きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

谷の底

 ふと、昔のことを思い出したので書く。


 僕が高校生だった頃、言葉にできない、あいまいな関係を築いていた男の子がいた。仮に、ここではYくんとする。


 彼は虚弱で、しかも勉強もできなかった。それに加えて、側から見れば根拠のない自信に溢れていて、少し虚言癖があった。宿題の忘れ物もよくしていたし、それを注意されてもいつもヘラヘラ笑っていたので、教師からの評判も良くなかった。


 それが自然であるかのように、彼はいじめられた。「男子校ではいじめはない」なんてことが、さも真実のようにネットでは囁かれていたが、どこでもいじめは起こるものなのだと、僕は認識を改めるしかなかった。


 そのような苦境の中でも、Yくんは孤独ではなかった。それは単に、彼がお喋り好きだったからだ。色んなクラスメイトに積極的に話しかけていたおかげか、決して一人ぼっちではなかった。


 根拠のない自信に溢れている、というところにシンパシーを感じたのか、Yくんは特に僕にやたらと話しかけてくれた。

 

 僕は話しかけられたら会話をする、というタイプの、あまり能動的ではない人間だったので、例のごとく、彼に話しかけられたら返事する、という風にしていた。そんなことをしているうちに、Yくんとは『そこそこ』に仲良くなった。
 


 ある日の放課後、Yくんと二人で学校の近くにあるハンバーガーショップに行った。「学校の近くの飲食店は原則立ち入らない」というのが不文律になっていたが、実際守っている人は少なかった。それは僕らも同じだった。


 注文を終えて二人で席に座り、あの教師はどうとか、このソシャゲが面白いとか、そういった他愛のない話をした。雑談をしているうちに、一体どういう流れか、「互いに秘密を明かしあおう」という話題になった。
 

 Yくんが自分から秘密を打ち明けるのを渋ったので、


「実はオレ、立ちションしてるところを担任やった女教師に見られたことあんねん」


 と、もったいぶるように告白した。


「それはヤバいな」


 Yくんが半ば愛想笑いでそう言った。


「中学の時。これはまだ誰にも言ってないからな」


 僕はYくんから面白い話を引き出そうと、ひと摘みほど追い討ちをかけた。


 えー、と一拍。間を置いてから、「これはそんなに面白い話でもないけど」と、Yくんはぽつぽつと語り出した。


「……実は小学生の頃、いじめられてたことがあんねん」

「それは確かに面白い話でもなさそうやな」


 僕は苦笑いした。高校だけなく、小学校でもいじめられていたことに同情した。


「持ち物に落書きされたり、蹴られたりもした」
「うわ、辛い」
「いや、でも、自分はいじめられても当然やと思ってるから」


 Yくんは「『いじめはいじめられる方も悪い』ってやつ、あれホント」と、普段のヘラヘラした笑顔のまま続けた。それに対して、僕が何か意見できるはずはなかった。


「誰かに助けを求めたりせんかったん?」
「主犯格的な、俺をいじめてたヤツの親が自分の親と仲が良かったから、誰にも言えんかった」


 それでも、と口を衝いて言葉が出そうになるのを堪えた。「親の関係なんてどうでもいいだろ」など、綺麗事に過ぎない。そんなこと、当事者である彼には百も承知であっただろう。


「……ストレスとか溜まったりするやろ?」


時間の感覚がわからないほどのシンドい沈黙があって、僕は苦し紛れに言葉を紡いだ。


「だから、ストレス解消してた」
「え、どんな?」
「バッタを道路の脇の草むらで捕まえて、小学生の頃やったから、そのバッタを車が走ってる方へ投げて、それが踏まれるのを観察してた」


 平然と残酷なことを告げる彼に対して、上手く返事をすることができなかったので、「おぉ」とか、そんな中途半端なリアクションをしたのを覚えている。


「それで、ストレス解消」
「うん。触覚をちぎるとあまり動かなくなるから、それで逃げないようにして、車に轢かせてた」


 若干引き気味の僕に対して、Yくんは形容しがたい、そんなにやけ顔をしていた。


 少し周囲が気になって、僕は首の凝りをほぐす振りをして店内を見渡した。隣の席の主婦であろう人たちは、見るからに自分たちのお喋りに夢中になっていた。他のお客さんも賑やかに雑談に花を咲かせたり、一人の場合はイヤホンをつけて自分だけの世界に入り浸っていたりしていた。カウンターの方も、注文が完成したのや、ポテチが揚がったのを知らせる電子音がひっきりなしに鳴り響いていた。

 

 大丈夫。僕らの話なんて誰も聞いちゃいない。自身にそっと、そう言い聞かせた。


「それで、いじめられてたとき、いじめてきた相手の家族とかと一緒にキャンプに行ったことがあってん」


 Yくんは誰に尋ねられたというわけでもなく、唐突に語り出した。その時の彼の目には、自分の過去しか映っていないようだった。こちらを見据えているようで、それを気にも留めていないような、虚ろな目をしていた。


「自分をいじめてるやつと一緒に一晩泊まるなんて、そんなん最悪に決まってるやん?」


 僕はうんうん、と頷くことで精一杯だった。


「キャップ場に着いたら、予想どおり、最悪やった。親に『子供たちは向こうで遊んできなさい』って言われて、遊具のあるエリアに行った。ひと気がなかったから、何人にも囲まれてボコボコにされたわ」


 こちらから、彼の肩が細かく震えているのが見えた。胃腸に住み着いた蛇を力づくで吐き出しているような、そんな語り方だった。


「それで日が暮れて、夕方にはみんなでバーベキューをしよう、という話になってて、先に他のやつらは誰が先に戻れるか、みたいな競争を始めて、偶然、俺と主犯格が二人きりになってん。それで、そいつと一緒に親のところまで戻るハメになった」


 彼の汚泥のような言葉は、堰を切ったように止まらなかった。すっかり、僕は彼の話に取り憑かれてしまっていた。


「なんでこいつと、とか他にもボロクソに言われた。あんま覚えてないけど」
「……それで?」
「それで、親の方へはずっと山道やってん。ガードレールから向こうは真っ暗でなんも見えんくらいの」


 Yくんは強張ったような、引きつった笑みを浮かべていた。いつもの柔和な彼からは想像できない表情だった。

 

「で、ずっとおちょくったり、そんなことをしてきて、肩を殴られたときに、耐え切られんかった。ブチっときて、訳わからんこと叫んで、そいつに突っ込んでいった。そいつはガードレールの方までいって、バランスを崩して、そのまま、見えへんようになった」
「……」
「そのあと、そいつがおらん、って騒ぎになって、どこにいったか知らん? って聞かれたけど、わからん、って言った。泣きながら」


 僕はぼんやりと、最近英語の授業で習った『ワニの涙』を思い出した。


「それからは、そいつは見つからんくて、学校でのいじめもなぜかなくなった。これで、この話はおしまい」


 そう言って、彼はストローの入っていた袋をいじり出した。


「……そいつは結局どうなったん?」
「いや、まだ見つかってない」


 何なら調べてみる? ◯◯キャンプ場。彼はヘラヘラしながら言った。教師に怒られているときと変わらない、いつもの彼の表情に戻っていた。


 僕はおもむろにスマホを取り出そうとして、自分の手のひらが汗でびっしょり濡れているのに気付いて、またポケットにスマホを仕舞った。


 その後は、また他愛のない会話に戻った。30分ほどだらだらしてから、二人別々の電車で帰路についた。

 


 数ヶ月後、Yくんへのいじめはエスカレートして、彼は別の高校へ転入学していった。それから、彼とは一度も連絡を取っていない。きっと、もう会うこともないだろう、とも思う。


 キャンプ場でのことについても、未だに調べられていないままだ。もしかしたら、いつもの彼の虚言癖なのかもしれない。彼が単に演技派だっただけ、ということもあるかもしれない。

 

 それでも、彼のあの時の語りは、数年がたった今でも、しっかりとしたリアリティを伴って脳裏にこびりついている。

 

 Yくんをいじめていた彼はどうなったのか。それは谷の底のみぞ知るところだ。

 

 

 

 ここまで長々とお読みくださってありがとうございます。

 この記事で『きんこんぶろぐ』は200記事を達成しました。継続するところ、3年1ヶ月とちょっと。我ながらよく続けてきたものだ、と思います。

 まず知って欲しいのは、まずこの記事は全てフィクションである、ということです。何一つ本当のことはないので安心してください。

 これからも、たびたびこのブログには嘘っぱちのことが登場しますが、その都度注釈を付け加えますのでご理解いただけたら幸いです。

 最後に、もう一度言いますが、この記事は全てフィクションです。絶対に信じないでください。お願いします。

 

 

ザー祭

9/8 晴れ


 院試を終えて、安らかな時間を過ごしている。具体的には、モンハンをしたり本を読んだりしている。

 いつまでもダラダラしているわけにはいかないので、今日くらいからカンデル神経科学を精読したり、英語のライティングの勉強をしようと思っている。

 それと並行して、「将来どのように生きていくか」ということも真剣に考えなくてはならない。

 院試に合格していたら、今後の研究の方針を決めなければならないし、不合格であれば、よりシビアな状況に陥る。

 

 将来は重い。考えれば考えるほど気が滅入ってくる。

 こういう、自身の未来の重量に耐えれる人というのはすごいなぁと、つくづく思う。

 優秀な人は皆揃いに揃って将来の計画を立てるのが上手なので、私もそれを見習いたいが、彼らはそもそもどのような状況でも安定して生きられるという面もあるので、「なんだかなぁ」という感じである。

 「優秀な人は未来に対して強靭」というか、私が未来に対して脆弱すぎるだけか。まぁどちらでもいいが、ズバリ実力の差により、この違いは生じているのだな、としみじみとした。しみじみしてる場合じゃねえ。

 


 今日は梅田の丸善ジュンク堂に瀧本哲史の著作を買いに行った。

 

 私は死人の書いた文章が好きだ。

 リチャード・ドーキンスもスティーブン・グールドも好きだが、グールドの方が好きなのは、彼が死人だからだ。嘘をつきました。グールドの方が文体が好きだからです。

 グールドは酒もタバコもしなかったが、ガンで亡くなった。確か、瀧本哲史も心臓だか何だかの不調が原因で、理不尽に亡くなった。モーツァルトヴィゴツキー小林麻央芥川龍之介などなど、若くしてこの世を去った有名人はやたらと印象に残る。

 

 と、書いていて思ったが、私は別に死人の書いた文章が特別好きでもないらしい。

 「じゃあ、なんでこんなことを書き始めたんですか?」となっちゃいますが。人は皆、不合理的信念の塊のような存在なので、それがほつれて飛び出てくることもままあるだろう。それがこれだ。This is it.

 マイケル・ジャクソンも早逝の天才だ。好き。

 


 「武器としての決断思考」「僕は君たちに武器を配りたい」と、本を2冊手にとってエスカレーターを降りていたら、国連の難民支援だかの人に捕まってしまった。

 妙齢の女性にかなり長時間にわたり、ロヒンギャとかシリアとかの難民の現状を語られた。全て知っていたことなので聞き流した。

 女性が漆のような艶のある黒目で、こちらを凝視しながら話しかけてくるので落ち着かなかった。

 

 そのうち便意を催したので、お腹の調子が悪い旨を伝えてそそくさと店を去った。

 善意に取り憑かれたような、そういう人は一定数いるが、彼らはどうしてこうもエネルギッシュなのだろうか。いや、エネルギッシュだからこそ、他人に目を向けたり、助けたりする余裕が生まれるのかもしれない。

 所謂「卵が先か鶏が先か」というところなので、さっさと思考と切り替えてトイレを探しに行った。

 


 探しに探して、阪急電鉄の駅構内に空いているトイレを見つけたので、ウンコをした(私はアイドルではないのでウンコをする)。

 「“音姫”の対義語って“光王子”かな」と考えながら、お尻を拭いた。こういう思索の繰り返しが、いつか歴史を変えるアイデアを生むのです。

 でも、“音姫”が「浦島太郎」の乙姫のもじりだということにたった今気づいて、別に“光王子”でもないな、となった。こうしている間にも、アフリカでは今チーターがトムソンガゼルの子供を追い回しています。苦しいね。

 


 トイレでスッキリしたので、サンマルクに入って本を読み、この日記を書いている。そして、過去と未来の狭間に至る。

 未来のことは書けないので、日記はここで終える。

 

 一応、18時から友人たちとご飯を食べに行く予定だ。

 それまでに地球が爆発してビックバンが起こるかもしれないが。でもさ、地球爆発したら一緒にお風呂入れないよ?(ANNYUI姉貴)

 これで、おしまい。
 

 

ぼくのなつやすみ1.41421356

8/29 曇り


 院試の勉強を1日に7時間ほどこなす毎日。コンスタントに対策をこなしてきたつもりではあるが、いまいち要領をえていない思いである。合格できるかはわからない。よっぽど臨床寄りの問題が出題されない限りは大丈夫だろう。

 

 最近、勉強の気晴らしによくツイキャスをしているのだが、話している内容を妹に聞かれたらしく、「偉そうになんか語ってるけど、お兄ちゃんは自分が思ってるほど賢くないんだからね!」と怒られてしまった。

 別に自信を「賢い」と思ってはいないが、返す言葉もないのでシュンとしてしまった。今も凹んでいる。

 

 私はよく、心理学だったりの専門知識を引き合いに出すとき、その知識の基本的な解説から言葉を始める癖がある。オタク特有の早口を添えて。それが妹には偉そうに見えたのかもしれない。

 私だって心の底から偉そうに何かについて語ってみたいのだが、いかんせん知識が足りない。

 それに、相手が知らないことを延々と喋り続けるというのは、こそばゆい罪悪感が湧いてくる。

 

 妹の不満を解消するには、現状私がキャスをやめるしかないのだが、それも妹の言いなりになったみたいでむかっ腹が立つ。

 ささやかな抵抗として、これからもキャスを続けていくことにしよう。声量を少し控えめにして。

 


 今年の夏休みは、院試やキャスや読書や通話など、引きこもりがちな生活を送っている。大学にはそこそこ行ってるが、実質家みたいなものなのでノーカウント。

 

 思い返せば、これまでロクな夏休みを送っていない。

 大学以前の夏休みは論外として、大学1年は毎日図書館に通い詰めただけであり、2年もほぼ1年と同じであり、3年はVtuberになるのに全力を尽くすということをした。すこし、いや、かなり華に欠ける。

 結局大学生活の間に、ナイトプールにも行かなかったし、誰かと花火を見に行くということもなかったし、天体観測をすることもなかった。陽キャのようには夏休みを過ごせなかった。彼らはどのようにしてインスタ映えするような夏休みを過ごしているのか、皆目見当もつかない。

 

 大学に入ってから、ある程度の陽キャと関わりを持つことが増えたが、彼らの体力は眼を見張るものがある。

 てっきり、何かイベントがあるまで、陽キャはカプセルの中でコールドスリープしていると思っていたのだが(そうでないと溢れる体力やテンションの高さや若々しさは説明がつかない)、実はそうではないらしい。

 

 彼らはごく当たり前に、その華のある生活を送っていた。

 当たり前に人を誘い、当たり前にサークルのイベントがあり、当たり前に女の子と海に行く、そんな生活。ありえん、、、、、、

 


 過去を悔やんでも仕方がないので、院試後の夏休みの残りは体力をつけることにした。早起きしてランニングしたり、腹筋したり、そんなことをする予定だ。私も春休みまでに、陽キャのようなカンストしたHPを身につけて、大学最後の長期休暇を楽しみたい。

 目標は、12月までに綺麗なシックスパックを創造することだ。ハルクまではいかなくとも、「腹が板チョコ!」と声をかけられるような、そんな肉体を目指したい。

 ついでに、線形代数神経科学・経済学のお勉強も空き時間で進める。院試後に発売のモンハンも楽しむ。PUBGも上手くなる。

 終わりよければすべて良し、完璧な夏休みに仕上げたい。行動範囲は、うん、変わってないが……

 

 

やまいだれ

8/16 曇り


 台風が過ぎても快晴にならずにいる。「台風一過」とは何だったのか。大昔の慣用句やことわざが現実と当てはまらないのは、いつものことであるが。

 

 ツイッターで“子供の頃の勘違い”がトレンドに上がっていた。

 ここだけの話、私は「台風一過」を「台風一家」だと昔は勘違いしていた。「台風一過」という言葉を聞くたびに、ビッグダディ的表象がよく浮かび上がったものだ。

 

 近頃は大家族をテーマにしたテレビ番組も少なくなった。

 単純に視聴率がとれなくなったのか、観ていて痛快に思う大家族が減ったのか、ビッグダディがやらかした影響なのか、理由はよくわからない。

 

 大家族のことについて考えていたら、脈絡なく、ADHDには性欲過剰な人が多いという研究をふと思い出した。


https://www.psypost.org/2019/07/study-adult-adhd-symptoms-play-important-role-in-hypersexuality-and-problematic-pornography-use-53995


 他意はない。悪意はある。そのような想起だった。

 


 院試を前にして、谷崎潤一郎が足フェチであることや、“嵐”のメンバーの頭文字を一つずつ取ると「MASON」という信じるか信じないかはあなた次第な文字列になることといった、どうでもいい知識が溜まりつつある。

 

 近頃は院試の勉強ばかりで日常に変化が乏しく、エロゲをしたり音声作品を購入したりして、退屈を紛らわせているものの、胸の奥にある澱んだものは取り除けないままでいる。

 むしろ、これらの試みは悪影響でしかなかった。

 エロゲは祖父祖母以下家族全員にその存在がバレてしまい、それ以来叡智シーンはすべてスキップしているし、音声作品には女の子がゲップするシーンがあるなど、よくわからない事態になっている。

 そんなシチュエーションでも、股間マイケル・サンデルが反応してしまった自分が情けない。もう、チンコがピクピクミンだ。

 赤ピクミンは、火に強い。チンコピクピクミンは、溺れない(性欲に)。いや、溺れとるやないか〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜いwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

 


 そんな日常にも“癒し”というのはあるわけで、誰かと電話するときや、ツイキャスで好きなことをベラベラと語っているときなどは気分が晴れる。

 “人と話す”というのは結構大事で、新鮮な価値観や知識を摂取したり、気晴らしに効果的だ(ここで素直に「会話は楽しいから、楽しい」と言えず、人との会話に効率や意味を見出そうとしている自身に辟易している。意味の時空間的な占有から逃れたい)。

 なにかについて無邪気に語れるというのは本当にいい。まだ若いからこそ、許されているのかもしれないが。


 無邪気な知識や意見の表出について、最近は特に臆病になってきたように感じる。

 このようなブログを書くのにも、リアルやネットの友人・家族・立場が上の人に見られた際のリスクについて、冷静に勘定してしまう自分がどこかにいる。こういう考えは知識や自分なりの意見を持つごとに強くなっていき、この頃はいよいよ収まりが効かなくなってきた。ちょうど、乳首をいじればいじるほど敏感になっていくように、自分の知識・意見を大っぴらに表に出すことに臆病になってきている。

 このブログだって、カフェインでラリった勢いで、文字列をキーボードに叩き込んでいるに過ぎない。場面緘黙症のような、一種の病のように思える。

 このように真面目になったり、真面目であることが嫌になってジタバタしたり、そういったことをこのブログでは繰り返している。なんでだろうね。

 こういう青年期特有の衝動も、なにかに必要になったりするのかもしれない。その“なにか”の正体は掴めていない。そのうち、わかる気がする。

 


 こんな感じで、元気に(?)日々を過ごしている。

 本当は、今日は院試に備えて自分の専門についての知識を整理したり、心理学における概念の濫用について考えたり、そういったことをブログに綴ろうとしていたが、そんな気にはなれなかったので、このような日記になってしまった。「誰とでも対等に語れるような、そんな度胸と知識を身につけていこう」と決心した1日だった。

 はやく、はやく強くならないと……(ここだけ見ると、闇堕ち寸前のようで面白い)

 

 

相談される自分・信用に足らない自身

8/9 晴れ


 久々の日記更新。ツイッターで「小論文の書き方をブログにアップする」と言いながら、ブログ自体をまったく更新していなかった。ゼミ合宿に学会の抄録作成・院試の勉強と、様々に忙しかったので仕方ない(ということにしてください)。

 そろそろ、大学院での研究計画書も仕上げなければならない。こういったことをコツコツこなしていくのは別に苦ではないので、やることが多いような少ないような、微妙な心情の日々を送っている。

 


 私はなぜか、昔から人にプライベートな相談をされることが多い。

 今日もダイレクトメールで大学の編入試験にまつわる相談を受けたばかりだ。まっすぐ、本気で相談には応じたが、ご期待に添えたかはわからない。人の心に寄り添うのが苦手だと自負しているので、少し不安だ。これはカウンセラーを志望するのを諦めた一因でもある。

 それなのに、人からの相談を避けたり断ったりしないので、収集がつかなくなっている。実は、私は相談に乗るのは得意なのでは? と勘ぐってみた。苦手だが得意なことなど、この世にありふれている。結局、その答えは私に相談を持ちかけた人のみぞ知ることではあるが。他人から見た自分など、自身にはわかるはずもない。


 プライベートな相談と一言でいっても、私が持ちかけられる相談事には色々なバリエーションがある。

 先ほどのような、純粋に私の知識を求められるものから、純粋に私を信用して投げかけられたものまで、十人十色といった感じだ。

 前者の相談を人からされるのは、なんとなく理由がわかる。ツイッターでは知識人ぶってソフィストしぐさをやっているし、多少は本を読むのでそこに一縷の望みを見出す人もいるかもしれない。

 だが、純粋に人から信用される、という感覚が未だにうまく掴めていない。どちらの相談にも全力で向き合っているつもりだが、私の知識を“信頼”されるのはまだしも、理屈抜きに私自身が“信用”されるのは、なんだかむず痒い気持ちになる。悪い気はしないが、小恥ずかしい。


 相談に関連して、昔読んだ河合隼雄の本に載っていたエピソードを思い出した。

 河合隼雄がタクシーに乗ると、自然にタクシーの運転手が自分の身の上話をするようになり、しまいには心の奥底にあるようなことまで語り出す、というエピソードだ。

 「んな訳あるかスピチュアルクソジジイ」と、当時便秘で苦しんでイライラしていた私は、なぜかその本にキレ散らかした記憶がある。ユング派は嫌いではないのに、そういう逸話がなんだか気に食わなかった。

 こういったことは馬鹿馬鹿しいと考えていたが、大学1年生の頃から似たようなことを経験するようになって、参っている。自分の何が、人に相談をさせるのかがわからない。これは少し不気味だ。

 私は自身を“信頼”してはいるが“信用”はしていない。それなのに、まるで人から“信用”されているようなことが起こる。しかも幾度も。


 ここで少し“信頼”と“信用”の違いを整理しておく。

 大辞林によると、“信頼”は「ある人や物を評価して、すべて任せられるという気持ちをいだくこと」とある。一方で“信用”は「うそや偽りがなく、確かだと信じて疑わないこと」と書いてある。私の知識が評価されて、それにより持ちかけられる相談は“信頼”によるもの。それに対して、一人の人間としての私に持ちかけられる相談は“信用”によるもの、といったところだろうか。

 この意味で、まさに私は自分を“信頼”していても、“信用”していない。自分を“信用”しないということを私は間違ったこととは思っていない。頻繁にミスを犯し、物事への目が曇っており、所詮現在の視点でしか何かを語れない存在が私だ。現時点での自身の能力や知識を“信頼”して問題にアプローチすることはできても、自身を“信用”して物事に取り組むのは危険だ。私を“信用”しないとは、そういうことだ。


 それでは、人から“信用”されるのは何故なのだろうか。おそらく、コミュニケーション・スタイルに原因があると、私は睨んでいる。

 まず、私はあまり嘘をつかない。嘘を上手につける方がお得だと思っているので(人から「あれは実は嘘・ハッタリだった」と伝えられると、ショックを受けるとともに羨ましくなる)、個人的にこれは欠点だと思っているのだが、人の目にはあまりそのようには映らないようだ。どことなく、荒木飛呂彦の「おとなはウソつきではないのです。まちがいをするだけなのです」という言葉が思い浮かばれる。私が嘘をついているように見えるときは、ただ単にミスをしているか、全力で保身に走っているときぐらいだろう。嘘が下手くそなので、バレるときはすぐにバレるのだが。

 また、私は会話を相手中心で進めるということも、“信用”されやすくなる要因かもしれない。私は自分を語るのが死ぬほど苦手だ(語ったところで理解され難い、という諦観もある)。その苦手を直すために、ブログを始めたという側面もある。そのため、私は人に生活史などを語らせたがる。

 もちろん、相手の言っていることが理解できないというのは非常に哀しいことなので、理解のための努力は惜しまない。これまで多くの分野への知見を広げてきたのも、人の言っていることを理解したいからだ。私自身、人から理解されずに酷い気持ちになったことが数え切れないくらいあるので、他の人にはそんな思いをさせたくない、ということもある。知人らの期待に添えているかは分からないが。

 そんなこんなで、このようなコミュニケーション・スタイルによって、私は人から“信用”されているのかもしれない。もし、より単純に私という人間が“信用”に足る存在だったというのなら、それより嬉しいことはない。そうだったらいいな。いやないか。わからない。

 


 久々の日記だというのに、筆が乗ってだらだらとした長文になってしまった。ここまで読み上げる人も少数だと思うので、手短に文章を締めておく。

 院試まであと一ヶ月である。より多くの人に“信頼”、“信用”されるようなプロフェッショナルになれるよう、精進していこう。

 

絶記

7/15 曇りのち晴れ
 また自転車で思いっきりコケたり、人生で初めてお酒を飲んだり、学会発表の抄録を書こうとしたり、卒論の新しい実験が始まったり、日記を書いていない間にいろいろあった。

 なんだか後戻りできないような、疾風怒濤の日々を送っている。ベルトコンベアのように、自分の意思とは無関係に生活が進んでいくような離人感。そういったものを肌で感じつつ、生活を送っている。

 


 『若者の私が選挙に行かない理由』という記事を書こうとしたが、断念した。プツンとやる気の糸が切れてしまったからだ。

 色々な本を読んで考えたことや、“選挙に行かないということ”を論じるはずだった。誰かに「書け」と言われたら、しっかりした記事を書くかもしれない。


 私が選挙に行く気が湧かない理由は複数ある。

 第一に、私が若者の一人として選挙に行くこと自体への懐疑心。第二に、賢い選択をしようとすればするほど、投票のコストが膨れ上がっていくこと。第三に、選挙自体への嫌悪感や徒労感。最後に、私の個人的な立ち位置。以上の4点が主な理由だ。


 それらの理由を踏まえて、SNSでの政治的な啓発の限界、選挙が若者と高齢者の無駄な対立の火種になっていることへの疲れ、私の家は核家族でもないので高齢者優先の政策がそのまま家計の得になるという背景など、いろいろ書くつもりだったが、考え疲れた。もう無理だ。

 どうあがこうが科学技術はまるで注目されてない。統計不正が行われるような政府をそのまま支持することもできない。このまま与党が勝ったらウンチ政策がそのまま進められるし、どう投票しようが、私たちの1票は恣意的に解釈される。

 選挙制度自体の抜本的な改革(ネット選挙解禁など)が争点となるときまで、私は洞窟で眠る。政治に頼らずとも、生きていける力をそろそろ身につけるべきなのかもしれない。

 


 というか、圧倒的政治不信により、もうなんかいろいろダメになってしまった。

 東京一極集中もヤバイし(地震がきたらどうするの?)、少子高齢化もヤバイし、オリンピックも万博もヤバイ。考えれば考えるほど想像力が暴走して、ストレスが溜まっていく。

 明らかに選挙に行くことの効用を、選挙について考えることの負担が超えてきた。

 「選挙に行かない奴は政治に口出しするな」という論理が是とされている意味もわからないし(言論の自由はその程度のことで制限されるのか?)、本気で政治をやるなら、100000000分の1に自分の意見が希釈されてしまう選挙より、別の手段の方がいいような気がしてきた。

 

 でも、そこまでのモチベもなければ暇もない。

 極論、自分の全く見知らない人の人生など考えたくないし(想像力が暴走して頭が疲れるので)、「ありふれた悲劇」のストーリーを読む解くのにも飽き飽きしてきた。もう無理です。僕は。

 

 

 しばらく、政治について考えるのは(多くの需要がない限りは)お休みする。

 今回の選挙を考えるのに有用だった記事などをここに貼っておくので、参考にしたい人は参考にしてほしい。「New Liberal Arts Selestion 政治学」という本を読んで、そのうち政治はじっくりと勉強したい。それでは、お疲れ様です。

 

・若者の選挙を考える上で有用だった資料

http://www.senkyo.metro.tokyo.jp/election/nendaibetuchousa/togi-nendaibetu2013/

http://www.soumu.go.jp/senkyo/senkyo_s/news/sonota/nendaibetu/

https://www.asahi.com/articles/ASL7H5Q0HL7HUZPS009.html

 

・ネット選挙を行うには、ということへの技術的な解説

https://anond.hatelabo.jp/20190707015850

 

・「選挙に行かない」という選択肢について

https://blog.midnightseminar.net/entry/2014/11/22/152901

 

 

 

 

 

アルファルド

6/25 晴れ


 院試の勉強をしたり、ツイッターで適当に呟いたツイートがやたらと人気になったり、そんな変わり映えのない日々が続く。

 

 そろそろ卒論の序論を書き始めたいが、真面目に資料を読んでないので、未だ書けずにいる。
 「卒論を書けば、研究や学問全体への自分の視点が一変するだろう」という曖昧な確信があるものの、己の怠慢のせいでそこへたどり着けないというのはもどかしい。

 卒論に限らず、英語論文を一本完成させることや、もっと身近な例を出せば、恋愛したり、素晴らしい映画を観ることも、人生を大きく変えるきっかけになり得るだろう。

 だが、そうした出来事は自分自身に不可逆的な変化を生じさせることに直結している。不可逆的変化はなんか怖くて、私は苦手だ。日記を続けている目的の一つに、そうした大きな変化以前の自分をタイムカプセルのように保管するということもある。


 ファイヤアーベントのパラダイム論のように、「大きな変化がそのまま進歩に繋がるとは限らない」ということもあると思う。未来の私にとっては、現代の私は錆びた価値観の持ち主かもしれないし、その逆もあり得る。自身の価値観を客観的に、斜め上から眺めるために、今日も日記を綴る。

 


 SNSなどで活動していて、才気溢れる人に出会うことが増えた

 単純に私にある程度の実力が伴ってきたのか、そのような見せかけが上手くなったかどうかは知らないが、「相手の凄みがわかるようになってきた」ということは確実だ。


 また少しだけ、相手の実力をその人の書く文章で理解できるようになってきた。大抵、実力者は言葉に対して誠実だ。自分の頭の中でしか通用しない専門用語のようなものを使わないし、他者との理解の齟齬があれば、辛抱強くそのズレに向き合うことができる。まだ私はその領域には至れていないので、見習いたい。
 もちろん、別に文章力のみで実力が決まるというわけでもない。実績や創作物、どれだけ人が周囲に集まっているかを見れば、その人の実力は概算できる。誰かの実力を見つめれば見つめるほど、己の不甲斐なさが際立つので、ずっと直視するようなことはできないが。実力者の輝きの、あまりの明るさに目が焼き爛れる

 


  目に見える輝きが、そのままその人の実力を必ず示しているとは限らないときもある。

 自分と近しい分野なら、その人の実力が直ぐに推し量れるが、他分野であればあるほど、その解像度はひどくぼやけていく。ちょうど、太陽が宇宙の果てのアルデバランよりも明るいように。

 多くの人が太陽の光を眩しく感じて、重力のようにその魅力に惹かれる以上に、アルデバランは多くの星々を惹きつけているのかもしれない。それは知識という望遠鏡で覗き込んでやることでしかわからない。相手の実力を理解し誠実であるためには、曇らないように入念に望遠鏡を磨き続けてやるしかない。

 


 ちょうど手塚治虫の『ブラック・ジャック』に、似たような話があったのを思い出した。

 『6等星の男』というタイトルで、実力があるのに影の薄い医師がブラック・ジャックにその腕を絶賛され、紆余曲折あって、ラストシーンではその腕をようやく周囲の医師にも周知される、という話だったか。


一等星は あのでかい星だ
六等星は ほとんど目に 見えないくらい かすかな星の ことだ
だがな ちっちゃな星に 見えるけど あれは遠くに あるからだよ
じっさいは 一等星よりも もっと何十倍も 大きな星かも しれないんだ
世の中には 六等星みたいに はえない人間が いくらでもいる


 このようなセリフが印象深い。SNSはまるで、六等星が集まって一つの銀河をなしているようなものでもある。

 


 さらには、その存在さえあまり知られていない実力者もいる

 私の元カノなんかも、その部類に入る人間だろう。桁外れの努力をこなし、実績も残しているのに、その力量はあまり知られていない。彼女が果たして満足なのかは定かではないが、そういう生き方もまた乙なものなのだと思う。星系から離れたところで一人瞬く、孤独な蛇の星である。

 


 今日もつらつらと日記を書いた。

 私なんかは何の光も放つことができず、奇妙に宇宙を漂うオウムアムアのような人間だが、恒星のような人々と巡り会えたことは幸運に思う。

 望めば望むほど底のない地獄に落ちるような気もしなくはないが、いつか輝く球になれたらと、そう願いつつ眠りに就くとしよう。