きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

日記:生き恥

12/7 晴れ 

 「逃げ恥」というドラマが巷で流行っているらしい。略称せずに言えば、「逃げるは恥だが役に立つ」というクソ長いタイトルになる。初めて聞いた時はラノベ新刊のタイトルかと思った。

私はあまりドラマを見ないタチなので、詳しいことは知らない。噂によると甘々な恋愛ドラマらしい。童貞の身には有害そうだ。

というか星野源の『恋』にしろ、AKB48の『恋するフォーチュンクッキー』にしろ、西野カナのほとんどの曲でもそうだが、何故曲の途中で踊り出すのだろうか。

確か、インド映画でよく役者が踊るのは、キスなどの性的なシーンが規制されたことによる代用らしいが、もしや踊るというのは性的なあれこれのメタファーなのではないか? そう考えるとなんだかみなぎってきた。

 

 最近、一周廻って恋愛という行為が何なのか分からなくなってきた。

大学生の間では無条件に恋愛は肯定されがちだが、そもそも、何故人は恋愛するのだろうか。SEXのためか、社会的に望ましい地位に就くためか、よりその人と親しくなりたいからか、それとも、恋することに恋しているのだろうか? 

おそらく、これら全てが恋する理由になる得るのだろう。生物学的見解をすれば、恋愛の末に子孫を残すのがヒトを含むほとんどの生き物の究極的な目的である。つがいを作り、共に生活し、一部は浮気をし、子を残し、朽ち果てていく。

 

 しかし、本当に恋愛は至上の価値となるのだろうか。

恋愛が人生の究極の目的に関連しているからといって、最高の価値があると断言するのは早計であると考える。その過程には異常愛・不貞・別れなどの様々な不確定要素が存在するし、恋愛がSEXに直系するとは限らないからだ。

そして、ありがたいことに、ヒトは他の生物とは違いミーム(文化的遺伝子)を後世へと残すことができる。何かを生み出したり、文化や技術を継承することはジーン(生物学的遺伝子)を残すことに匹敵する価値を持つ。

童貞であろうが処女であろうが、ミームさえ残せば生物としての役目は十二分に果たすことができるのだ。

 

 このように恋愛について悶々と考えていたらもはや恋愛行為に価値を見出せなくなってきた。結局は私もチンポコに従い漠然と「恋愛してぇ〜」と思っているだけなのかもしれない。

私以前の先祖はほぼ全員子孫を残せたという事実が今となっては疑わしい。残念ながら金こんにゃく家の家系図は私で終わりになりそうだ。もしくは養子をとるのもアリかもしれない。

一つ言えることは、私がこの日記で「生き恥」を晒しているということだろう。生きるは恥、しかも役立たず。超絶マイナス思考な標語が出来上がってしまった。