9/24 曇り
誰もが主人公になりたがる世の中である。皆、運命やら奇跡やらを求めてそこら中をウロウロしている。
かくいう私も運命というものにすがりたくなる時がある。
しかし、運命というものが仮に存在するとしても、それが本当に役に立つのだろうか? そんなことを考えていると、運命にすがるのがだんだんと嫌になってくる。
そもそも運命とはなんなのだろうか?
Wikipediaによると、「人間の意志を超えて、人間に幸福や不幸を与える力のこと。また、そうした力による巡り合わせのこと」らしい。
思わぬ幸運や不幸が舞い込んでくるという事象に、大昔の人は『運命』という名前をつけた。命を運ぶと書いて『運命』である。本来は人が偶然に何らかの災厄から生き残ったり、死亡したりした時にこの言葉が使われていたのだろう。
そして、時代とともに言葉の重みも軽くなっていった。今では恋愛やテストの結果、安っぽい占いにまで『運命』という言葉が軽々しく使われている。
要するに、現代では脳みそで理解できない因果関係を意味する言葉として『運命』は使われるようになったということだろう。言葉の軽量化は今に始まった事ではないが、重い言葉が軽々しく使われるのは少し寂しいような気もする。
運命という言葉は誰にでも使える詭弁である。
宗教改革期のカルヴァンが唱えた予定説のように、誰かのどのような行動でも運命という言葉で説明してしまえば全て片付く。一般に語られる運命というものは、たいていの場合ただの偶然である。
ところが、その偶然を運命という言葉で誰かが説明したのならば、偶然は運命へと昇華する。運命は、偶然の出来事が誰かによって運命と名付けられた時に初めて運命となるのだ。
これまでの文章を読んだ人ならば察してくれているように、私は運命自体が大きな力を持っていると考えていない。ただ、人が偶然を運命と呼ぶならば、それは運命となると主張しているのみだ。
私は先述した運命の定義と違い、運命を「人間の意志を超えているか超えていないかは関係なく、人間に直接は幸福や不幸を与えない、偶然による巡り合わせのこと」と考えている。
偶然による巡り合わせをラッキーかアンラッキーかを判断するのは人間であって、運命と呼ばれるものそれ自体はただの現象でしかないからだ。近親者が偶然にも事故などで死去して、それが運命と呼ばれても、その出来事が幸運なのか不幸なのかは周囲の人間の価値判断に委ねられるということだ。死去した近親者を激しく嫌っている誰かがいたなら、その人にとってその出来事は幸運な巡り合わせかもしれない。
さらに、運命は人間の意志と関係なく規定される。ある出来事が人間の意志を超えていなかった場合でも、その人の想像力不足により運命と名付けられる可能性があるからだ。
これらの理由によって、私の運命の定義はある程度妥当だと言える。反証求む。
最後にフランスの著名な哲学者であるサルトルの言葉を紹介しておこう。
「人間の運命は人間の手中にある」
こんなことになってしまったのは運命のせいだ、と自分のやり場のない感情を運命というものに押し付けることもあるだろう。
だが、それは個人の選択の結果でしかない。
人間は生まれた時にどのようなカードが配られるのか選択することはできないが、いかにそのカードを活用するかは無限の選択肢がある。
運命という言葉は責任転嫁のためにあるのではない。運命に失敗をなすりつけるよりも、自分の選択を振り返ってみることが次につながるものを手に入れるのに役立つだろう。