12/23 晴れ
いよいよクリスマスである。
自分の英語力の低下にショックを受けたので、勉強を再び始めることにした。大学受験ぶりに、英語の長文をバカ真面目に読み、分からなかった単語をノートに記録していった。
大学に入ってからの勉強は、受験に追い立てられていた昔とは違い、まさに自分のためにしているといった感じがして嫌な気分にはならなかった。自己満足に何かをするというのはつくづく最高の贅沢だと思う。
高校生時代、教師からよく言われたことの一つに「大学生になったら自由になる」という言葉がある。受験生に対して、金言のように繰り返されるこの言葉だが、最近、本当にそうなのだろうかと考えるようになった。そもそも、『自由』とは?
小論文の問題に「〜について自由に書け」という形式のものがある。「自由に書け」と言われていても、自由に書いてはいけないというジレンマをこの問題形式は抱えている。
「〜について自由に書け」と言われた時は、たいていはその問題に関連した自分の経験を踏まえた具体例を示さなければならない。そうしなければ、良い点数をとることができないだろう。
点数を取らなければならないという制限が付いていれば、とても『自由』に書いても良いとは言えない。小論文の場合は、良い点数をとるという目的のために、文章を好き勝手に書く自由を放棄しなければならないのだ。
私たちは無意識的に自由を制限されていることもある。
例えば作文用紙を渡され、点数なども関係なく「自由に書け」と言われた場合はどうだろうか。
この命令に素直に従い、作文用紙に何かを書き綴るとしよう。この場合、マス目をまたいで大きく文字を書いたり、マス外にも文字を書いたり、作文用紙に絵を描くような人はまずいないだろう。それは作文用紙自体が、マス目の中に文字を書かせることを目的として作られているものだからだ。
ほぼすべての物は人にある行動をとらせるためにデザインされている。大人がペンを二本持って箸代わりにしていたり、つり革で懸垂をし始めるのを見たなら、私たちはその人達をバカだと思うだろう。
それは私たちがペンやつり革の使い方を幼い頃から学習して、体系的な知識(スキーマ)として脳内に収めているからだ。この知識のおかげで、私たちは一般社会で恥をかかないでいられる。
逆に言えば、「ペンは物を書くためのものだ」、「つり革は電車内で姿勢を安定するためのものだ」といった知識のせいで、自分たちの行動を、ものがデザインされている目的に合わす事を強いられているのだ。
キャンパスライフでさえ、社会的規範・道徳によってデザインされている。
大学生は人と関わることを強いられ、課題を提出することを強いられ、そして他のどの年代よりも『自由』であることを強いられている。高校生が想像するような『自由』など、大学生活には存在しない。
大学生は制限された自由や、不自由の中で日々を過ごしている。その結果として、『自由』と『無秩序』を履き違える者が増えるのだろう。
クリスマスを迎えようとしている今、周囲の様相は混沌を極め、無秩序な行為が社会に蔓延している。私もその混沌に巻き込まれているのは確かだ。
クリスマスに悶々としているうちに、今年も無秩序の渦に吸い込まれていく。
せめて自律を持って、今年くらいはこの季節を過ごしたいものだ。