていた。
東大寺南大門の木組みの精緻さや、渋谷の空中都市計画の設計図を見ていると、日本建築のセントラルドグマに迫っていくような気分が味わえた。
建築に込められている膨大な人文知に、思わず涙しそうになった。
最近、よくわからないタイミングで涙が出そうになる。
疲れているのだろうか。
展示を見終えて、素晴らしい建築物の構造に囲まれた時間を噛み締めていたところ、私の胸中にある疑問が浮かび上がった。
展示で紹介されていた日本の建築はどれも独創的で素晴らしかったが、いざ街に出てみると、そこにあるのは統一感のないビル群であった。
真に、この国でまかり通っている建築というのは、周囲との調和のかけらもないアパート、マンションであり、一軒家である。
夢心地だった私の気分は、このごちゃごちゃした六本木の街によって、一気に現実に引き戻されてしまった。
眼前にはグロテスクなまでに、どこまでも建築の日本が立ち並んでいた。
電線が醜く張り巡らされ、突拍子もない色のビルが交差点の向かい側に突然現れるのを見ていると、まるで街全体が分裂症にでもなってしまったかのような印象を受けた。
日本の集団主義という文化の側面は、西洋の個人主義に対比されることが多い。
だが、西洋の街を見てみると、統一感を持った場所が多いことが分かる。
ニューヨークであれ、パリであれ、バルセロナでも、建物の色味や高さが一致していることが一目瞭然である。
一方、日本の街はビルの高さも日照権の影響か統一感がなく、色、材質まで様々である。
個人主義の土地では、それこそ建物が個性を主張し統一感のない街になるはずであり、反対に集団主義の土地では、どの建物も同様の構造になり、街は調和が保たれるはずである。
しかし、実際はそうではない。
日本という集団主義の国では、矛盾しているようだが、街に統一感がない。
それは、東京はもちろん、世界遺産の街である京都でもそうだろう。
「個人主義ほど、個々が自立した主体であるという前提からして、他者との調和を重んじ、集団主義ほど、個々の主体が曖昧であるから、調和性が低くなってしまうのでは」、ということを考えた。
だが、これは私の拙い見分から生じた認識であり、根拠に乏しい。
それでも、興味深いテーマだとは思う。
江戸や明治までは、日本の街並みが統一性を保っていたという事実も吟味してみると面白いかもしれない。
ともかく、今はベイズ統計学を勉強しなければならないので、このテーマは放置する。
誰かが既に考えていたり、これから考えてくれるならば嬉しい。
展示の中に、200メートルを超える木造のビルの計画図があった。
技術の発達により、木造での高層ビルの建設が可能になったらしい。
それを見て、私は去年、ブリューゲルの「バベルの塔」に初めて出会った時のことが想起された。
どこまでも細かく描かれた「バベルの塔」と、綿密に組まれた木造ビルの模型が重なって見えたのかもしれない。
ビルはますます高くなり、言語は翻訳ソフトによって統一され、まるで世界全体が神代へと逆流しているような印象を受ける。
まさに、皆が同一の言語を話し、天上の世界へ挑む時代へと、今後は突入していくのだろうか。
それでも、きっとこの街はバラバラなままなのだろうと思う。
これからも、調和と分裂という、背反する力の渦の中に、私たちは生き続けるのだろう。