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きんこんぶろぐ

大学生の私が日々思うことを綴っていくブログ

日記:おっぱいについて

9/13 雨 

 気がつけばノートパソコンに書き込んである日記の文字数が10,000字を超えていた。1日あたり1000字のペースである。作文用紙に換算すると2枚半、こう考えると、なかなかの文字数を毎日書き込んでいるものだなあとしみじみする。これだけ考える題材の多い退屈な素晴らしい世界に感謝。

 

 ブログに最初に書き込む題材としてはとても下品だが、某ツイッタラーに影響されておっぱいについて語る。

 

 おっぱいというものは大きさ・形・他の身体部位とのバランス・乳首・谷間といった構成要素で成り立っている。

 

 主に議論が交わされているのは大きさについてだが、これは個人の趣向による部分が大きいので、永久に結論が出ることはないだろう。少し冷めた言い方をすれば、巨乳というのはより多くの男性の目線をひくセックスシンボルとなる。

これに反応しない貧乳派は本能的な欲求から逃れられていることになる。このことから、貧乳派はフェチズムの領域であると断言できる。

実際、貧乳派にはホモセクシャルの因子を持つものが多いという研究結果もある。ついでに私は貧乳派である。俺ホモかもしれんな。

 

 大きさの次に議論の的となっているのは形についてであるが、私は貧乳派なのでおっぱいの形について語ることはない。なぜなら貧乳はどれも形が一致しているからである。

議論の余地が残されているのは乳首の形についてであるが、私はある程度は雑食なのでこれも気にしない。裏返せば、陥没乳首が嫌だの、乳首カルパスが嫌いだの選好している余裕が俺には残されていないのかもしれない。よくよく考えれば危機的状況である。俺ホモかもしれんな。

 

 第三に他の身体部位とのバランスについて、これは痩せすぎず太りすぎずといったものがベストであるが、その基準が難しい。女子の体重論争に一度巻き込まれてしまうと、その価値観の相違により、女子たちの怒りの業火によって全身を消し炭にされてしまう。わざわざ自分から童貞的価値観を大っぴらにする必要もないだろう。

あと顔は可愛い方がいい。完璧なプロポーションを保ったブサイクよりも、ある程度体型が崩れている女子の方が人気があるのは悲しい事実だ。魅力的な体をしたハリセンボンはるかよりも、ガリガリの堀北真希の方が魅力があるのは自明である。

 

 次に乳首について。乳首はおっぱいの中でも最も視線が向かう場所、いわばおっぱいの花形である。乳首というものはおっぱいを地として、図として浮かび上がる部分でもある。

それゆえ、乳首というものにこだわりを持っている人も多いことだろう。私は先述したように、それほど乳首に対してはそれほどこだわりはない。でも乳首カルパスはちょっと嫌かもしれない。こうしてますます好みの女性が少なくなっていく。

 

 最後に、谷間について語ろう。といっても、谷間はこれまで述べてきたおっぱいの主要要素と違がって、いうならばおっぱいの副産物的なものである。谷間そのものはおっぱいではないということだ。

しかし、その重要性は乳首と並ぶ。普段は衣服などで隠されている乳首と違って、谷間は露出することがそれほど不埒とされていない。普段男性がおっぱいを見るとき、谷間も注目の的になるのだ。

だが、私の好きな貧乳には谷間がない。よってそれほど谷間について語ることができない。唯一思うことは「谷間って洗うの面倒くさそうだなー」くらいである。もはや何の感情も抱かない。私は谷間について物質的な評価しか下すことができないのだ。谷間の精神的価値を理解できないことは非常に悲しい。これがAVのパイズリシーンを全てカットした男の末路である。

 

 これまで長々とおっぱいについて語ってきたが、ある重要な要素が抜けているのにはお気づきだろうか。

 

 そう、「触感」である。

 

 私は、実に無様なことだが、齢18になってまで女性のおっぱいというものを触ったことがない。

赤子の頃に母の乳を触ったのでは?という意見もいただけるであろうが、人間は生まれた頃母の乳はおっぱい、つまり性的対象と見なしていないはずである。

精神分析の世界では赤子は乳の出るおっぱいを「良い乳首」、乳の出ないおっぱいを「悪い乳首」と捉えるといわれている。所詮、赤子は母のおっぱいを母乳製造機としか捉えていないのである。

そもそも、成人であっても母のおっぱいに欲情することはそうそうないだろう。もし欲情するようならマザコンの鑑である。

結局のところ、一度もおっぱいに触れたことのない者におっぱいの触感を語ることは不可能、語り得ないものについては沈黙するしかないのだ。

 

 そもそも、思い返せば私は生乳を最近見ていない。いや、最近どころか一度も見た記憶がない。浮かび上がるのは淡路島で牛の乳を搾った思い出のみである。

となると、私は日常生活では不可視である乳首や、他の要素でさえおっぱいについて語る資格がないのではないのか?私が好んでいる貧乳でさえ画面越しにしか見たことがない。

『本物』について何も知らない私がおっぱいはおろか、貧乳についてでさえ語ることはおこがましいのではないか?

貧乳の代わりに脳裏をよぎったのは男子校時代、筋トレ中毒となってしまったクラスメイトの胸である。『アレ』は間違いなく本物の貧乳よりは迫力があった。

もはや私が語ることができるのはこの雄っぱいについてのみである。やっぱり私はホモなのかもしれない。