きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

日記:神話化するアニメ

9/23 曇り 

今、アニメ映画が熱い。

最近、「聾の形」というアニメ映画が流行っている。さらに、「君の名は。」の興行収入が今日になって100億円を突破した。

私も色々なアニメ映画を見に行ってみたいものだ。だが、映画を見てはそれの内容を小難しく考えてしまうという癖があるので、映画館に行くのを躊躇っている。誰かに誘われれば見に行くかもしれない。絶賛募集中。

 

 「君の名は。」を見ている最中にも気がついたのだが、近頃の売れるアニメには観客を無理やり少年少女が織りなす『大きな物語』に引きずり込むようなものが増えていることに気がついた。これらのアニメを巷ではセカイ系アニメと言うらしい。

セカイ系アニメの代表作と言えば「新世紀エヴァンゲリヲン」だろう。ざっくり説明すれば、主人公である碇シンジが美少女やホモやおっさんに囲まれて、ロボットっぽい生き物を操って怪獣と戦う話だ。

このアニメでは、まさにセカイ系アニメの代名詞とも言える「ループ」や少年少女に世界の命運が託されるといった構図がふんだんに使用されている。

その他の有名なセカイ系アニメには「涼宮ハルヒの憂鬱」、「時をかける少女」、「サマーウォーズ」などがある。これらの作品はどれも少年少女を軸に話が展開していく。

 

 では、なぜセカイ系アニメは売れるのか。まず、セカイ系アニメが織りなす『大きな物語』の存在を考えなければならない。

大きな物語』とは、宗教・イデオロギー・世間など、その社会で生活している人々が巻き込まれている、その価値観を共有していると信じるに足る筋書きを提供してくれる物事のことだ。

近代まで、人は宗教などの『大きな物語』の中で生活してきた。死ねば天国に行ける、良いことをすれば報われるなど、『大きな物語』が生きる上での答えを用意してくれていたのだ。

だが、現代になってグローバル化が進み、様々な文化が混合した結果、『大きな物語』は崩壊した。現代日本ではますます因果応報や、神の存在を信じるものが少なくなっている。

しかし、人は『大きな物語』の中にいることで安寧を得ていたのであって、各個人が自分たちの『小さな物語』を生きねばならなくなった現在、様々な心の問題が浮かび上がっている。

そのような状況で『大きな物語』が求められているところに現れたのがセカイ系アニメだった。たとえ架空でも『大きな物語』を提供してくれるセカイ系アニメに人気が集まるのも必然だったと言えよう。

 

 次に、セカイ系アニメはあえて内容を小難しくしてあることが挙げられる。

アニメを見る人には二つのタイプが存在する。純粋にストーリーと楽しむ者と、ストーリーの裏を探ってしまう偏屈者である。

セカイ系アニメは何も考えなくてもストーリーを楽しむことができるが、いかにも裏があるように、それっぽく見せつけてあることがよくある。偏屈者は観客のほんの一部だが、彼らはそれっぽく見せつけてあるものに釣られて何回も映画館へ足を運んでしまう。そして、考察だの何だの完全にストーリーを理解したふりをしてネットに自分の意見を書き込んだりする。その考察もどきを見た純粋にストーリーを楽しんでいた者が「ほうほう、このストーリーにはこのような裏があったのか!」と感銘を受けて、これらの人たちも映画館へ足を運んでしまう。

成功した新興宗教の上層部には必ずと言っていいほど、このような解釈好きの人間が存在する。これらの偏屈者がガバガバ教義を筋が通っている風に解釈してくれるからだ。これと同じように、セカイ系アニメの製作者にとって偏屈者達はお得意様なのだ。

 

 最後に、セカイ系アニメは現実をも巻き込む。グッズ販売なども注目すべきだと思うが、特筆すべきは『聖地巡礼』である。

アニメに登場する場面はたいていの場合現実にも存在する場所である。そのアニメのファンたちは、そのアニメに登場した土地へと現実世界でも向かうことによって、そのアニメの残り香を感じ取ったりする。このファンたちが土地に落とす金額は恐ろしいほど莫大なものになるだろう。

 

 こうしてみると、セカイ系アニメというものは神話にそっくりである。

人々の心の拠り所になる。『英雄たち』を中心として話が展開していく。一部のものの精巧な解釈によっていかにも話に筋が通っているように見える。現実にも存在する地名が登場する。登場人物が美男美女ばかりである。エクセトラエクセトラ・・・。

 

 思い返せば、「君の名は。」が上映される前の予告編ではいかにも若者層を狙ったような映画が数多く予告されていた。「四月は君の嘘」、「僕は明日 昨日の君とデートする」、そして「聾の形」。

新たな神話のための布石は、もう既に打たれているのかもしれない。