きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

日記:「忘れる」ということについて

9/15 曇り 

 今日は中秋の名月である。しかし、雲に隠れて月は見えないだろう。暗き夜に雲の向こうで満ち足りている月のことを想う。

 

 忘れるということは本当に辛いことなのだろうか? と近頃考えている。

誰もが我が身を振り返ればすぐにわかるように、私たちは様々なことを忘れながら生きている。むしろ、忘れなければ生きていけないと言い換えてもいいだろう。

これまで、そしてこれから立て続けに起こっていくいろいろな出来事を人は未来永劫忘れずにいることはできない。

だが、大切な人との死別や、理不尽な叱責など、そういった出来事が起こった時の感覚を鮮明にいつまでも覚えているならば、人はマトモに生きていけないだろう。これらの辛い記憶が日々、薄らいでいくからこそ、私たちは前に進むことができる。

 

 それでも、人は「忘れる」ということに哀愁を感じずにはいられない。

例えば、私たちの人生を一冊の本にまとめるとしよう。

人により長さはまちまちになるとは思うが、たいていの人生はたとえどれだけ冗長に書き込んだとしても、半日もすれば読み終わってしまうほどのページ数になるだろう。偉人の人生でさえも、簡潔な一冊の本にまとめられてしまうのだ。私たちの人生のページ数が彼らよりも多くなるとはとても思えない。

当たり前のことではあるが、1日の時間が24時間なのは全人類共通である。よって元来、人生そのものはそれの内容を綴った本よりも圧倒的な情報量を含んでいるはずである。

しかし、私たちが想起することのできる記憶は、これまでの人生の総情報量よりも悲しいほどに少なくなる。この情報量の差のどこかに、自分にとっての大切なものが眠っていると人はつい想いを馳せてしまう。

 

 「生きる」という言葉は様々な行為を含んだ曖昧なものだが、その行為の中には確かに「忘れる」こと、そして「覚えていく」ことが含まれている。

私もできれば物事は忘れたくないものだ。自分をかたち作っているものが、気づかぬ間にこぼれ落ちていくというのは切なくも寂しくもある。

それでも、私たちは前に進むために忘れることを止めることができない。こぼれ落ちた分は自分たちで補い、新しい自分のかたちを粘土細工のように捏ねくり回し整形していくほかない。

生老病死とは俗に言う四苦であるが、「生」の中に「忘れる」という苦しみも含まれているのではないだろうか。

 

 「ふるさとは 遠きにありて思ふもの そして悲しくうたうもの」とは室生犀星が詠んだ詩だ。

「忘れる」ということは辛い一方で、自らが昔触れ合っていた物事の素晴らしさが再確認できるという利点もある。「忘れる」という行為が辛く悲しいものだからこそ、私たちは自身の過去の事象を愛おしく想うような感情を育むことができるのではないか。

 

 夜という時間はこのようなセンチメンタルかつナルシスト的なことばかり考え込んでしまう。

実は、この日記を書き込むその時まで、今日が中秋の名月であるということを忘れていた。過去のことはともかく、今や未来のことまで忘れてしまうことは避けたいものだ。