きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

日記:それでもデブを突き落とす

10/9 曇り 

今日はラップサークルの5人で集まってラップをした。人のことを笑える身分ではないが、あまりのラップの拙さに爆笑必至であった。

ラップを終えて外へ出ると、昼頃にはまだ暑かったのに、夕方頃には肌寒くなっていた。少しずつ季節が人肌恋しいものに移り変わっているのが感じられる。

だからと言って、そばにデブがいてもいい訳ではない。人肌がいくら暖かいとはいえど、触れたい人肌と触れたくない人肌があるのだ。

 

 操縦の全く効かなくなったトロッコが線路をひた走っている。線路の先には、それにまだ気づいていない男3人が線路工事をしている。このままでは彼らはトロッコに轢かれてしまう。しかし、あなたトロッコの行き先をレバーで切り替えることによって彼らは助かる。だが、線路が変更されたトロッコが向かう先には、はたまた工事中の男が1人いる。進路変更されたトロッコは彼を轢き殺すだろう。

もし、あなたがこのような状況に置かれたのならどうするだろうか?

これが俗に言う「トロッコ問題」である。多数の研究によると、このトロッコ問題では、過半数の人がレバーを切り替えることを選択するらしい。つまり、1人の犠牲で3人を救うことを選んだのだ。様々な葛藤が付きまとう、なんとも複雑な問題である。

 

 このトロッコ問題には変わり種が存在する。

今回の場合では、あなたは駅のホームにいることにする。そして、トロッコの行き先を変えるレバーは存在しない。その代わり、あなたの眼の前にはトロッコを止められるほど太ったデブがいる。このデブを線路に突き落とせば、線路の先にいる3人の作業員を助けることができる。あなたはデブを突き落とすだろうか? 

この場合では、大多数の人がデブを突き落とさないと答えた。この二つのトロッコ問題は、本質的に問われていることは二つとも変わらない。なのに、なぜこのような違いが出たのであろうか。

恐らく、デブを突き落とすという直接手を下す行為と、レバーを切り替えるという間接的に手を下す行為では心理的抵抗が違うのだろう。

だが私はデブを突き落とす。

 

 もっと別の場合を考えてみる。

閑散としたホームにあなた、あなたの家族、デブが並んで電車を待っている。これ以外にホームに人はいない。この時、線路に誤って自分の家族の1人が転落したとする。落下時に足をくじいたのか、その家族はなかなかホームに上がれない。電車は迫ってきている。この時、あなたの目の前にデブがいたとすると、あなたはデブを突き落とすだろうか? 

私はこう考える。私は家族を失うという不幸には耐えられないだろう。私はデブを突き落とす。

では転落したのが友達の1人だったなら? 私は友人を失うという不幸にも耐えられないだろう。私はデブを突き落とす。

さらに、転落したのが美少女、例えば広瀬すずだったなら? 迫り来る電車、怯える広瀬すず。私はデブを突き落とす。

延々と私の頭の中で線路に突き落とされるデブ。

 

 ここまで散々デブを殺しておいて言い訳がましいが、私はそこまでデブが嫌いなわけではない。ただ、家族や友人、広瀬すずに比べて好感度が負けているだけである。

私や私の家族、広瀬すずと何の接点を持っていない公平な視線の持ち主、例えばマサイ族がこの問題を考えたのなら、デブを突き落とすことを「罪」と感じて、私の家族や友人、広瀬すずを見殺しにするだろう。

しかし、私にとって彼らは赤の他人であるデブよりも重要な人々だ。人と関係するというのは、自分と関係した人々を特別視するということだ。

彼らを助けるためにも私にとって特別な存在ではないデブには死んでもううより他ない。

果たして、あなたはデブを突き落とすだろうか?