きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

比較の獣になりたいの

6/3 晴れ
 身にならない日々。神経科学の勉強をしたり、英語論文のアブストラクトを和訳したり、それなりに勉強はしているが、何かが好転した実感はない。それでも、こういった行いが積み重なり、振り返れば過去の自分が幼稚に思える日が来ることを知っているので、漫然とそうしたことを続けている。

 必死こいて卒論を書いても、未来の自分はそれを馬鹿にすると考えると、鬱屈とした心持ちになる。そうしていても始まらないので、コツコツ卒論を書き上げる準備をする。他人の目線のみならず、自分自身のそれも気にするような臆病者になってしまった。がむしゃらにやっていくしかない。

 


 私は勉強をするとき、よく先達の上手なところを見習って物事を進めている。自分と誰かを他人から比較されることを恐れるのにもかかわらず、自分と誰かを自身の視線から比較することをよくする。

 比較する対象はどんな相手でもいい。日本を代表するような大先生でも、同級生でも、後輩でも構わない。先日訪れた日本認知心理学会なんかでは、どこかの大学の教授のプレゼンを見て、「先行研究は文章でなく、結果の図表をスライドに乗せて、それを口頭で説明すればわかりやすく伝わるのか」とか「研究のストーリーが一貫していてわかりやすい、聴衆への情報の取捨選択が上手くなされている」とか、自分に足りないものを数多く気付かされた。

 若干50歳の教授であった。きっと、若い頃より努力を続けてきたのだろう。洗練されたプレゼンをみると少し自己嫌悪に陥るが、この教授も一瞬でこの境地に到達した訳ではないと己を奮い立たせた。

 

 

 反対に、わかりづらいプレゼンからも学ぶことは多い。なぜ自分にとってそのプレゼンがわかりづらかったかを分析して、自分も同じ間違いに嵌らないようにすることが大切だ。こうして、日頃のゼミだったり、先輩の卒論発表会だったり、様々な場面で勉強させてもらっている。

 直感的にわかりやすいプレゼンが作れる天才でもないので、こういったことを続けているが、なかなか思うようにはいかないのが現状だ。「完璧より完成を目指せ」というマック・ザッカーバーグの名言(らしきもの)を念じて、卒論にも取り組む次第である。

 

 

 とりあえず今は、似たようなテーマで研究をした先輩の卒論と、個人的に読みやすいと思った同大学の修士論文の構造を見比べている。上手い修士論文は、序論で挙げられているキーワードがその人の研究に直結しており、雑味がなくスマートだ。このような点を自分の卒論に取り入れて、上手くやっていきたい。

 “上手くやる”というのが、いつも難しいのだが……

 


 ということで、最近の勉強面での気づきをここに記しておこうと思う。気づいたのはいいものの、うまく実践できていないことばかりなので注意されたし。

 


 PowerPointのフォントは最低でも30ポイント以上。A4に6枚スライドを載せる印刷方式で、老眼の人でも見えやすいように。


 略語が頻繁に登場する際、プレゼン中でも索引しやすいように、その略語のもともとの意味は強調しておく。もしくは、略語が登場するたびに口頭でその意味を繰り返し説明する。


 プレゼンの際はこれまでの研究 → その問題点 → 問題の検討(実験など)→ 結果から言えること(聴衆に持って帰ってもらいたいメッセージ)という流れを大切にする。簡単なことだけど忘れてしまう。悲しい。


 研究の結果に影響するような要因、自分の研究に活かせそうなこと、別の視点からの考え(e.g. Aという現象は行動学的アプローチ/認知科学的アプローチのどちらで説明するのが“シンプル”か?)、論理の飛躍、手続き上の問題等々を意識して、プレゼンを聞く。自ずと質問はそこから湧いてくる。


 知らないことをちゃんと「知らない」と言う。悔しさをバネに、わからなかったことは後で白目を剥きながら調べる。

 


書くのが面倒臭くなったのでここで止める。明日からも実験アンド実験だ。上手く、上手くやっていこう。

 


 

日記 5/14〜5/16

5/14
友達と話して、実験して、寝た。幼少期の頃の自分はどうだったか、みたいな話題が少し出た。

そういや、私は幼少期の記憶があまりない。虫をすり潰して、亀に指を噛まれ、胴体切断マジックに驚き泣き叫んだ。そのような記憶しかない。そもそも記憶がしっかりしてくるのも、高校時代に入ってからだ。あまり昔のことを思い出せない。

「ウーン」とアイデンディティの欠如に唸りながら阪急電車に乗り込めば、世界各国の死刑制度の違いについて喋っている6歳くらいの子供がいて、思わず仰け反りそうになった。西宮は富裕層が多いので、こういう教養溢れる子供が多くて困る。彼らが成人を迎えた時、果たしてこういった会話を覚えているのだろうか。いっそ中学生になる頃には、強烈なバカになっていて欲しい。狂気の甘味を召し上がれ。


5/15
実験、文献、睡眠。実験で仮説を支持するような結果が出たので、胸の昂りを抑えきれずキャンパス内をひたすら徘徊した。そうしてウロウロしていると落ち着いてきたので、朝永振一郎の日記を読むなどして、ゆったりとした午後を過ごした。

卒論の準備と院進の対策、重要な事柄が頭の中でせめぎあった結果、どちらにも関係ないことをしてしまった。しなければならないことが頭を占有するのはよくない。面倒な予定が数日後に控えている場合など、最悪である。近頃は神経衰弱の傾向にあるので、メンタルヘルスを保ちつつ、丁寧な生活を送ることにする。


5/16
実験、動画制作の準備、おやすみ。

自分の実力のなさを、どう埋め合わせればいいのかを考えている。例えば、私のよく知るスゴい人たちを眺めてみると、環境ブーストがかかっていたり、1日に十数時間も勉強するなど、もともとの努力の量が凄まじいことが見て取れる。じゃあ私は何をすればいいのか。正直、「学部生のうちにしたいことはしておけ」という思いと、「学部生のうちから効率的に努力しておけ」という思いが拮抗している。

私にしかできないこと(私しかしないこと)というところで考えると、心理学の解説動画をVtuber、ゆっくり、淫夢仕立てで制作することを学部生のうちにしておきたい。こういうダーティで俗っぽいことは、いずれ誰かがしなくてはならない。ただでさえ、心理学は誤解の多い学問だ。その誤解を解くのに、アカデミズムからアプローチしていくことは時間の浪費だろう。例えば、大衆向けに心理学の入門書など出版しても、多くの人は興味も向けず、世俗的心理学が蔓延る現状を変えることはできない。動画だったりで、エンタメ性を高めることで多くの人の目に留まらせることは、少なくとも先述の手段より有効だろう。それに、こういう汚い手段に訴えることは、学部生のうちにしかできない。とりあえず、院試の勉強がてら資料を調べて、動画のプロットから作成していくことにしよう。

 

 

「意識高い系」は砕けない

 最近、「塚本廉」という人物が話題になっている。
 どうやら、意識高い系の学生の中で彼はカリスマ的存在として扱われていたらしい。

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 だが、「日立製作所から東大へ、さらにイスタンブール大学院に在籍し、多くの会社を経営」という彼の語っていた輝かしい来歴は、全て嘘だったという。
 塚本氏のツイッターアカウントを直接覗きに行くと、「本当は中卒、ニートであり、事業もこれ一つありません」と告白するツイートがあった。

 

 「本当は文京学院大学の卒業生であり、『中卒ニート』という極端な肩書きを再び手に入れることにより、再び息を吹き返そうとしている」なんて意見がツイッターで散見されるが、まあ、どうでもよい。


 彼と私の人生は今後とも交わることはないだろう。


 彼としても、私のような無名大学生と関わる動機もないだろう。

 

 


 この件に関してネットサーフィンに耽っていたら、こんな記事を見つけた。

 

 https://note.mu/noteobonai/n/n7f5b17a1c459?creator_urlname=noteobonai


 こちらの記事は、どうやら塚本氏と「ちょっとだけ」人生の道が交わった人によって書かれたもののようだ。


 簡単に要約すると、このnote記事の書き手は「意識高い系」のカリスマであった塚本氏へのFacebook上のコメントを挙げ、「意識高い系」が既存の社会へのカウンターを打とうとした結果、自身らにとって居心地の良い「でっかいムラ」を作ることしか成し得なかった現状を批判している。


 また、「意識高い系」の「アンチエリート主義の未遂」を滑稽であるとし、「東大卒、多くの会社を経営」といった経歴主義が、そのまま世俗の学歴主義信仰の延長線上にあることを指摘している。


 「塚本廉が嘘だったんじゃない、全部が嘘だったんだ」、書き手はこう締めくくっている。

 

 


 では、ここで批判されている「意識高い系」学生は、いかにして形成されてきたのか。


 「意識高い系」に関する数少ない書籍のうち、その中の一つである常見陽平著「『意識高い系』という病」(ベスト新書)では、「意識高い系」という語の起源に遡る試みが行われている。


 2000年半ば頃、「意識の高い学生」という表現が語義の通り「能力が高く、知識や経験が豊富な優秀である人材」として、就活市場で用いられるようになったという。


 そして、2008年のリーマンショックの折に新卒採用が大きく削られたことにより、ますますSNSなどで自らが「意識の高い学生」であることを喧伝するようになった。
 


 調べてみると、「意識高い系」という語がネガティブな意味を持つ語として使用されるようになったのは、2010年以後のことらしい。


 これは、先ほどのnoteの冒頭で書かれていた「意識高い系」界隈の興りとも、そのまま一致する時期である。


 その少し後の2012年には、朝井リョウ著「何者」(新潮社)で「意識高い系」の学生の姿が描かれるなど、ますますこの用語は本来の意味とは違った形で広まっていったことが伺える。

 


 
 「意識高い系」がネガティブに扱われるようになってから9年、「何者」の出版から7年が経った現在、「意識高い系」は消滅したのだろうか。


 答えは、もちろん「NO」である。


 冷たい目線や嘲笑が存在するのにもかかわらず、その現場に反して、「意識高い系」は現存し続けている。

 


 例えばSNS
 「意識高い系」界隈はもはや学生に留まらず、小学生から中年まで幅広い年代の人が所属するコミュニティとして拡大を続けている。
 今年にも、中学生が無計画にヒッチハイクアメリカを横断しようとした件で、炎上する事案が発生している。
 「旅をすることで多くの人に勇気を与えたい」など、彼の言動は確かに「意識高い系」の文脈に拠っている。

 


 例えば現実場面。
 企業の選考が解禁されてから一ヶ月以上が過ぎた今、数多くの「意識高い系」の話を友人との会話で耳にする。
 彼らはその輝かしい経歴を振りかざし、文学部の内向型人間たちを就活でバッタバッタとなぎ倒しているらしい。


 そう、「意識高い系」は、確かに就活ではメッポウ強いのだ。

 

 


 「意識高い系」界隈が今でも活発なのは、おそらく学生の側ではなく、企業(または社会)の側に要因がある。

 


 第一に、「意識高い系」は就活で有利になるという大きなメリットがある。


 もとより、企業の望む学生像として誕生した「意識高い系」が、就活市場において弱者になる訳がないのだ。
 そして、企業の求める学生像はリーマンショック当時とさほど大きくは変わっていない。


 むしろ、「自分で問題提起を行える人間」「社会問題に関心がある人間」など、求める人間像はますます「意識高い系」に有利になっているように見受けられる。

 


 第二に、「意識高い系」になることへの社会的な動機づけが継続されている。
 2015年に持続可能な開発目標(SDGs)が策定されたことを象徴として、「意識高い系」に代表的なボランティア活動がますます奨励されていった。


 また「ポスト・ヒューマン」「シンギュラリティ」概念に代表されるような、「確定された新時代」観が普及していったことにより、プログラミングという「地味目」なスキルが、「自分磨き」と繋がり、「意識高い系」でも流行していった。


 「意識高い系」への入り口が緩くなったことが、ますます「意識高い系」界隈の存続に寄与しているものと思われる。

 

 


 以上より、「意識高い系」界隈は今後当分消滅しないものと考えられる。


 まあ、私の妄想も多分に含まれているし、今後は何が起こるかわからない(これは彼らが好きな言葉の一つだ)ので、なんとも言えない。

 


 朝井リョウの「何者」では、ラストシーンで「意識高い系」をイタイものだと見下していた主人公に手痛いしっぺ返しが待っていた。


 自分は自分にしかなれない。
 だから、笑われても、冷笑されても、海外ボランティアをアピールし、説明会で名刺を配る。

 「意識高い系」の登場人物は、そう主人公を諭した。

 


 誰かを観察することだけで、私たちは「何者」かにはなれない。
 それは、批評家の銅像が建たないのと同じことだろう。

 


 自らの行いによって「何者」かに近づける以上、「意識高い系」は砕けない。
 
 果たして、塚本氏は、本当の経歴をさらけ出すことで、「何者」かになれるのだろうか。

 

 

10101

3/24 曇り時々晴れ


 3/11は誕生日だった。

 無事、21歳になった。

 抱負という抱負もないが、今年は色々と大切な年なので、院試や卒論を上手くこなしていきたい。

 


 最近は実験、バイト、勉強など、さまざまなことで忙しかった。

 

「日記を3月は出来るだけ書こう」と決めたのはいいものの、身体と頭がそれについてこない。

 いつもの意志薄弱である。

 

 バイトでシフトを見落としてしまったり、失言をすることが何度もあったり、21歳の初めから反省することが多い。

 完璧主義は自分を追い込むばかりなので良くない。

 それはそうなのだが、物事を深く捉えすぎないのも、私のポリシーに反する。

 

 適度に自らを省みて、漸進的改良主義者であり続けるほかない。

 それが本当に、難しいのだが。

 

 


 なんてことない日記を書く。

 

 就活シーズンなので、スーツを着て説明会に向かったり、エントリーシートを作っている最中の友人に遭遇するようになった。

 「何社選考に通った」だとか、「祈られた」など、そういう話も頻繁に聞く。

 

 「大学院志望者には縁のないことだ」と斜に構えるのも面白くないので、就活のシステムや色々な業界について、ここ数日は勉強している。

 本当は、そんなことしている暇はないのだが……。

 


 そうしているうちに、私は「人を理解すること」を重視しているのだと気づいた。

 感情の表出も受容も苦手なので、人を理解することで、これまでそこを補ってきたのではないか、と思うようになった。

 

 就活について勉強しているのも、同級生の多くが就活しているなかで、彼らを理解しようとする強迫的な観念に起因しているのではないか。

 

 
 人を理解することは、当然良いことづくめである。

 

 相手の好きなことも嫌なことも分かるというのは、なかなか面白い。

 人助けをするにしろ嫌がらせをするにしろ、最適な一手を打つことができる。

 

 日常において、私は偽悪的に振る舞っている(ことが多い)と自認しているので、そういうときに人を理解していると、どういう動きをすればいいかの有効な情報源になる。

 また、そんな振る舞いから離れて、本気で誰かの相談を聞いているときにも、私の最もクールな部分が相手の情報を整理して、いい感じに駆動してくれる。

 

 ここら辺の私の行動については、自己分析が足りないのか、自分自身もあまりわかっていない。

 就活ならすぐに祈られてしまうレベルで、私は私のことをわかっていない。

 他者を理解するのが好きなのに、自身への理解が進んでいないというのは、なかなか皮肉である。

 

 

 理解から得た情報を使って、人の相談に乗るのも基本的に好きだ。

 このクソッタレな世界のことを忘れられるから。

 

 誰かの人生の物語に触れることは、過度のニヒリズムから私を解き放ってくれる。

 私に相談することが、相手の手助けになっているかどうかは分からないが、とにかく私の役には立っている。

 モノクロの生活に色彩を与えてくれる。

 


 だが、理解はしんどいことでもある。

 

 まず、人を理解すること自体が、それなりに体力の使うことである。

 自分のタスクをなおざりにして、誰かの理解に時間を費やすこともこれまであった。

 

 その結果として、自分の言葉が誰かに届かず、路傍に転がることもざらにある。

 これは相当に辛い。

 

 それに、そもそも相手を理解したつもりで、誤解したままであることもあるだろう。

 人の地雷を踏み抜いてしまうことも、そこそこある。

 

 人を理解する作業は、同時に自分の無力さを思い知らされる作業でもある。

 


 しかし、そうするしか私には方法がないのだ。

 

 「お前は快と不快の感情しか持ち合わせていない」ということを、ある人から投げかけられたことがあった。

 この言葉は、今も私の脳裏に呪いのように刻み込まれている。

 

 怒ることも泣くことも苦手で、笑うことしか知らない私は、理解によってその欠如を埋め合わせようとしている。

 だが、それがなかなか上手くいかない。

 

 そろそろ、この空洞に注ぎ込む「何か」を探さないといけないのかもしれない。

 それを、21歳の目標にしようと思う。

 

 足りない系の私に充塞を。

 遥か幼少期に飛び立っていった感情たちに慰霊を。

 

 

アレシボ・メッセージ

3/9 晴れ


 今日からipad proで日記を書き始める。「プロ」なので。

 

 小さめのキーボードは、手が大きい私にとって少し扱いずらいが、タイピングの練習だと思って我慢する。

 ipad自体、画面のサイズが11インチとコンパクトなので、電車の中など、様々なところで筆記作業を行えるようになったのは大きい。

 

 小説の執筆などができればいいのだが、大学院の試験や卒業論文の研究が忙しいので、その時間をとることができずにいる。

 

 夏以降は暇になる予定なので、様々なことをやるつもりでいる。

 小説執筆やお絵かきとか、動画制作とか、機械学習とか、作曲とか、やりたいことばかりだ。

 

 院試に受からなかったら、色々とヤバイ。頑張ろう。

 


 「人に何かを伝える」ということを、ここ最近はずっと考えている。

 

 文章でも会話でもそうだが、人に何かを伝えるのは難しい。

 

 日常的に、主にコミュニケーションのすれ違いによって、私たちは相手のことを勘違いしながら生きている。 

 

 外国人労働者をバカだと勘違いしたり、根拠の中に相手を否定するような感情を練りこんでしまったり。

 意思疎通の不全による面倒なことは、枚挙にいとまがない。

 

 だが、SNSひとつとっても、私たちは十分に意思疎通ができているとは言い難い。

 

 例えばSNS上において、自分は皮肉を込めてメッセージを発信し、相手にそれが皮肉だとちゃんと伝わると予測していたとしても、ほとんどの場合、相手は自分のメッセージが皮肉なのか本心なのかを判別することができない、ということがを示す研究が存在する(ここに引用を貼ろうと思ったが、研究がネットでなかなか見つからなかった。NTT出版の「新版インターネットの心理学」という本に詳細が載っていたので、興味のある人は読んでほしい)。

 

 ネットの文章だけの意思疎通は、現実場面での表情や会話の文脈など、相手のことを理解するのに必要不可欠な情報がことごとく抜け落ちている。

 

 そのような状況では、壊れるほど伝えても三分の一も伝わらない。

 純情な議論が空回りである。

 アイラビューさえ言えないでいるマイハァート。

 


 私は、人に何かを伝えるのが苦手だ。

 プレゼンも下手くそだし、全力で相手に伝えようとしても、なかなか言葉が届かない。

 

 大学生になってから、読書をはじめたお陰か、人の話を聞くのは幾分マシにはなった。

 知識が増えると、相手の話を理解するのが簡単になる。

 そのおかげで、ある程度は理解できるが精通しているものは何もない、器用貧乏な人間になってしまった。

 

 しかし、自分から意見を主張するスキルが鈍ってしまった。

 やはり、コミュニケーションはサボったら終わりだ。

 

 なぜ積極的に主張をしてこなかったかというと、したところで誰もマトモに取り合ってくれないし、人間関係が捻れて拗れて面倒くさくなるからだ。

 

 「お前が変なことしか言わないからだろ」という意見も勿論鋭く飛んでくるだろうが、私は結構世の中の倫理観だとかどうでもいいと考えている人間なので、常識だとかそういったものは差し置いて、自分の話を吟味してほしい、と思うこともあるのだ。

 まぁ、その度にこのようなことを言っても冷たい視線が突き刺さるだけだろう。損しかない。

 

 閑話休題

 

 主張はすればするほど上手くなる。

 

 別に細々と論理立てて意見を述べなくても、力強い(または聞き手が気持ち良くなる)主張をしていれば、味方も増える。

 

 私はそういうやり方は嫌いなので、このブログを長らく読んでいる方ならわかる通り、様々なことに、特に社会問題については、どっちつかずな意見しか述べていない。

 側から見れば、自分の意見を持たない軟弱者のようだろう。

 本当に恥ずかしいことだと思うが、仕方ない。

 

 ツイッターを見ていると、自分の主張で多くの賛同者を集めている人を度々見かけて羨んでしまう。

 

 このままではいけないと思い、最近私も自分の意見を頑張って主張するようにしている。

 当たり前のことを自分の主張ということにして、ダラダラと講釈垂れるだけでも、「お気に入り」や「リツイート」が貰えるので、感覚が鈍りそうだ。

 

 こうして一定の報酬が得られるのだが、そうなると攻撃的な意見が飛んでくるのが怖くなる。

 

 チンピラに絡まれることはそこまで恐れることではないが、相手がマトモなことを言っているとしても、それに自分がしっかりした返事を返せるかどうか、といったことが不安だ。

 反論が飛んでくることへのナイーブさが、なかなか捨てられずにいる。

 

 だからといって、面の皮が厚くなりすぎてもいけない。

 本当に大事なことは、「どっちつかず」なところに眠っていることが多いように感じる。

 それを考えていないと、すぐに自分の嫌っている人のようになってしまう。

 

 でも、そういう意見はウケない。

 主張がヘニョヘニョで、見ていて情けないからだろう。

 

 それでも、こういう所を懐で温めておくのは、大事だと思う。

 私一人が温かくしておいたところで、周りの人は気付かないし、何もかも無意味なのだが。

 


 だらだらと暗いことを書いてしまった。

 明日のTOEICのことを考えるのが嫌で、こういう日記にした。

 現実逃避には、やはり日記に限る。

 

 日本語で伝える力がないのなら、英語も当然ダメダメ。

 会話文は分からないし、英語は聞き取れないし、読むのは遅いし、明日は大火傷しそうだ。

 

 どんなに嫌でも明日は来てしまう。

 少しだけ英単語を復習して、今日はもう休もう。

 

 

全てがMになる

2/3 曇り

 

 自主ゼミを主宰したり、友人らと猫カフェに行ったり、これまでにないほど充実した春休みを過ごせている。

 院試の勉強は継続しねければならないし、卒論のための実験もいよいよ始まるので、これからも大忙しだ。

 

 春休みの間には、抵抗なく英語論文を読めるようになったり、自分の分野や心理統計学にもっと精通しておきたい。

 より良い存在になれるという希望が、今の私を突き動かす力の源だ。

 明日はきっと、私史上最強の私になれるはず。

 

 

 勉強の息抜きに、梅田の街をぶらりと歩いた。

 

 私は街を歩くとき、たいてい斜め下を向いている。

 すれ違う人と視線が合ってしまうのは、少し良い心地がしないからだ。

 

 それに、下を向いていると何かいいものが落ちているかもしれない。

 お金とか、誰かの免許証とか。

 

 別にこれらを奪ったりはしなくても、交番などに届け出るだけでも、立派な暇つぶしになる。

 こういう小さな出来事が、案外日常にメリハリをつけてくれる。

 

 だから私は、「なんかエロいものでも落ちてないかなー」と考えながら、下を向いて歩く。

 地面にエロいものが落ちていた試しなど、一度もないのだが。

 

 エロいものは、落ちているなら正直なんでもいい。

 成人向けの雑誌でも、逆レイプでも、耳舐めでも。

 

 でも、地面に落ちていた耳舐めって、なんだか嫌だ。

 砂埃とか、たばこの吸い殻みたいなバッチイものがへばりついていそうだ。

 そんな耳舐めを欲しがる人なんていない。

 

 万が一逆レイプや耳舐めが地面に落ちていたら、ツイッターで呟くネタにはできそうだが。

 「道に耳舐めが落ちていた」とか、ツイートしてみたい。

 

 

 『逆レイプ』で思い出したのだが、最近『ソフトM』という言葉を知った。

 

 逆レイプだとか耳舐めとか、言葉責めが私は大好物であり、”意味深”なほうのオカズを探すときは、これらのワードをいつも検索するときに使っている。

 

 だが、M向けのコンテンツは振れ幅が非常に大きい。

 相手に押し倒されて最後はイチャラブで終わるものから、終始暴力を振るわれ、最後には社会的に人生が終わってしまうものまで、レパートリーは様々である。

 

 たかがM向けと侮るなかれ。

 そこには豊かな文化が広がっている。豊穣Mゥ!

 

 ドМなら、相手にボコボコにされるのが好物の人も多いだろうが、残念ながら(残念ながら?)私はそこまでのMではない。

 痛いのは嫌いだし、性行為なんてもので誰かを傷つけることになったり、人生が終わってしまうなんてふざけてると思う。

 

 だが、広大で多様な世界があるのにもかかわらず、これらのコンテンツは全て『M男向け』の一言でまとめられてしまうことがほとんどである。

 

 なので、自分好みのオカズに辿り着くのは労力のいる作業だ。

 『逆レイプ』で調べたら、なぜかレイプものばかり検索結果に上がって辟易したり、『言葉責め』で調べても、女性向けの音声作品しかヒットしなかったりする。

 再生したら、ナルシスト風の男に耳元で囁かれ耳を舐められた、なんてことがごまんとある。

 「ガキが……舐め舐めしてると潰すぞ」と、タモリのような気分になる。

 

 

 そこで、『ソフトM』だ。

 

 この言葉は軽い言葉責めといったものを好む人を指す言葉らしい。

 『M男向け』を『ソフトM』、そして『ハードM』に区分する、といった感じだろう。

 

 私は明らかに前者なので、この言葉が存在することはとてもありがたい。

 さっそく、『ソフトM』で検索してみる。

 

 ――だが、まったくオカズが見当たらない。

 流動食やペーパータオルしかヒットしない。

 言葉責めでも、逆レイプでもなく、流動食。

 

 さらに調べてみると、『ソフトM』という言葉自体は十年近く前から存在するらしく、このカテゴリ分けが18禁業界であまり浸透していないだけらしい。

 

 こんな便利な言葉が普及していないのはなぜだろうか? 

 ソフトMの人は、SM関係ないカップルものなどでも満足してしまうからだろうか。

 それとも、ドM勢力が強すぎるからだろうか。

 よくわからない。

 

 著名な哲学者であるドゥルーズ「哲学とは概念を創造することである」と言っているじゃないか。

 哲学でなくても、社会学なんかは概念が大量生産されすぎて、『概念工学』化しているというのに。

 

 エロいことでも、それに名前が付けなければ一つのジャンルとして成立することはできない。

 名付けられなければ、そのエロはこの世に存在できない。

 あえて言うなら、「エロとはジャンルを創造することである」だ。

 我ながら、ドゥルーズに失礼だと思う。

 

 命名法一つ取り上げても、私の好んでいるジャンルでは、『悪堕ち』と『闇堕ち』の表記ゆれや、『クール』と『おとなしい』の境界など、多くの問題が解決されないままである。

 こういった状況がもう何年も改善されずに続いている。

 

 だが、こんなことは誰も研究しない。

 『だいしゅきホールド』や、『アヘ顔ダブルピース』なんて言葉がなぜ生まれたのか、気に掛ける人は少ない。

 

 エロ研究への世間の風当たりは強く、最近では北海道で『エロ漫画表現史』という本が禁書指定された。

 

 私たちは全知ではない。

 人生の重大な問題どころか、エロ業界で用いられている言葉でさえ、知らないことが沢山ある。

 

 知の蓄積が行われないものは、時間と共に去り過ぎていく。

 無知の知を心がけたい。

 むちむち。

 

 

 久々に下ネタ満載の記事になった、やいや、やいや。

 

 男子校を卒業して以来、どんどん下ネタのセンスが訛っている気がする。

 「女子高の下ネタはえぐい」という話を聞いて、「男子校出身の名をかけて、もっとえぐい下ネタを言わなければ」と、ひとり切磋琢磨していた日々が懐かしい。

 

 今となっては、このセンスは無用の長物。

 股間の息子も無用のイチモツだ。

 

 将来セクハラで訴えられないよう、早めに下ネタを頭から消し去りたい。

 

 

正しいことだけコンニチワ! アナタとワタシでコンニチワ!

1/27 曇り

 

 この間、大学院を目指している人が集まるサブゼミのようなものがあって、そこでプレゼンをする機会があった。

 

 私以外の参加メンバーはみんな臨床心理学を専攻していたので、題材として私はEFTというものを紹介した。

 

 EFTとは、エモーショナル・フリーダム・テクニックと言われる心理療法の一つである。

 全身のツボのようなものをタップすることで刺激し、それが心理的な不具合を改善する――らしいのだが、エビデンスは乏しい。

 

 この心理療法を取り上げ、EFTの効果を的確に検証するにはどのような方法論をとればよいか、といった問題を出題した。

 それと同時に、EFTとは質は異なるが、やはりエビデンスがいくらかの研究者に疑われている精神分析を取り上げ、臨床場面で精神分析を用いるのに賛成か反対か、自分の意見を記述させる問題を出した。

 

 EFTの効果の検証については簡単だ。

 ランダム化比較試験といった手法を用いれば、プラシーボの影響を考慮して、ある程度は効果の有無について判断を下せるだろう。

 

 そしておそらく、EFTは臨床の手法として用いるに値しない」という認識に落ち着くだろう。

 既に、数多くの研究がEFTの効果が怪しいものだと示している。

 

 だが、精神分析を臨床の場で用いるか否か、といったことになると、話が変わってくる。

 

 

 言わずもがな、これまでの時代と同様に、心理療法には大きな責任が伴う。

 

 その治療の質の裏付けをするのが、公認心理師という国家資格であったり、臨床心理士という民間資格であったりする。

 

 公認心理師臨床心理士がもし、EFTを行っていたらどうだろうか。

 間違いなく非難の声が上がるだろう。

 

 では、精神分析はどうだろう。

 というと、非常にグレーゾーンだ、わからない。

 その道を究めていない私は明言を避けたい。

 サブゼミでは意外にも、精神分析を臨床場面で用いることに賛成の人が多数派だった。

 

 アイゼンクが1950年代に精神分析を批判したとき、精神分析は確かにプラシーボと同等にしか効果がなかったかもしれない。

 

 だが、今はわからない。

 精神分析にもれっきとした効果があるという統計的なデータもあるし、ユング心理学といった周辺領域も着実にエビデンスを積み上げている。

 

 サブゼミの際、博士課程後期の先輩が「精神分析で行われていることは、実際は認知行動療法と同じかもしれない」と言っていた。

 「クライエントが納得してどの心理療法を選ぶかが大事」とも。

 

 まったく、その通りだと思う。

 思うのだが、私はこの問題が、似た構造の様々な問題と地続きであることから、目を覆いきれない。

 

 

 例えば、子宮頸がんのワクチン接種だ。

 先進国の多くは子宮頸がんワクチンの接種率が高い。

 これにより、子宮頸がんのリスクとなるHPVという原因ウイルスからの感染予防が見込まれている。

 子宮頸がんは、HPVの感染がなければ発生率が劇的に減少する病気だ。

 

 だが、日本はそうではない。

 運動障害など、ワクチンの副作用とされる症状がメディアで喧伝され、子宮頸がんワクチンの接種率が急速に低下した。

 接種率は現在、1%未満だという。

 しかし、ワクチンによってそのような副作用が起こることは、多くの研究で否定されている。

 

 HPVワクチンの差し控えが今後続いた場合、今後50年間で本来なら予防できるはずの子宮頸がん罹患者数は約10万人、死亡者数は2万人に上るとの推計も存在する。

 大災害レベルだ。

 

 世界保健機関による警告がつい最近再び行われていたし、ノーベル賞を獲得した本庶佑も、ストックホルムで子宮頸がんワクチンについての正しい報道がなされることを願っていた。

 

 

 しかし、これらの活動は「自己決定」の一言ですべて無駄になってしまう。

 「ワクチンを接種するかどうかは、本人の自由じゃないの?」という言葉一つで、あらゆるエビデンスも権威も、たちまち力を発揮することができなくなってしまう。

 

 ガンに対する代替医療や、新宗教に入信しようとしている人、ネットで突然排外的な発言を繰り返すようになった人なんかにも、同じことが言えるかもしれない。

 もしかしたら、EFTを受けようとしている人にも。

 

 

 そんなことしても意味ないよ、もっといいやり方があるよ。

 私が「正しい」と信じていることは、彼らの「正しさ」の前には全くの無意味だ。

 

 「本人の自由だろ」で、ハイおしまい。

 だから私は、こういうものに対して黙り込む。

 黙り込むしかない。

 

 

 岸政彦という社会学者の『断片的なものの社会学』という本に、こんな文章がある。

 

私たちは神ではない。私たちが手にしていると思っている正しさは、あくまでも、自分の立場からみた正しさである。(中略)こういうときに、断片的で主観的な正しさを振り回すことは、暴力だ。

 

 私の視点は、エビデンスベースドや、認知行動療法が交流を極めている現代からのものでしかない。

 現在、精神分析が受けている厳しい目線を、いつか認知行動療法が受けるかもしれない。

 

 そういう意味では、エビデンスに基づいた意見であっても、それを「正しさ」として振り回すことは暴力なんじゃないか。

 そんな気がしてくる。

 

 私個人でも「正しさ」の問題には、納得のいく答えが得られていない。

 多分、考え続けることが重要な類の問題なのだろう。

 

 だから私は、足りない頭で考え続ける。

 

 

 それぞれの「正しさ」を相対化して、対話することならできるんじゃないだろうか。

 そのようなことを、ふと考えた。

 

 クライエントが何となくで精神分析認知行動療法を選ぶ前に、それぞれの立場の専門家ができることは多い。

 それは、公認心理師臨床心理士が社会に対し担う責任の一端であるし、そうでなければならないと思う。

 

 

 『断片的なものの社会学』では、こういった「正しさ」について、「社会に意見を表明し、それが聞き届かれることを祈ることはできる」と書かれていた。

 

 このブログは、所詮私の思考の掃き溜めでしかないが、それでもこの問題について、誰かが考えてくれることを祈っている。