きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

「意識高い系」は砕けない

 最近、「塚本廉」という人物が話題になっている。
 どうやら、意識高い系の学生の中で彼はカリスマ的存在として扱われていたらしい。

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 だが、「日立製作所から東大へ、さらにイスタンブール大学院に在籍し、多くの会社を経営」という彼の語っていた輝かしい来歴は、全て嘘だったという。
 塚本氏のツイッターアカウントを直接覗きに行くと、「本当は中卒、ニートであり、事業もこれ一つありません」と告白するツイートがあった。

 

 「本当は文京学院大学の卒業生であり、『中卒ニート』という極端な肩書きを再び手に入れることにより、再び息を吹き返そうとしている」なんて意見がツイッターで散見されるが、まあ、どうでもよい。


 彼と私の人生は今後とも交わることはないだろう。


 彼としても、私のような無名大学生と関わる動機もないだろう。

 

 


 この件に関してネットサーフィンに耽っていたら、こんな記事を見つけた。

 

 https://note.mu/noteobonai/n/n7f5b17a1c459?creator_urlname=noteobonai


 こちらの記事は、どうやら塚本氏と「ちょっとだけ」人生の道が交わった人によって書かれたもののようだ。


 簡単に要約すると、このnote記事の書き手は「意識高い系」のカリスマであった塚本氏へのFacebook上のコメントを挙げ、「意識高い系」が既存の社会へのカウンターを打とうとした結果、自身らにとって居心地の良い「でっかいムラ」を作ることしか成し得なかった現状を批判している。


 また、「意識高い系」の「アンチエリート主義の未遂」を滑稽であるとし、「東大卒、多くの会社を経営」といった経歴主義が、そのまま世俗の学歴主義信仰の延長線上にあることを指摘している。


 「塚本廉が嘘だったんじゃない、全部が嘘だったんだ」、書き手はこう締めくくっている。

 

 


 では、ここで批判されている「意識高い系」学生は、いかにして形成されてきたのか。


 「意識高い系」に関する数少ない書籍のうち、その中の一つである常見陽平著「『意識高い系』という病」(ベスト新書)では、「意識高い系」という語の起源に遡る試みが行われている。


 2000年半ば頃、「意識の高い学生」という表現が語義の通り「能力が高く、知識や経験が豊富な優秀である人材」として、就活市場で用いられるようになったという。


 そして、2008年のリーマンショックの折に新卒採用が大きく削られたことにより、ますますSNSなどで自らが「意識の高い学生」であることを喧伝するようになった。
 


 調べてみると、「意識高い系」という語がネガティブな意味を持つ語として使用されるようになったのは、2010年以後のことらしい。


 これは、先ほどのnoteの冒頭で書かれていた「意識高い系」界隈の興りとも、そのまま一致する時期である。


 その少し後の2012年には、朝井リョウ著「何者」(新潮社)で「意識高い系」の学生の姿が描かれるなど、ますますこの用語は本来の意味とは違った形で広まっていったことが伺える。

 


 
 「意識高い系」がネガティブに扱われるようになってから9年、「何者」の出版から7年が経った現在、「意識高い系」は消滅したのだろうか。


 答えは、もちろん「NO」である。


 冷たい目線や嘲笑が存在するのにもかかわらず、その現場に反して、「意識高い系」は現存し続けている。

 


 例えばSNS
 「意識高い系」界隈はもはや学生に留まらず、小学生から中年まで幅広い年代の人が所属するコミュニティとして拡大を続けている。
 今年にも、中学生が無計画にヒッチハイクアメリカを横断しようとした件で、炎上する事案が発生している。
 「旅をすることで多くの人に勇気を与えたい」など、彼の言動は確かに「意識高い系」の文脈に拠っている。

 


 例えば現実場面。
 企業の選考が解禁されてから一ヶ月以上が過ぎた今、数多くの「意識高い系」の話を友人との会話で耳にする。
 彼らはその輝かしい経歴を振りかざし、文学部の内向型人間たちを就活でバッタバッタとなぎ倒しているらしい。


 そう、「意識高い系」は、確かに就活ではメッポウ強いのだ。

 

 


 「意識高い系」界隈が今でも活発なのは、おそらく学生の側ではなく、企業(または社会)の側に要因がある。

 


 第一に、「意識高い系」は就活で有利になるという大きなメリットがある。


 もとより、企業の望む学生像として誕生した「意識高い系」が、就活市場において弱者になる訳がないのだ。
 そして、企業の求める学生像はリーマンショック当時とさほど大きくは変わっていない。


 むしろ、「自分で問題提起を行える人間」「社会問題に関心がある人間」など、求める人間像はますます「意識高い系」に有利になっているように見受けられる。

 


 第二に、「意識高い系」になることへの社会的な動機づけが継続されている。
 2015年に持続可能な開発目標(SDGs)が策定されたことを象徴として、「意識高い系」に代表的なボランティア活動がますます奨励されていった。


 また「ポスト・ヒューマン」「シンギュラリティ」概念に代表されるような、「確定された新時代」観が普及していったことにより、プログラミングという「地味目」なスキルが、「自分磨き」と繋がり、「意識高い系」でも流行していった。


 「意識高い系」への入り口が緩くなったことが、ますます「意識高い系」界隈の存続に寄与しているものと思われる。

 

 


 以上より、「意識高い系」界隈は今後当分消滅しないものと考えられる。


 まあ、私の妄想も多分に含まれているし、今後は何が起こるかわからない(これは彼らが好きな言葉の一つだ)ので、なんとも言えない。

 


 朝井リョウの「何者」では、ラストシーンで「意識高い系」をイタイものだと見下していた主人公に手痛いしっぺ返しが待っていた。


 自分は自分にしかなれない。
 だから、笑われても、冷笑されても、海外ボランティアをアピールし、説明会で名刺を配る。

 「意識高い系」の登場人物は、そう主人公を諭した。

 


 誰かを観察することだけで、私たちは「何者」かにはなれない。
 それは、批評家の銅像が建たないのと同じことだろう。

 


 自らの行いによって「何者」かに近づける以上、「意識高い系」は砕けない。
 
 果たして、塚本氏は、本当の経歴をさらけ出すことで、「何者」かになれるのだろうか。

 

 

10101

3/24 曇り時々晴れ


 3/11は誕生日だった。

 無事、21歳になった。

 抱負という抱負もないが、今年は色々と大切な年なので、院試や卒論を上手くこなしていきたい。

 


 最近は実験、バイト、勉強など、さまざまなことで忙しかった。

 

「日記を3月は出来るだけ書こう」と決めたのはいいものの、身体と頭がそれについてこない。

 いつもの意志薄弱である。

 

 バイトでシフトを見落としてしまったり、失言をすることが何度もあったり、21歳の初めから反省することが多い。

 完璧主義は自分を追い込むばかりなので良くない。

 それはそうなのだが、物事を深く捉えすぎないのも、私のポリシーに反する。

 

 適度に自らを省みて、漸進的改良主義者であり続けるほかない。

 それが本当に、難しいのだが。

 

 


 なんてことない日記を書く。

 

 就活シーズンなので、スーツを着て説明会に向かったり、エントリーシートを作っている最中の友人に遭遇するようになった。

 「何社選考に通った」だとか、「祈られた」など、そういう話も頻繁に聞く。

 

 「大学院志望者には縁のないことだ」と斜に構えるのも面白くないので、就活のシステムや色々な業界について、ここ数日は勉強している。

 本当は、そんなことしている暇はないのだが……。

 


 そうしているうちに、私は「人を理解すること」を重視しているのだと気づいた。

 感情の表出も受容も苦手なので、人を理解することで、これまでそこを補ってきたのではないか、と思うようになった。

 

 就活について勉強しているのも、同級生の多くが就活しているなかで、彼らを理解しようとする強迫的な観念に起因しているのではないか。

 

 
 人を理解することは、当然良いことづくめである。

 

 相手の好きなことも嫌なことも分かるというのは、なかなか面白い。

 人助けをするにしろ嫌がらせをするにしろ、最適な一手を打つことができる。

 

 日常において、私は偽悪的に振る舞っている(ことが多い)と自認しているので、そういうときに人を理解していると、どういう動きをすればいいかの有効な情報源になる。

 また、そんな振る舞いから離れて、本気で誰かの相談を聞いているときにも、私の最もクールな部分が相手の情報を整理して、いい感じに駆動してくれる。

 

 ここら辺の私の行動については、自己分析が足りないのか、自分自身もあまりわかっていない。

 就活ならすぐに祈られてしまうレベルで、私は私のことをわかっていない。

 他者を理解するのが好きなのに、自身への理解が進んでいないというのは、なかなか皮肉である。

 

 

 理解から得た情報を使って、人の相談に乗るのも基本的に好きだ。

 このクソッタレな世界のことを忘れられるから。

 

 誰かの人生の物語に触れることは、過度のニヒリズムから私を解き放ってくれる。

 私に相談することが、相手の手助けになっているかどうかは分からないが、とにかく私の役には立っている。

 モノクロの生活に色彩を与えてくれる。

 


 だが、理解はしんどいことでもある。

 

 まず、人を理解すること自体が、それなりに体力の使うことである。

 自分のタスクをなおざりにして、誰かの理解に時間を費やすこともこれまであった。

 

 その結果として、自分の言葉が誰かに届かず、路傍に転がることもざらにある。

 これは相当に辛い。

 

 それに、そもそも相手を理解したつもりで、誤解したままであることもあるだろう。

 人の地雷を踏み抜いてしまうことも、そこそこある。

 

 人を理解する作業は、同時に自分の無力さを思い知らされる作業でもある。

 


 しかし、そうするしか私には方法がないのだ。

 

 「お前は快と不快の感情しか持ち合わせていない」ということを、ある人から投げかけられたことがあった。

 この言葉は、今も私の脳裏に呪いのように刻み込まれている。

 

 怒ることも泣くことも苦手で、笑うことしか知らない私は、理解によってその欠如を埋め合わせようとしている。

 だが、それがなかなか上手くいかない。

 

 そろそろ、この空洞に注ぎ込む「何か」を探さないといけないのかもしれない。

 それを、21歳の目標にしようと思う。

 

 足りない系の私に充塞を。

 遥か幼少期に飛び立っていった感情たちに慰霊を。

 

 

アレシボ・メッセージ

3/9 晴れ


 今日からipad proで日記を書き始める。「プロ」なので。

 

 小さめのキーボードは、手が大きい私にとって少し扱いずらいが、タイピングの練習だと思って我慢する。

 ipad自体、画面のサイズが11インチとコンパクトなので、電車の中など、様々なところで筆記作業を行えるようになったのは大きい。

 

 小説の執筆などができればいいのだが、大学院の試験や卒業論文の研究が忙しいので、その時間をとることができずにいる。

 

 夏以降は暇になる予定なので、様々なことをやるつもりでいる。

 小説執筆やお絵かきとか、動画制作とか、機械学習とか、作曲とか、やりたいことばかりだ。

 

 院試に受からなかったら、色々とヤバイ。頑張ろう。

 


 「人に何かを伝える」ということを、ここ最近はずっと考えている。

 

 文章でも会話でもそうだが、人に何かを伝えるのは難しい。

 

 日常的に、主にコミュニケーションのすれ違いによって、私たちは相手のことを勘違いしながら生きている。 

 

 外国人労働者をバカだと勘違いしたり、根拠の中に相手を否定するような感情を練りこんでしまったり。

 意思疎通の不全による面倒なことは、枚挙にいとまがない。

 

 だが、SNSひとつとっても、私たちは十分に意思疎通ができているとは言い難い。

 

 例えばSNS上において、自分は皮肉を込めてメッセージを発信し、相手にそれが皮肉だとちゃんと伝わると予測していたとしても、ほとんどの場合、相手は自分のメッセージが皮肉なのか本心なのかを判別することができない、ということがを示す研究が存在する(ここに引用を貼ろうと思ったが、研究がネットでなかなか見つからなかった。NTT出版の「新版インターネットの心理学」という本に詳細が載っていたので、興味のある人は読んでほしい)。

 

 ネットの文章だけの意思疎通は、現実場面での表情や会話の文脈など、相手のことを理解するのに必要不可欠な情報がことごとく抜け落ちている。

 

 そのような状況では、壊れるほど伝えても三分の一も伝わらない。

 純情な議論が空回りである。

 アイラビューさえ言えないでいるマイハァート。

 


 私は、人に何かを伝えるのが苦手だ。

 プレゼンも下手くそだし、全力で相手に伝えようとしても、なかなか言葉が届かない。

 

 大学生になってから、読書をはじめたお陰か、人の話を聞くのは幾分マシにはなった。

 知識が増えると、相手の話を理解するのが簡単になる。

 そのおかげで、ある程度は理解できるが精通しているものは何もない、器用貧乏な人間になってしまった。

 

 しかし、自分から意見を主張するスキルが鈍ってしまった。

 やはり、コミュニケーションはサボったら終わりだ。

 

 なぜ積極的に主張をしてこなかったかというと、したところで誰もマトモに取り合ってくれないし、人間関係が捻れて拗れて面倒くさくなるからだ。

 

 「お前が変なことしか言わないからだろ」という意見も勿論鋭く飛んでくるだろうが、私は結構世の中の倫理観だとかどうでもいいと考えている人間なので、常識だとかそういったものは差し置いて、自分の話を吟味してほしい、と思うこともあるのだ。

 まぁ、その度にこのようなことを言っても冷たい視線が突き刺さるだけだろう。損しかない。

 

 閑話休題

 

 主張はすればするほど上手くなる。

 

 別に細々と論理立てて意見を述べなくても、力強い(または聞き手が気持ち良くなる)主張をしていれば、味方も増える。

 

 私はそういうやり方は嫌いなので、このブログを長らく読んでいる方ならわかる通り、様々なことに、特に社会問題については、どっちつかずな意見しか述べていない。

 側から見れば、自分の意見を持たない軟弱者のようだろう。

 本当に恥ずかしいことだと思うが、仕方ない。

 

 ツイッターを見ていると、自分の主張で多くの賛同者を集めている人を度々見かけて羨んでしまう。

 

 このままではいけないと思い、最近私も自分の意見を頑張って主張するようにしている。

 当たり前のことを自分の主張ということにして、ダラダラと講釈垂れるだけでも、「お気に入り」や「リツイート」が貰えるので、感覚が鈍りそうだ。

 

 こうして一定の報酬が得られるのだが、そうなると攻撃的な意見が飛んでくるのが怖くなる。

 

 チンピラに絡まれることはそこまで恐れることではないが、相手がマトモなことを言っているとしても、それに自分がしっかりした返事を返せるかどうか、といったことが不安だ。

 反論が飛んでくることへのナイーブさが、なかなか捨てられずにいる。

 

 だからといって、面の皮が厚くなりすぎてもいけない。

 本当に大事なことは、「どっちつかず」なところに眠っていることが多いように感じる。

 それを考えていないと、すぐに自分の嫌っている人のようになってしまう。

 

 でも、そういう意見はウケない。

 主張がヘニョヘニョで、見ていて情けないからだろう。

 

 それでも、こういう所を懐で温めておくのは、大事だと思う。

 私一人が温かくしておいたところで、周りの人は気付かないし、何もかも無意味なのだが。

 


 だらだらと暗いことを書いてしまった。

 明日のTOEICのことを考えるのが嫌で、こういう日記にした。

 現実逃避には、やはり日記に限る。

 

 日本語で伝える力がないのなら、英語も当然ダメダメ。

 会話文は分からないし、英語は聞き取れないし、読むのは遅いし、明日は大火傷しそうだ。

 

 どんなに嫌でも明日は来てしまう。

 少しだけ英単語を復習して、今日はもう休もう。

 

 

全てがMになる

2/3 曇り

 

 自主ゼミを主宰したり、友人らと猫カフェに行ったり、これまでにないほど充実した春休みを過ごせている。

 院試の勉強は継続しねければならないし、卒論のための実験もいよいよ始まるので、これからも大忙しだ。

 

 春休みの間には、抵抗なく英語論文を読めるようになったり、自分の分野や心理統計学にもっと精通しておきたい。

 より良い存在になれるという希望が、今の私を突き動かす力の源だ。

 明日はきっと、私史上最強の私になれるはず。

 

 

 勉強の息抜きに、梅田の街をぶらりと歩いた。

 

 私は街を歩くとき、たいてい斜め下を向いている。

 すれ違う人と視線が合ってしまうのは、少し良い心地がしないからだ。

 

 それに、下を向いていると何かいいものが落ちているかもしれない。

 お金とか、誰かの免許証とか。

 

 別にこれらを奪ったりはしなくても、交番などに届け出るだけでも、立派な暇つぶしになる。

 こういう小さな出来事が、案外日常にメリハリをつけてくれる。

 

 だから私は、「なんかエロいものでも落ちてないかなー」と考えながら、下を向いて歩く。

 地面にエロいものが落ちていた試しなど、一度もないのだが。

 

 エロいものは、落ちているなら正直なんでもいい。

 成人向けの雑誌でも、逆レイプでも、耳舐めでも。

 

 でも、地面に落ちていた耳舐めって、なんだか嫌だ。

 砂埃とか、たばこの吸い殻みたいなバッチイものがへばりついていそうだ。

 そんな耳舐めを欲しがる人なんていない。

 

 万が一逆レイプや耳舐めが地面に落ちていたら、ツイッターで呟くネタにはできそうだが。

 「道に耳舐めが落ちていた」とか、ツイートしてみたい。

 

 

 『逆レイプ』で思い出したのだが、最近『ソフトM』という言葉を知った。

 

 逆レイプだとか耳舐めとか、言葉責めが私は大好物であり、”意味深”なほうのオカズを探すときは、これらのワードをいつも検索するときに使っている。

 

 だが、M向けのコンテンツは振れ幅が非常に大きい。

 相手に押し倒されて最後はイチャラブで終わるものから、終始暴力を振るわれ、最後には社会的に人生が終わってしまうものまで、レパートリーは様々である。

 

 たかがM向けと侮るなかれ。

 そこには豊かな文化が広がっている。豊穣Mゥ!

 

 ドМなら、相手にボコボコにされるのが好物の人も多いだろうが、残念ながら(残念ながら?)私はそこまでのMではない。

 痛いのは嫌いだし、性行為なんてもので誰かを傷つけることになったり、人生が終わってしまうなんてふざけてると思う。

 

 だが、広大で多様な世界があるのにもかかわらず、これらのコンテンツは全て『M男向け』の一言でまとめられてしまうことがほとんどである。

 

 なので、自分好みのオカズに辿り着くのは労力のいる作業だ。

 『逆レイプ』で調べたら、なぜかレイプものばかり検索結果に上がって辟易したり、『言葉責め』で調べても、女性向けの音声作品しかヒットしなかったりする。

 再生したら、ナルシスト風の男に耳元で囁かれ耳を舐められた、なんてことがごまんとある。

 「ガキが……舐め舐めしてると潰すぞ」と、タモリのような気分になる。

 

 

 そこで、『ソフトM』だ。

 

 この言葉は軽い言葉責めといったものを好む人を指す言葉らしい。

 『M男向け』を『ソフトM』、そして『ハードM』に区分する、といった感じだろう。

 

 私は明らかに前者なので、この言葉が存在することはとてもありがたい。

 さっそく、『ソフトM』で検索してみる。

 

 ――だが、まったくオカズが見当たらない。

 流動食やペーパータオルしかヒットしない。

 言葉責めでも、逆レイプでもなく、流動食。

 

 さらに調べてみると、『ソフトM』という言葉自体は十年近く前から存在するらしく、このカテゴリ分けが18禁業界であまり浸透していないだけらしい。

 

 こんな便利な言葉が普及していないのはなぜだろうか? 

 ソフトMの人は、SM関係ないカップルものなどでも満足してしまうからだろうか。

 それとも、ドM勢力が強すぎるからだろうか。

 よくわからない。

 

 著名な哲学者であるドゥルーズ「哲学とは概念を創造することである」と言っているじゃないか。

 哲学でなくても、社会学なんかは概念が大量生産されすぎて、『概念工学』化しているというのに。

 

 エロいことでも、それに名前が付けなければ一つのジャンルとして成立することはできない。

 名付けられなければ、そのエロはこの世に存在できない。

 あえて言うなら、「エロとはジャンルを創造することである」だ。

 我ながら、ドゥルーズに失礼だと思う。

 

 命名法一つ取り上げても、私の好んでいるジャンルでは、『悪堕ち』と『闇堕ち』の表記ゆれや、『クール』と『おとなしい』の境界など、多くの問題が解決されないままである。

 こういった状況がもう何年も改善されずに続いている。

 

 だが、こんなことは誰も研究しない。

 『だいしゅきホールド』や、『アヘ顔ダブルピース』なんて言葉がなぜ生まれたのか、気に掛ける人は少ない。

 

 エロ研究への世間の風当たりは強く、最近では北海道で『エロ漫画表現史』という本が禁書指定された。

 

 私たちは全知ではない。

 人生の重大な問題どころか、エロ業界で用いられている言葉でさえ、知らないことが沢山ある。

 

 知の蓄積が行われないものは、時間と共に去り過ぎていく。

 無知の知を心がけたい。

 むちむち。

 

 

 久々に下ネタ満載の記事になった、やいや、やいや。

 

 男子校を卒業して以来、どんどん下ネタのセンスが訛っている気がする。

 「女子高の下ネタはえぐい」という話を聞いて、「男子校出身の名をかけて、もっとえぐい下ネタを言わなければ」と、ひとり切磋琢磨していた日々が懐かしい。

 

 今となっては、このセンスは無用の長物。

 股間の息子も無用のイチモツだ。

 

 将来セクハラで訴えられないよう、早めに下ネタを頭から消し去りたい。

 

 

正しいことだけコンニチワ! アナタとワタシでコンニチワ!

1/27 曇り

 

 この間、大学院を目指している人が集まるサブゼミのようなものがあって、そこでプレゼンをする機会があった。

 

 私以外の参加メンバーはみんな臨床心理学を専攻していたので、題材として私はEFTというものを紹介した。

 

 EFTとは、エモーショナル・フリーダム・テクニックと言われる心理療法の一つである。

 全身のツボのようなものをタップすることで刺激し、それが心理的な不具合を改善する――らしいのだが、エビデンスは乏しい。

 

 この心理療法を取り上げ、EFTの効果を的確に検証するにはどのような方法論をとればよいか、といった問題を出題した。

 それと同時に、EFTとは質は異なるが、やはりエビデンスがいくらかの研究者に疑われている精神分析を取り上げ、臨床場面で精神分析を用いるのに賛成か反対か、自分の意見を記述させる問題を出した。

 

 EFTの効果の検証については簡単だ。

 ランダム化比較試験といった手法を用いれば、プラシーボの影響を考慮して、ある程度は効果の有無について判断を下せるだろう。

 

 そしておそらく、EFTは臨床の手法として用いるに値しない」という認識に落ち着くだろう。

 既に、数多くの研究がEFTの効果が怪しいものだと示している。

 

 だが、精神分析を臨床の場で用いるか否か、といったことになると、話が変わってくる。

 

 

 言わずもがな、これまでの時代と同様に、心理療法には大きな責任が伴う。

 

 その治療の質の裏付けをするのが、公認心理師という国家資格であったり、臨床心理士という民間資格であったりする。

 

 公認心理師臨床心理士がもし、EFTを行っていたらどうだろうか。

 間違いなく非難の声が上がるだろう。

 

 では、精神分析はどうだろう。

 というと、非常にグレーゾーンだ、わからない。

 その道を究めていない私は明言を避けたい。

 サブゼミでは意外にも、精神分析を臨床場面で用いることに賛成の人が多数派だった。

 

 アイゼンクが1950年代に精神分析を批判したとき、精神分析は確かにプラシーボと同等にしか効果がなかったかもしれない。

 

 だが、今はわからない。

 精神分析にもれっきとした効果があるという統計的なデータもあるし、ユング心理学といった周辺領域も着実にエビデンスを積み上げている。

 

 サブゼミの際、博士課程後期の先輩が「精神分析で行われていることは、実際は認知行動療法と同じかもしれない」と言っていた。

 「クライエントが納得してどの心理療法を選ぶかが大事」とも。

 

 まったく、その通りだと思う。

 思うのだが、私はこの問題が、似た構造の様々な問題と地続きであることから、目を覆いきれない。

 

 

 例えば、子宮頸がんのワクチン接種だ。

 先進国の多くは子宮頸がんワクチンの接種率が高い。

 これにより、子宮頸がんのリスクとなるHPVという原因ウイルスからの感染予防が見込まれている。

 子宮頸がんは、HPVの感染がなければ発生率が劇的に減少する病気だ。

 

 だが、日本はそうではない。

 運動障害など、ワクチンの副作用とされる症状がメディアで喧伝され、子宮頸がんワクチンの接種率が急速に低下した。

 接種率は現在、1%未満だという。

 しかし、ワクチンによってそのような副作用が起こることは、多くの研究で否定されている。

 

 HPVワクチンの差し控えが今後続いた場合、今後50年間で本来なら予防できるはずの子宮頸がん罹患者数は約10万人、死亡者数は2万人に上るとの推計も存在する。

 大災害レベルだ。

 

 世界保健機関による警告がつい最近再び行われていたし、ノーベル賞を獲得した本庶佑も、ストックホルムで子宮頸がんワクチンについての正しい報道がなされることを願っていた。

 

 

 しかし、これらの活動は「自己決定」の一言ですべて無駄になってしまう。

 「ワクチンを接種するかどうかは、本人の自由じゃないの?」という言葉一つで、あらゆるエビデンスも権威も、たちまち力を発揮することができなくなってしまう。

 

 ガンに対する代替医療や、新宗教に入信しようとしている人、ネットで突然排外的な発言を繰り返すようになった人なんかにも、同じことが言えるかもしれない。

 もしかしたら、EFTを受けようとしている人にも。

 

 

 そんなことしても意味ないよ、もっといいやり方があるよ。

 私が「正しい」と信じていることは、彼らの「正しさ」の前には全くの無意味だ。

 

 「本人の自由だろ」で、ハイおしまい。

 だから私は、こういうものに対して黙り込む。

 黙り込むしかない。

 

 

 岸政彦という社会学者の『断片的なものの社会学』という本に、こんな文章がある。

 

私たちは神ではない。私たちが手にしていると思っている正しさは、あくまでも、自分の立場からみた正しさである。(中略)こういうときに、断片的で主観的な正しさを振り回すことは、暴力だ。

 

 私の視点は、エビデンスベースドや、認知行動療法が交流を極めている現代からのものでしかない。

 現在、精神分析が受けている厳しい目線を、いつか認知行動療法が受けるかもしれない。

 

 そういう意味では、エビデンスに基づいた意見であっても、それを「正しさ」として振り回すことは暴力なんじゃないか。

 そんな気がしてくる。

 

 私個人でも「正しさ」の問題には、納得のいく答えが得られていない。

 多分、考え続けることが重要な類の問題なのだろう。

 

 だから私は、足りない頭で考え続ける。

 

 

 それぞれの「正しさ」を相対化して、対話することならできるんじゃないだろうか。

 そのようなことを、ふと考えた。

 

 クライエントが何となくで精神分析認知行動療法を選ぶ前に、それぞれの立場の専門家ができることは多い。

 それは、公認心理師臨床心理士が社会に対し担う責任の一端であるし、そうでなければならないと思う。

 

 

 『断片的なものの社会学』では、こういった「正しさ」について、「社会に意見を表明し、それが聞き届かれることを祈ることはできる」と書かれていた。

 

 このブログは、所詮私の思考の掃き溜めでしかないが、それでもこの問題について、誰かが考えてくれることを祈っている。

 

 

机上の九龍

1/16 晴れ

 

 久しぶりに京都に行った。

 私はたとえ日帰りでも、旅にはなんらかの目的をもって赴くタチの人間である。

 無目的に旅行に行くのは、することが途中でなくなるので、あまりしたくない。

 

 

 今回の大きな目的は、「フォーエバー現代美術館」に行って、草間彌生の作品群を鑑賞することだった。

 

 どうもこの美術館、今年の二月の終わりに閉館してしまうらしい。

 消えてしまったものにはいくらお金を払っても出会えないので、時間のある今のうちに行くことにしたのだ。

 

 「フォーエバー」を名乗っておきながら閉館するというのは、皮肉なものだ。

 20世紀初頭に書かれた『現代』を名乗っている本を見つけたときのような、なんとも言えないこそばゆさ。

 

 『フォーエバー』と『現代』、いわば未来永劫と須臾であり、その性質は正反対のはずだが、どちらも陳腐な響きの言葉だ。

 J-POPの歌詞に多用されているからだろうか。

 「今この瞬間を片翼で駆けて永遠にしたい」的な歌詞は、確かによく聴く。

 軽やかなメロディに反して、歌詞にあるこういった概念は、人間にはちと荷が重い。

 

 

 「フォーエバー現代美術館」はやはりといった感じで、カボチャだらけだった。

 おおまかな時系列に沿って彼女の作品が展示されていたので、作風の変遷を見ることができて面白かった。

 

 ミュージアムショップに寄ったら、例のカボチャのオブジェが売られていた。

 野球ボールほどの大きさなのに、二万円もするものがあったり、全体的に割高だ。

 貧乏学生の身分では手が届かない。

 

 カフカは『万里の長城』で、権力は距離に反比例して減衰していくことを示しているが、作品の価値だったり、作者の名声なんかはどこまで行っても衰えないようだ。

 今でもモナリザは価値のあるものだし、ブラジルで作られたアートも、日本で作られたものとそう違わない評価を、私たちは作品に下すことができる。

 

 なにか芸術作品を残せば、それを観覧する人に一目で自分の存在を印象付けることができる。

 時間も空間も超えて、多くの人に自己表現をすることができる。

 アートの持つ巨大な力の片鱗だろう。

 

 

 美術館を出た後も、まだ日が暮れるまでは時間があったので、ひとまず喫茶店に向かった。

 三条の小川珈琲という喫茶店で『異端の統計学ベイズ』(草思社文庫)を読んだ。

 

 ここは、ゆっくりできるいい喫茶店だった。

 次に京都に来たときのゆっくりプレイスにするのもよさそうだ。

 

 

 今年は亥年であることを思い出し、遅めの初詣をしようと、イノシシを祀っていることで有名な護王神社に向かった。

 三条から護王神社まではそれなりの距離があるので、色々考え事をしながら向かった。

 

 京都に来ると毎回思うのだが、この街は人の通行量が本当に多い。

 バスは多いし、車も多いし、歩行者も多いし、自転車も多い。

 私は活気あふれる街が好きなので、そこまで悪い気はしなかったが、京都市に住むのは大変そうだなと嘆じた。

 

 

 そうこうして歩いていると、古ぼけた金物屋を見つけた。

 なんてことないありふれた金物屋だった。

 

 だが、それを視野に入れた瞬間、唐突にあるイメージが頭に浮かんだ。

 それは、自身が一生金物屋でぼーっと過ごすという、悪辣な想像だった。

 

 そのような、見ず知らずの金物屋の主人に対して失礼な想像をしてしまったことに、少しの羞恥を覚える。

 

 それと共に、このイメージは私にとって恐怖を抱かせた。

 『5億年ボタン』のように、途轍もない時間を理不尽に一人ぼっちで過ごさなければならない。

 そういった類の恐怖だ。

 

 まったく、全国の金物屋に失礼だ。

 そう思いはするのだが、やめられない。

 私の悪い癖の一つだ。

 

 毎度のこと、このような想像をしてしまったときは、その想像を良い方向に向かわせるよう努力している。

 きっと、この金物屋には大手商社も持っていないような敏腕職人とのコネクションがあり、すこぶる質のいい包丁や鍋が相場より安く売られているのだ。

 そして、京都中の料理人がこの金物屋に仕事道具を求めてやってくるのだ……と。

 

 もちろん、事実は私には分からない。

 本当にぼーっと金物屋をやっているのかもしれないし、そうでないかもしれない。

 村上春樹風の曖昧さをその場に残して、私は引き続き神社に向かった。

 

 

 護王神社はこじんまりとした神社だ。

 といっても、奥の方には立派なお社がでんと構えている。

 「執心のない一年になりますように」と本殿に願掛けをしてから、その後におみくじを引いた。

 人生の乱数調整だ。

 

 結果は吉だった。

 待ち人の箇所に目を移すと、「きたる」とだけ書かれていた。

 これまで、一度も来てくれた試しがない。

 透明な気持ちのまま、私は踵を返した。

 

 

 そして、日記を書いている現在に至る。

 マトモな日記を書くのは久しぶりかもしれない。

 

 パソコンの隣に聳え立つ本の山が無秩序な違法建築のように見えたし、金物屋についての突拍子もない妄想を綴ったので、今回のタイトルは「机上の九龍」にしようと思った。

 

 どこかの誰かと発想が被っていたら嫌なので、試しに「机上の九龍」で検索してみたら、知らないヤンキー漫画が出てきた。

 これはセーフ、と謎の判断基準を持ち出して、これをタイトルにすることにした。

 

 さて、次回の旅行はどこに行こうか……

 

 

2019年、20歳、豊富な抱負。

1/2 晴れ

 

 新年あけましておめでとうございます。

 

 西暦で奇数の年は、よほど大きな出来事が起きない限り、偶数の年に比べて印象が薄くなる気がする。

 

 一方で、2019年はラグビーワールドカップが開催され、元号も改められる。

 さらには卒論や院試も控えているので、記憶に残る一年になることだろう。

 

 ポジティブな記憶か、それとも二度と思い出したくない年になるかは、まだわからない。

 

 記憶は呪いの装備のようなもので、かなり強く頭を打たないかぎりは、なかなか振り払うことができない。

 今年の記憶が祝福すべき『まじない』になるか、しつこい『のろい』になるかは、私の日頃の行いにかかっている。

 

 

 さて、年が明けたということで、新年の抱負でもここに記しておこうと思う。

 

 大学四年生を迎えるにあたって、私も周囲の例に漏れず、いよいよキャリアを選択していかなくてはならない。

 現時点では、心理学だったりを学んでいるのが結構楽しいので、とりあえず大学院に進もうと考えている。

 

 だが、去年はそれに向けた取り組みのやることなすことが全て裏目に出ていたように感じる。

 

 プレゼンテーション能力を鍛えようと発表の多い授業を履修したら、グループワークが待ち構えていて、社会性のない私は発表も何もかもボロボロになった。

 

 「ベイズ統計って面白そうだなぁ」と思って参加した東京大学の集中講義では、数学力不足を痛感した。

 

 飛び入り参加した某サマースクールでは自分の専門と扱われていた話題が違いすぎた挙句、またまたグループワークがあり、せっかくの学会発表を頓珍漢な発言でズタズタにしてしまった。

 

 さらにはTOEICを受験し損ねた。

 もう! ダメダメだ!!

 

 

 失敗は、冷静に分析するしかない。

 まず、グループ内の進捗を適宜確認し、情報共有を行う程度のコミュニケーション能力は欲しい。

 

 さらには数学、特に確率論や線形代数について勉強しなくてはならない。

 高校時代の数学偏差値35アンダーは伊達ではない。

 

 最後に、英語はリーディングとリスニングに焦点を当てて勉強したい。

 大学一年生の頃、TOEICは345点だった。

 センターで8割は得点できる人間のとる点数ではない。

 ともかく、大学院の入試ではTOEICの点数が用いられるので、必死でやらないと人生が詰む。

 

 2019年は勝負の年だ。並み居るライバルと張り合っていかなくては、私の望む未来はない。

 

 

 最近、ツイッターで私よりも明らかに勉強熱心な学生をフォローすることが増えた。

 勉強熱心な学生は、それまた別の勉強熱心な学生と繋がっているわけで、去年からモンスター級の学生がタイムラインに流れてくる。

 

 ある人はスイスの大学に留学したり機械学習についての本を出版したり、またある人は既に国内の学会発表を数回済ましていたり。

 自分と分野が違うことは分かっているのだが、進捗の生まれるスピードが私とまるで違う。

 それを見かけるたび、嫉妬がムラムラっと湧き上がってくる。

 

 「こんなことしてる場合じゃねえだろ、俺」と思って何かに取り組もうとするのだが、焦燥感ばかりが積もっていく。

 

 もしかしたら、私を見て嫉妬している人も、どこかにいるかもしれない。

 いや、いないか。

 未だ私は見るに堪えないクソザコナメクジボノボのままなので、もっと大勢に嫉妬される人間になりたいものだ。

 

 現実の場面でも、すごい同級生に出会うことが増えた。

 彼らはMITの学生だったり、数理統計にべらぼうに強い同級生だったりする。

 旧帝大の学生と話をしては、その教養の厚さに、私が無駄にしてきた大学入学以前の人生を悔やむばかりだ。

 

 これらの嫉妬心や、将来の道筋が見えない不安や、同じ道を歩む者が周囲にあまりいない孤独感によって、じりじりと追い詰められている。

 

 

 前置きが長くなった。

 とにかく、今年達成しなければならない目標を羅列する。

 

 TOEIC750点以上を獲得する。

 統計検定2級以上に合格する。

 大学院入試に合格する。

 無事に学部の単位を取りきる。

 

 以上のことは絶対だろう。

 

 できれば達成したい目標は、

 日本心理学会の学部生セッションに参加する。

 Rでの統計モデリングを少し分かるようにする。

 学会でポスター発表する。

 様々なバックグラウンドを持ち合わせた人が多くいる場所で、全員に伝わるような言葉遣いを身に着ける。

 といったところだろうか。

 

 また、前年度に引き続いて、自分より優れたスキルを持ち合わせている人の行動や思考をとことんパクっていきたい。

 その人が何を見ているか、何に日常的に触れているか、何をどのように実践しているか、といったことが理解できれば、それはそのまま私の成長にも繋がっていくだろう。

 

 自分の弱点を分析し、人の長所をパクり、双方を自分の実践に取り入れる。

 それの繰り返しだ。

 

 最後に、自分が通用しそうなニッチを見つけておきたい。

 機械学習脳科学の分野は同年代の学生が専門に特化しすぎている。

 追い抜くことは難しいので、自分が「この分野ならこの人!」となれるような場所を探して、先に陣取っておかねばならない。

 

 

 『置かれた場所で咲きなさい』というベストセラーがあるが、今だ私は根無し草だ。

 

 流れるも留まるも運任せ、そのような中で精一杯背伸びするしかない。

 

 綿毛のようにふわふわ逞しく、風の吹く場所へ進んでいこう。