きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

日記:変わらないもの探してた

11/23 久々の日記。急に日記を再開したからと言って、何か特別なことが起こったという訳でもない。平凡な日常である。

勤労感謝の日だろうが何だろうが、そこまで日常に劇的な変化は訪れないものだ。大学生になってから、あまり祝日にありがたみを感じなくなった。どうせ社会人になれば多忙になるだろうから、この4年間のモラトリアム期間を今のうちに吟味しておこうと思う。

 

 変化というものは大抵、ゆっくりと起こるものだ。

この前、中学以来しばらく会っていなかった友人に、身長の急激な伸びを驚かれた。私は高校時代の3年間で、約25cmも身長が伸びていた。

友人にとっては、3年ぶりに私と会ったので、中学時代の私との身長の変化が大きく感じられたかもしれない。しかし、私は私自身の姿を日々鏡などで見ているので、それほど自分の身長が高くなったという実感が湧かない。正直、今でもあまり自分の身長が約180cmだという感覚がうまく掴めていないのだ。

自らの身体感覚と、周りから見た自分の外見が一致していないというのは、考えてみればなかなかに奇妙なことだ。自分の変化は他人の変化よりも気付きにくい。それはまさに、自分の変化は自分にとって、とてもゆっくりと起こるものだからだろう。

 

 こんなことを考えているうちに、私は気まぐれを起こして、ちょうど1年前頃の日記を読み返してみた。

結果から言えば、現在の私からはひっくり返しても出てこないような言葉ばかり綴られていた。

その他にも、モノクロの同人誌を読みすぎたせいか、『女性の乳首は黒いものばかりだ』などと、生で見たこともない女性の乳首に対して勝手に絶望していたりもした(1年後の私も生で女性の乳首を見たことはないが)。

日記とは、その時の自分の思想を封じ込めるタイムカプセルのようなものだ。その時ごとの自分の悩み・価値観・思考回路がむき出しになっている。それに加え1年前の私は日記で性欲がむき出しになっていた。1年前の私よ。あまりの性欲チンパンジーっぷりに1年後の私は嘆いておるぞ。

こうして、1年もの間、日々少しずつ堆積した変化は、地震活動のごとく現在の私に衝撃をもたらした。自分の変化に仰天することは、日記を通じてなら容易く起こる。

 

 こうしてみると、人というのは1年間で変わらないというものの方が少ないのかもしれない。さて、私の場合は何がこの1年間で変わっていないのだろうか? 

少々考えて、『モテなさ』くらいしか変わっていないものがない事に気付いた。できればこれは変わっていて欲しかった。

もしかしたら、生きるとは変わることなのかもしれない。周囲が変わるごとに、環境に合わせて自分も変わっていかなくては、生きるのは辛いだろう。

人間は死んでしまえば変化は起きない。変化を起こすこともできない。過去の自分を笑いながら、人は歳をとっていくのだろう。

1年後の自分は女性の生乳を見て、はたまた、モテモテイケてるリア充男子となって今の私を笑っているのだろうか? 

というか、そうなっていることを願う。行動してくれ、未来の自分。たとえ、未来の自分がいかに頼りないものかを熟知していても、こう願わずにはいられない。