きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

もっと光を

2/4 晴れ


 1ヶ月ぶりのブログ。最近は卒論の修正をちまちま進めたり、本や論文を読んだりしている。

 1月の終わりから新型ウイルスが話題だ。街中を歩いている人に明らかにマスク姿が増えたのを見ると、感慨深いものがある。海を越えた先の国で起きた、まだ生活にあまり関係のない出来事が私たちの日常を侵食するという事態は、ここ10年でようやく起こり始めたことだろう。こんなことは、これまでの人類史では無かった。まったく、すごい時代を生きているなと思う。

 


 暇な時間が出来て、自分の生活の意義というものを考えるようになった。

 例えば、近頃はよく本を読む。だが、この読書の意義を考えても、しっくりくるものが思い付かなかった。そのせいで、本を読んでいる最中に「死ねば消える知識なのだから、身に付けたところで無駄なのでは」とか「もっと他にするべきことがあるのでは」とか、考えるようになってしまった。

 もう少し自省したところ、「私は読書をしているその瞬間が自体が楽しいから読書をしているのでは」ということに気付いた。案外、自分が思っているよりも私は単純に読書が好きだったらしい。


 今この瞬間を照らしてくれるのが読書の意義なら、それとは異なり将来から光が差し込んでくる意義というのもある。

 その典型例が就活だろう。お金を稼ぐことは将来のために重要で、それは現代社会においては疑う余地もない。そして効率的なお金稼ぎのためには、より良い就活をおこなわなければならない。このことは大学生であろうとなかろうと、自明なこととされている。就活を頑張れば将来は明るく光に満ちたものになる、と。

 

 だが、本当にそうだろうか? 

 就活の意義を考えるとき、私はいつも妙な薄ら寒さに襲われる。

 

 このような感覚を初めて味わったのは、大学1年生のキャリア・セミナーだった。

 そのセミナーでは人生を90年と仮定して、一生のキャリアが説明されていた。多くの逆張り大学生がそうであるように、私もそういう類いのセミナーが吐き気を催すほど嫌いだった。

 「将来のためにキャリアを設計するといっても、“将来”の先には一体何があるというのか。そこには何も残らないという事実から目を逸らすのは欺瞞じゃないのか?」

 そのようなことを感じた記憶がある。

 しかし、多くの人は“将来”の先のことなんてそもそも考えない。ナンセンスだからだ。

 それでも大多数にとって将来は輝いて見えるものらしく、セミナーを真面目に聴いている者も多かった。今この瞬間や近距離の未来のために何かをしていたい私は、キャリア設計とは水と油の関係だったようだ。

 

 今と将来。時間軸は異なれど、今の生活に意義を与えるという一点で読書と就活は共通している。

 おそらく、私が将来を見据えたキャリアに嫌な感触を覚えるのは、将来がとうに私を照らしてくれるものではないからだ。将来から光を投げかけ今を照らし続ける生活より、今この瞬間を刹那的にきらめくような生活の方が好みだった。そういうことだろう。

 


 問題なのは、今この瞬間を照らす意義でさえも最近は虚しく感じるようになってきた、ということだ。

 読書や勉強など、今この瞬間を照らす営みを行なっても、将来の先の暗闇がたちまちそれを覆い隠すようになってきた。

 こういう精神状態に一度なると、なにをするのも億劫に思えてくる。かといって、今以外に私を照らすものはない。自分の過去に、現在に意義を与えてくれる経験がある訳でもないからだ。一見、八方塞がり。

 

 きっと、この状況を乗り越えるためには、時間軸上に限らず空間的な意義も必要になってくるだろう。

 それは人や地域との繋がりだったり、社会における自分の立ち位置だったりするはずだ。これらは空間的なものながら、今の生活に意義を与えてくれるだろう。

 充足感のためには光が必要だが私は逆張りなので、社会貢献だとか地域の発展だとか、これらの事柄がキモく見えてくる。難儀な性格が一番損だと思うが、上手く付き合っていくしかない。

 生活に、もっと光を。

 

ミニゴミ

1/10 晴れ時々曇り


 久々に日記を書く。新しい実験の段取りを始めたり、なろう系小説を書いたり、ドストエフスキーの著作をちまちまと読んだり、新年早々濃い毎日を送っている。

 これからは毎週卒論の発表会や口頭試問があるので、その準備をしなければならず忙しくなる。時間や労力のペース配分を考えて上手くこなしていきたい。

 

 卒論に関連したイベントが増えると同時に、これで大学生活が終わるのだと考えると、少し脱力した気分になってしまう。

 巷では「大学に行くのは無駄」だとか、そういった大学生活自体を否定するような言説があるが、卒業を前に控えて、私は大学に行ってよかったと心の底から思う。

 いっぱい恥ずかしいことや愚かなことをしたが、それを差し引いてなお、これまでに比べてウンと人生が楽しくなった。これはひとえに周囲の環境に恵まれていたからであり、私が四肢を広げてもがくことができるほどの許容と自由が大学という空間にあったからだ。そのことに感謝しつつ、2020年も大学院で頑張っていこうと思う。

 


 なんだか、文章を書くということが分からなくなってきた。もっと詳しく言うと、なろう系小説を書くということが分からなくなってきた。

 知らない人のために軽く説明しておくと、なろう系小説とは、主人公が異世界に転生や転移をすることをきっかけに、冒険をしたり国を作ったり好き勝手生きることをテーマとした小説のことである。いわば、エンタメ小説の一種だ。

 これを卒論期間中から私はコソコソと書き始めていたのだが、色々なことが分からなくなってきてしまった。

 

 まず、私の小説では主人公がそんなに強い能力を持っていない。

 「じゃあなろう系小説じゃないやん! それは努力・友情・勝利を元にしたジャンプ系や!」と言う人もいるだろうが、しっかりと異世界に転移し、冒険はするのだ。

 「じゃあなろう系小説か」と思うのだが、最初の十話ほどはまったくヒロインが出ないし、イチャイチャ要素もそこまで無いのだ。

 「じゃあなろう系小説じゃないやん! イチャイチャ要素のないなろう系はただのプロアクションリプレイや!」となるかもしれないが、しっかりとした登場人物同士の絡みはあるのだ。

 なんだか、書いててミルクボーイのネタみたいになってしまった。ともかく、なろう系小説が分からなくなった。

 


 なろう系を書くにあたって、辛いことが2つある。

 一つ目は、ファンタジー系の時代考証を練り始めると途方もない時間がかかる、ということだ。

 衣食住から地理、歴史、宗教まで、世界観の設定は多岐に渡る。それらを登場させるたびに、設定に矛盾が生じないか細心の注意が必要となる。なろう系小説を書くのは卒論の考察を書くのに似ていて、調べ物をしながら構想を練り、文章を少し進めて生じた矛盾点を修正する、という行為を繰り返すものだ。これを疎かにしてしまうと、そこに住むキャラたちの行動がギクシャクしたものになってしまう。

 「人間なんて元来矛盾に満ちた存在なのだから、それでいいじゃないか」とも心のどこかで思ってしまうのだが、それはキャラに失礼なので、こういったことをコツコツ繰り返している。


 二つ目に辛いことは添削だ。

 分かりやすい文章のためには言わずもがな添削が必要であり、一つの作品として公開する以上、読みやすい文章を心がけなければならない。このブログのような独りよがりの文章とは違う。分かりやすさを重視するなら、「プロアクションリプレイ」なんて指が裂けても書けない。それと同時に面白さも必要なので、パロディ的な要素もやっぱり必要になる。「なろう系小説を読む人間はどの程度の事物なら知識として持ち合わせているだろうか」等々、そういったことを考えながら毎度添削をしている。


 そんなことを毎日続けていると、ふとやる気の糸が切れることもあるわけで。

 最近では「吸血鬼の始祖」と書いていて、これがどう「真性包茎」と概念的に異なるのかが分からなくなった。通常の吸血鬼は仮性包茎みたいなものなのか? そもそも始祖だからといって他の吸血鬼と高級であるいわれがあるのか? わからない、わからない……

 


 所用があって、昨日に太宰の『ヴィヨンの妻』を読んだ。

 すると驚いた。文体は古いのに、情景が刻々と思い浮かべることができるではないか。「ここはダッシュを使うか、それとも3点リーダか」と悩んでいる私自身がひどく惨めに思えた。

 マスコミに対し、個人の自主制作物はミニコミと呼ばれる。マスコミのことを「マスゴミ」などと揶揄する言葉があるが、私の作っていたものは正しく「ミニゴミ」であった。(泣く)


 どんな文体であれ、力のある文章というのは存在する。その力の源の正体を知りたいがために、ドストエフスキーを読んだりしている。

 小説を書くことや、それを読ませるために努力することはなかなか体力のいる作業だし、こんなことに意味があるとも思えないが、そうしている。今の私は、自らの妄想に操られた自動書記人形というべきか。そのうち飽きてやめると思うが、まだ今は文章をうわ言のように垂れ流していたい。

 

 何かに打ち込んでいる状態から覚めてしまうのは辛い。今はまだ、夢を見ていたいものだ。

 

今年500冊読んだ僕が選ぶ2019年の本10冊

 本記事では、大学生の僕が2019年に読んだ中で最高に面白かった10冊を紹介します。

 

kinkonnyaku.hatenablog.com

 

 去年も同じようなことをしてたんですが、今年はノンフィクションかつ、2019年に出版されたもの、という条件つきでつらつらと感想を述べていこうかと思います。

 あと、書いてる人は心理学専修なので、ジャンルの傾向としては人文系に寄ってたりします。

 

 前置きはここまでにして、さっそく紹介していきましょう。

 

1. 居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書

居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書 (シリーズ ケアをひらく)

居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書 (シリーズ ケアをひらく)

 

 

 2019年で一番面白かった本。人文界のガブリアス

 京大出身の心理学博士は、職探しの末に沖縄の精神科デイケア施設に辿り着く。

 心理療法(セラピー)を学んだ著者にとって、そこは今までの価値観が逆転する不思議の国だった――。

 様々な個性的なキャラクターに著者のユーモアあふれる文体が合わさって最強の一冊に仕上がってます。

 笑って泣ける内容ながらも、セラピーとケアという「人を癒す」という同じ目的を持ちつつも絶対的に違う二つの概念の対比が印象的です。

 果たして、セラピー化する日本と、そこから押しやられる人々の行く末は。

 

「心の深い部分に触れることが、いつでも良いことだとは限らない」

「自立を良しとする社会では、依存していることそのものが見えにくくなってしまうから、依存を満たす仕事の価値が低く見積もられてしまう」

 読み始めたら一気に最後まで読める、今年最強のスペクタクルメンタルヘルス学術書

 

 

2. ヤンキーと地元

ヤンキーと地元 (単行本)

ヤンキーと地元 (単行本)

 

 

 やばすぎ。

 僕は田舎のヤンキーを常々バカにしていたんですが、これを読んでそれができなくなりました。

 上下の関係しか許されない、無限のヒエラルキー社会。

 過酷な地元の掟のもとで、若者たちはどのように生きるか。

 暴走族・建設会社・性風俗・半グレ、そして地元を見切った者まで、10年にわたって沖縄の「ヤンキー」たちの生活を記録した軌跡。

 

 無数の暴力、無数のDV、無数の恫喝。

 単に沖縄のヤンキー文化を知る以上の価値がある一冊。

 読書は他人の人生をもっとも安全にたどる手段なんだと、本当にそう思った。

 

 

3. ルポ 人は科学が苦手 アメリカ「科学不信」の現場から

ルポ 人は科学が苦手 アメリカ「科学不信」の現場から (光文社新書)

ルポ 人は科学が苦手 アメリカ「科学不信」の現場から (光文社新書)

  • 作者:三井 誠
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2019/05/21
  • メディア: 新書
 

 

 人は科学的に考えることがもともと苦手なのか?

 世界最大のサイエンス大国であるアメリカで、今何が起こっているのか。

 科学記者がアメリカでの科学の扱われ方の現状を、現地で取材した意欲作。

 地球温暖化と進化論の扱いが主なテーマとして描かれている。

 「ノアの箱舟」博物館から、地球平面論者まで、アメリカの様々な顔が科学という切り口から見えてきます。

 

 やはり、根底にあるのはキリスト教と科学の軋轢。

 日本とは異なっていながらも、どこかに通ったものを感じるアメリカの科学観について知ることができる良書。

 

 

4. ニック・ランドと新反動主義 現代世界を覆う〈ダーク〉な思想

 

 色んな意味で、暗黒な本。

 表紙も黒ければ内装も黒いし、内容もスカっとするほどダーク。

 

 「新反動主義」とは、より古い社会構造への回帰や、政府形態の刷新を標榜する思想のことです。

 この思想は、資本主義を極限まで加速させ、資本主義それ自体の外側を目指す「加速主義」と深く関わっています。

 これらの思想の旗本は、ニック・ランド、ピーター・ティール、カーティス・ヤーヴィンの3人。

 彼らがいかにして、これらの思想を現在にわたって展開してきたのかが俯瞰的に述べられています。

 

 サイバー空間からシリコンバレーまでを席捲するこの思想は、どこから来てどこへ行くのか。

 そして、テクノロジーと資本主義の未来に、彼らは何を見るか。

 20年代を考えるうえで必須の一冊。

 

 

5. 生まれてきたことが苦しいあなたに 最強のペシミストシオランの思想

 

 『ニック・ランドと新反動主義』と対で読んでおきたいのがコレ。

 

「毎日毎日が、私たちに、消滅すべき理由を新しく提供してくれるとは、素敵なことではないか」

「われわれが生きて行けるのは、ただわれわれの想像力と記憶力が貧弱だからにすぎない」

「一冊の本は、延期された自殺だ」

 

 これらはすべて、「ペシミストの王」シオランの言葉です。

 日本ではまだあまり知られていない、この思想家についてのモノグラフ。

 

 彼の思想はどこまでも暗くて、反出生的で、厭世的で、興味深い。

 2020年はきっとシオランの年、今年のうちにこれを読んで元気に新年を迎えましょう!

 

 最後に、シオランの言葉をもう一つ。

「生にはなんの意味もないという事実は、生きる理由の一つになる。唯一の理由にだってなる」

 落ち込んだりしたときに読み返したい本です。

 

 

6. 「かわいい」のちから 実験で探るその心理

「かわいい」のちから 実験で探るその心理 (DOJIN選書)

「かわいい」のちから 実験で探るその心理 (DOJIN選書)

  • 作者:入戸野 宏
  • 出版社/メーカー: 化学同人
  • 発売日: 2019/06/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 『居るのがつらいよ』が臨床心理の本で一番面白かったなら、基礎心理で一番面白かったのはこの本です。

 女子ってすぐに両手をブンブン振り回しながら「かわいいー!!!」って言いますよね。

 でも、その「かわいい」って、結局どういったものなんでしょうか?

 この本は「かわいい」とはそもそも何か、性別によって「かわいい」のとらえ方はどのように変わるかなど、「かわいい」研究の全体をわかりやすく解説してくれています。

 

 扱っているテーマは「かわいい」ものでも、それを検討するにはまったくかわいくないゴリゴリの手法が取られているギャップが面白いです。

 かわいくなりたい女子から基礎心理学に興味のある人まで、ぜひぜひ読んでみてください。

 

 

7. 「助けて」が言えない SOSを出さない人に支援者は何ができるか

「助けて」が言えない SOSを出さない人に支援者は何ができるか

「助けて」が言えない SOSを出さない人に支援者は何ができるか

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: 日本評論社
  • 発売日: 2019/07/12
  • メディア: 単行本
 

 

 助けを求めない当事者の心理をどう理解しかかわるか。

 いじめや自殺のニュースを見るたび、「彼らはどうして助けを求めなかったんだろう」と思っていましたが、その印象が覆されました。

 自殺・自傷・薬物中毒・いじめ・性被害など、援助が必要なところから、なぜ声が発せられないのか。

 「モノ」に依存している当事者が、安心してまず「人」に依存するためにはどうすればいいのか、福祉・心理・医療・教育のエキスパートが正面から向き合った一冊です。

 

 一貫して語られるのは「居場所」の大切さ。

 対人支援を志している人には特に読んでもらいたい本です。

 

 

8. 測りすぎ――なぜパフォーマンス評価は失敗するのか?

測りすぎ――なぜパフォーマンス評価は失敗するのか?

測りすぎ――なぜパフォーマンス評価は失敗するのか?

 

 

 「測りすぎ」が生活を破壊する。

 今、大学入試改革の話題が世間を騒がしていますが、それを考えるうえで非常に有効な一冊です。

 本書は「成功へのカギは成果評価にある」という企業や国家の信念に疑念を投げかけ、測定そのものが目的と化している現状を批判しています。

 教育・医療・行政からNPOまで、根拠のない数値目標がお題目のように唱えられ、本来の目的から逸脱していく様子を生々しく描いています。

 

 大学ランキングを上げるために教育の質とは関係ないところにお金が費やされたり、犯罪とする基準を緩くすることで犯罪率を下げたり……どこかで見たようなケースからもっとバカバカしいものまで、過度な測定の弊害が目白押しです。

 「測りすぎ」の問題が顕在化した今だからこそ、読んでおきたい一冊。

 

 

9. バンクシー 壊れかけた世界に愛を

バンクシー 壊れかけた世界に愛を

バンクシー 壊れかけた世界に愛を

  • 作者:吉荒 夕記
  • 出版社/メーカー: 美術出版社
  • 発売日: 2019/09/10
  • メディア: 単行本
 

 

「アートの世界は、最大級のジョークだよ」

 路地裏のストリートアートから、世界でもっとも有名なアーティストの一人へ――。

 

 東京で彼のイラストらしきものが発見されたのは記憶に新しいですね。

 そんなバンクシーの痕跡を博物学専門の筆者が辿った一冊。

 

 オークションで作品を裁断したのみならず、混沌としたディズニーランドのような遊園地を作ったり、変なホテルをオープンしたり。

 様々な彼の活動が時間・空間的な背景から鳥瞰的に解説されています。

 今をときめくこのアーティストについて知りたいなら、最高の一冊です。

 

 

10. 異世界と転生の江戸: 平田篤胤松浦静山

異世界と転生の江戸: 平田篤胤と松浦静山

異世界と転生の江戸: 平田篤胤と松浦静山

  • 作者:今井 秀和
  • 出版社/メーカー: 白澤社
  • 発売日: 2019/10/24
  • メディア: 単行本
 

 

 リアルなろう系、転生したら江戸時代だった件。

 江戸後期、天狗に連れられて異世界を見てきたという少年、さらに自分は他人の生まれ変わりだと自称する少年まで現れ、当時の知識人の注目を浴びました。

 そんな少年たちに相対するは在野研究者である平田篤胤、隠居大名の松浦静山の二人。

 そして、江戸時代の知識人ネットワークはどのように彼らの存在を扱ったのか。

 

 未だ人々の創造の中で魑魅魍魎が跋扈する時代、当時の知の最先端は異世界の少年たちに何を見たか――。

 熱心に探究する平田篤胤と冷静に少年たちを探求する松浦静山の対比が面白い、異色の歴史論考です。

 

 

 以上で、2019年の面白かった本の紹介を終わります。

 他にも、今年に出たノンフィクションなら、『心理学と7つの大罪』(みすず書房)、『ルポ教育困難校』(朝日新書)、『暴力と不平等の人類史』(東洋経済新報社)などが好きでした。

 あと、話題になった『ケーキの切れない非行少年』(新潮新書)、『FACTFULNESS』(日経BP)もなかなか面白かったです。

 

 

 バーっと今年読んだ本を見て思うことは、2020年を迎えるうえで、理想とする未来の社会の姿が完全に見失われているのではないか、ということです。

 

 『サピエンス全史』のユヴァル・ノア・ハラリの「我々がどうしたいか、ということが今後は重要になってくる」というテーゼがさらに真に迫るものになってきたな、という感想です。

 未来の社会の姿の、超アグレッシブな形が加速主義、超パッシブな形がシオランのような反出生主義なのでしょうね。

 

 ベーシックインカムだの、ムーンショットだの、未来の社会の姿を模索する取り組みは徐々に進められてはいますが、いずれも八方塞がりな印象があります。

 そういった混迷から、(日本特有のガラパゴス的な)加速主義・反出生主義のブームが始まったら面白いな、とか個人的には思ってます。

 

 

 蛇足はここまでにして、今年の書評は終わり、閉廷!

 読んでくれた皆様、ありがとうございました。

 2020年も、よき読書ライフをお過ごしください!!

 

 

ナラティブに侵される

11/30 曇り  

 

 卒論を書いたり、小説を書いたりする予定だったが、結局一日中ダラダラしてしまった。

 朝7時に起きて3時間ほどYoutubeで同人音声を漁り、ラーメン屋に行って、それから昼寝をしたら夜の6時になってしまった。

 

 空の色が移り変わる早さに、体と頭が追いつかない。しかも、風邪気味だ。

 日常が末端から腐り落ちていく。

 小説を読んで物語の世界に入り浸るのは、その防腐剤になるだろうか。

 

 

 大学生になってから貪るようにして読書をしているが、実は私は本を読むのがそんなに好きではない。

 助長だし、体力を使うし、面倒くさいからだ。

 

 それでも読書をしているのは、己の無知ゆえに生じる苦痛から逃れようとしているからだ。読書をするほど、自分の無知を思い知ることになるので、かえって苦痛を増幅させているきらいはある。このパラドックスを、かれこれ4年近く繰り返している。

 

  読書は嫌いだが、小説を楽しむのは好きだ。

 私は小学生の頃から図書館によく通うような人間で、そのころから万城目学森見登美彦恩田陸らの小説を読んでいた。

 もっと汚い話をすれば、ワンセグ携帯を片手に毎晩眠りに就くまで、ネットのエッチな小説や、ショートショートを読み漁っていた。

 

 この小説好きは中学生・高校生になっても続いた。

 中学生ではブーン系小説やなろう系小説など、高校生になると村上春樹筒井康隆らの作品をよく読んだ。

 

 

 小説を読むのと同時に、作品を書くことも“それなりに”好きだった。

 物語を生み出すのが好きになったのは、小学5年生の頃だっただろうか。

 国語の授業で、教科書で学んだ作品の続きを考える、という課題が出された。

 簡潔に言うと「親子がニジマスを釣りにいって、親子の中が深まる」という内容の作品だった。

 ここで私は、「子供が成長して大人になって、『お爺ちゃんとの思い出』という形で、自分の子に対して語りかけている」という続きを書いて提出した。

 ありきたりな話の締め方だとは思うが、これがどういう訳か、クラスで唯一の最高評価を教師からもらった。

 それが嬉しくて、少しずつ私は日頃から物語を生み出すようになった、のだと思う。

 

 物語は頭の中に収まらず、現実世界にまで拡張していった。

 暇さえあれば、使い終えたプリントに物語を書き連ねた。

 有志と組んで、退屈な授業をリレー小説で誤魔化したこともあった。

 アイデアの結晶を圧搾して、指の先から垂れ流し続ける日々をしばらく続けた。

 アイデアがアイデアを産む循環が、人知れず教室の片隅で回り続けていた。

 

 そうしていると、物語が生活を侵食するようになった。

 ものの理解の仕方も物語の筋に沿うことが多くなったし、この世のあらゆるものに意味があるように感じるようになった。実際は、そんなことはないのに。

 そのうち、タガを外した癌細胞のように物語は無秩序な増殖を始めた。

 それらを逃すために、「魔法のiらんど」に自作小説を投稿したこともあったし、「小説家になろう」に短編を投稿したこともあった。

 

 これまでは、こんな状態では生活が立ちゆかないので、物語の栄養源である妄想を断つことによって解決してきた。

 これと同じことを、大学の最後の学年になって繰り返している。

 現在は長編小説を書いている最中である。

 卒論を書くべき時期に、既に約6万字を書き終えている。

 この熱がいつまで持つかは分からないが、ここだけの話5年は温めていた話なので、丁寧に扱っていきたい。

 卒論は、もっと丁寧に扱いたい。

 

 

 近頃、小説を書くときに「夢十夜」の第六夜をよく思い出す。

 「なに、あれは眉や鼻を鑿(のみ)で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」という作中の台詞が想起されるのだ。

 

 明治の木の中に、仁王像は埋まっていなかった。

 私の頭の中に、「人間失格」や「罪と罰」は埋まっていない。

 

 土塊をこねて、仁王を真似た泥人形を作り上げるしかない。

 だが、これが面白いんだと感じる。

 この面白さを、忘れないようにしよう。      

 

バカにできなくなってバカになった

11/23 曇り


 卒論をぼちぼち進めたり、小説を書いたり、『アクタージュ』を読んだり。大学生最後の学期を並々のコンテンツ生産性で過ごしている。

 生産性のピークは、クソ動画を量産していた大学1年生の冬と、Vtuberをしていた大学3年生の夏だ。

 

 これまで散々、様々なコンテンツをインプットしていた分、本当は今の時期がピークになるべきなのだが、いつもの怠惰によってそれができずにいる。

 特に今日は酷かった。自転車の電気を直しに店に行った後、スターバックスで作業をしようと思っていたのだが、駐輪場が有料のものしかなく、結局家に帰って午後はずっと耳かき音声を聴きながら寝そべっていた。

 卒論・小説・イラスト・日記・動画と、産み出したい進捗はたんまりとあるのだが、焦燥感ばかり駆り立てられて、どれもできずにいた。風呂に入って集中力が舞い戻ってきたので、こうして日記を書いている。いや、先に卒論をやるべきなのだが。

 

 「べき」「べき」という表現は、使うだけでも首を絞められている気になってしまう。「べき」に囲まれていて、逃げ場がない。

 ここらで気晴らしに、スマホを使わない「なんとかデトックス」なるものを試してみるのもいいかもしれない。

 


 読書をして知識を得て、バカにできるものが少なくなった。

 本当は外国人だったり弱者だったり、自分と意見の違う人をバカにする方が生きていて楽なのだが、それがだんだん出来なくなってきた。最近は、本当に意識してなにかをバカにするようにしている。それはそれで、胸が詰まるような思いがするので、板挟みになっている。


 大学1年生の頃は、田舎のヤンキーだったり、低偏差値の学校をもっとバカにしていた。他にも、もっといろいろなものをバカにしていた。

 しかし、前者は『ヤンキーと地元』という本を読んで、後者は偏差値にかかわらず優秀な人はどこにでもいると知って、両者ともバカにできなくなった。そうなってから、本当にしんどくなった。

 

 何がしんどいかというと、田舎のヤンキーだったり低偏差値校をバカにしている人を見て、抵抗感を覚えるようになったのがしんどい。彼らの価値観をジャッジできるはずもないのに、己の道徳心が勝手に逆撫でされる。それを抑えようとして、こういった出来事が無数に積み重なっていってしんどくなる。

 こんなことなら出来損ないの道徳心などいらなかった。いや、道徳心というよりも、様々な価値観について、私はあまりにも脆弱すぎる。

 

 では、他の人はどうしているのか注意を払ってみると、普通に誰かをバカにして生活しているか、そもそも他人のことなど気にしない性分か、どちらかなのだ。中途半端モノの私はどちらにもなれない。

 繊細でひ弱な感受性、他人のことまで視界に入る注意散漫、この二つをどうにかしないと。

 


 久しぶりに日記を書いた。

 悩み事は積もる。放置すると腐臭を噴出する。それを久々に実感した。

 とにかく、今は卒論を書く。ついでに小説もぼちぼち書く。

 優先順位をつけるのが苦手なのも、私の弱点だ。

 

 弱点と向き合うのは、二十歳を超えた今でも難しい。

 多分、一生難しいままだろう。


 

「走る」という行為を剥奪された“人類”なる愚かな種について

11/12 晴れ

 

 昨日にブラックコーヒーを飲みすぎたのが効いてるのか、今日は一日中テンションが高い。

 

 頭の中で卒論の構想や、小説での登場人物のやりとり、作りたい動画のシーンなどが終わりのない螺旋のように延々と廻り続けている。

 ぐるぐるぐるぐる。完全に躁だ。

 

 こうなると反動が怖い。

 長期休暇になると、毎度の様に鬱状態になり、世の中へのシビアな考えが止められなくなる。

 どうすりゃいいのか、まったくわからないので、今のうちに色々出力しておくか、と前向きに捉えて、ゲロゲロぶりぶりと文章を排泄している。

 

 何かを作るというのはウンコのようなもので、頭の中に留めれば留めるほど、考えが凝り固まって便秘のようになり、排泄することが難しくなる。

 かといって、思いついたものを直ぐに排泄しようとすると、思うように出力することができず、下痢のような惨事に成り果てる。

 

 ブログを書く際に、このプロセスは数え切れないほど経験してきた。

 完璧なバナナウンコの出しどころを見極めるのは存外難しい。

 

 ということで、文章にしろ比喩抜きでの排泄にしろ、ここ数日は便秘気味である。

 便秘を我慢し続ければ、過度に高まった圧力によってウンコがダイヤモンドに化けるかもしれない。

 そこまで待っている暇もないのだが。

 


 普段から歩くのが早いのだが、最近になって余計にそれが早くなってきた。

 早歩きなだけならまだしも、小走りになることも増えてきた。

 別に時間に追われているということも無いのだが、謎の衝動が抑え切れなくなって、己の意に沿わず走り出してしまう。

 

 走り出すようになってから気づいたのは、走ると妙な視線を他人から向けられる、ということだ。

 走っている私に対して、単に注意を向けるのみならず、異なるものを見るような視線を向けられているように感じる。街中で和服の人を見つけて、「うわー珍しっ」となるときと、ほぼ同質の目線だ。

 反対に考えれば、そのような視線を向けられるほど、「走る」という行為は珍しいものになっている、ということだ。

 

 朝、授業開始ギリギリの時間になっても、走り出す大学生は少ない。

 中学生や高校生の頃は、遅刻するかもしれない、という状況に追い込まれると、走り出す人が大多数だったのに(心理学をやっていると、このように主観的な意見を書き連ねることがだんだんと困難になってくる。「その意見に根拠はあるのか」と喚き散らす内なる声を飼い慣らしてしまうと、文章を書く上で非常に厄介な存在になる)

 

 年齢を重ねるにつれて、私たちはある意味で「走る」という行為を剥奪されてしまうのかもしれない。

 誰に剥奪されるのか、と言われれば、「社会」とか「他人の目線」とか、ありきたりなものしか挙げられないのだが。

 私はそれらを別に気にしないシャフテキ(社会不適合者の意)なので、走り続けているが。

 

 走ることは運動にもなるし、無駄な時間も削減できるし、メリットづくしの一石二兆鳥だ。

 逆に、多くの人が通勤・通学で走らない意味がわからない。

 もっと人類は走った方がいい。いや、宇宙の全生物は走るべき。

 


 実験がひと段落して、学校に行く用事もグンと減ってしまったが、運動不足解消と便秘対策のためにできるだけ日頃から走ろうと思う。

 大は小を兼ねる。大便の際に小便が出るように、走ることで私に様々な小さな特典がもたらされるはずだ。

 

 卒論提出まで、それこそ走るように時間が去っていくだろうが、上手くコケないように日々をこなしていきたい。

 

 

汚い妄想は汚いお金で解決させましょ

11/6 晴れ


 実験をしたり、妄想を書き留めたり、論文を読み読みしたり、好き勝手にいろんなことをやっている。

 

 今日は朝から久々に芸術的な形のウンチを出産したのでご機嫌だ。一日の始まりに良いことがあると、朝から晩まで気分よく過ごすことができる。

 

 そういえば、「朝の通勤・通学中に『ルージュの伝言』を聴くといい」というツイートを最近見かけた。

 『ルージュの伝言』は確かに良い。家出少女の歌のはずなのに、なんだか自分が何らかの主人公であるかのような気にしてくれる。

 自分が物語の主人公であるかのように日々を過ごすのは脳に良いと、茂木健一郎も言っている(ウソです)

 普段はモブモブしている私も、明日くらい『ルージュの伝言』を聴きながら電車に乗ってみようと思う。

 


 ここ数日、自分の妄想をひたすら書き留めている。

 精緻な世界設定を伴った妄想が興ったのは久々なので、全身のリンパをドクドクいわせながらキーボードを叩き続けている。しかも、書けば書くほど妄想が湧き出てくる。うおォン、俺はまるで人間妄想発電所だ(要出典)。

 たかが妄想、されど妄想だ。何らかの役に立つかもしれないので、一応思いついた全てをメモしている。

 

 妄想であれアイデアであれ、ポケーっとしてると直ぐに内容がどこかへ飛んでいってしまう。

 鉄は熱いうちに打った方がいいし、チンポは勃っているうちにコいた方がいい。普遍的な真理だ(いつもこんなことを考えているわけではないんです。ここから出してください。出して。出せ!!!!)

 


 妄想癖との付き合いは長い。

 小学生の頃は学校の授業がつまらなさ過ぎて、いつも妄想ばかりしていた。

 

 最初は人気の漫画をベースにした可愛げのある妄想だったが、現代の禁忌・インターネットを手にしてから、妄想は老人の運転するプリウスのように加速していった。

 『ひぐらしのなく頃に』から『新世紀エヴァンゲリオン』、『とある魔術の禁書目録』などなど、様々な世界で私は活躍したり、活躍しなかったりした。

 

 最盛期では、妄想によって完全に視界が“ジャック”され、物語の世界に浸っているうちに一時間が経っている、なんてことはザラにあった。

 

 今では考えられないが、当時は妄想の中での五感が現実の身体にもある程度反映されていた。

 ステーキを食べる妄想をすれば、ぶ厚い赤身を噛みしめる食感や、そこから肉汁が溢れ出てくる感じまで、こと細やかに再現できた。きっと、精神的には非常にボーダーな状態だったのだと思う。

 

 ただ、妄想をしまくったせいで中学校や塾での授業をほとんど聞けず、内申点がすこぶる悪くなり、それが男子校に入学する遠因になったのはご愛嬌である。人生に及ぼした影響はまったく可愛いものではないが。

 


 そんなこんなで、大学生の今になって再び妄想が湧き出てきた。

 流石に昔のように、五感を妄想にハイジャックされるということはなくなったが、物語の続きをスラスラと出力するくらいならまだ余裕だ。

 

 書きに書きまくった妄想の世界設定を友人に見せたら、「小説にしたら良くね?」という話になった。「添削して欲しいならするで」と、彼もなかなか乗り気だった。

 『小説家になろう』や『カクヨム』に投稿してみるのもアリかもしれない。

 今こそ、3年に渡って続けたブログで培った文章力を活かす時だ。金こんにゃく先生の次回作にご期待ください。

 


 ところで、卒論の進捗は?