きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

日記:語ることの難しさ

9/16 

曇り 統合失調症の患者からみた世界とはどのようなものなのだろうか。彼らは自分の思考が誰かに盗み聞きされていると盲信し、陰謀論に傾斜し、自分が正常であると強く思い込む。

彼らからすれば、私たちは国家権力に操られている木偶人形なのかもしれない。

 

 これまでの日記について一つ断っておきたいことがある。それは、私はいかにも自分の述べたことが正しいような文体で書き綴ってきたが、これまでの日記、そして今日の日記の内容も、全ては私の軽率かつ主観的な憶測であるということだ。

昨日、「忘れる」ということに対して語ったことも、「脳の検索ミス」と一言で済ましてしまった方が良かったのかもしれないと今では後悔している。

そもそも、脳がいかにして検索ミスを犯すのかすら、現代の心理学・脳科学では明らかになっていないのである。ただ、幾多もの反論を退けてきた仮説がいくつか残っているのみだ。

なので、私は情けないことに「忘れる」という事象についての主観的な意味しか述べることしかできなかった。このように、世界には語ることすら危険な物事が多すぎる。

 

 この頃はますます物事を語るのが難しくなってきた。

こうして日記を書き込んでいる際も、「この考えはあまりにも不確実ではないか?」と気づいてしまって、せっかく書き上げた文章をまるごと削除することも増えてきた。そういう時に、語ることが如何に難しいかを実感してしまう。

このままでは何も語ることができなくなってしまうのではないか? 何でもないような顔をして物事について語ることができなくなってしまうのでは? そういった危機感が以前より胸の底にあった。

 

 このブログを開設した一つの目的は、より雄弁に物事について語れるように、自らの日記を公開することだった。

もともと1年ほど前から日記自体は習慣にしていたし、その文体もこのように誰かに語りかけるようなものだったので、文章を書くということ自体には困らなかった。

問題はその文章の内容である。ブログに載せている日記は、下品すぎるものや、個人的な諸事情が述べられているものは全てカットしている。それらを除いてでさえ、私の日記は曖昧な立場を取っていて、何かについて完全な自信を持って語れていることが非常に少ない。

それを克服するためのブログ開設であったが、その効果は三日目にして未だ実感していない。

 

 もし、同じような困難に遭遇している方がネットという大海原を漕ぎ着け、このブログに辿り着いたならば、これから私が試そうとしている手法を共に試してもらいたい。

それは、『大胆に物事について語り、それが偽と発覚したならば、すぐにその語りを棄却する』というものである。これは科学者が仮説を立てるプロセスにも似ている。スクラップ&ビルドの精神でこれを繰り返していけば、いつか正しく語ることができるようになるという寸法だ。

自分の語りが間違っているという事実は、誰もが完璧に正しく語ることはできないという事実へと繋がる。どのような場合でも人は間違え得るということを意識して、たとえその語りが塾考の末の結論であっても、今一度「なぜそのように思ったのか」と考え直すことが必要となるのではないか。

 

 もしかしたら、以上の結論でさえ考え直す必要があるかもしれない。

そもそも私たち全員は絶対に〇〇が正しいと言い切ることができるのだろうか。どこかに不条理に盲信している思考の穴があるのではないか? 

そういった意味では私たちと統合失調症は似ている部分も多いのかもしれない。