きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

日記:成人式に行くのが嫌な理由

1/9 曇り 

 成人の日である。二回生や浪人生が地元の成人式に赴いている。

私も来年には成人式に出席するかもしれないと考えると、自分がここまで年を食ってしまったという事実に愕然とする。

小学生低学年の頃から、私は自分が二十歳になるまでに死んでしまうのだと思い込んでいた。しかし、現在18歳になっても、どっこい生きてる。早死だけはしないように心がけたい。同年代程度の著名人などの訃報を聞くたび、身が震える思いだ。

 

 短い人生を振り返っていると、私はいつも過去の自分をバカにしているような気がする。正直、今の私も、大学の春休み以前の自分をバカにしている。おそらく、来年の私も今の私を嘲笑しているのだろう。

というのも、後から振り返った自分の行動が、あまりにもバカだからだ。

15歳以前の頃にいたっては、自分自身が自我を持っていたかということすら怪しんでいる。今のような精神が形造られてから、実質3年しか経っていない、と信じてしまっているのだ。物事を段取り立てて行ったり、論理的な思考がある程度できるようになったのは、ほぼ最近のことだと思う。それまでの私は生きる妄想製造機だった。今の方が断然「生きている」という感じがする。やはり妄想のしすぎは体に毒だ。

 

 成人式関連のニュースを見ていると、ヤンキーには自我がないのでは? と考えてしまう。

逮捕されるまで暴れたり、無駄に派手な格好をしたり、どういった論理でこのような行動を起こすのか全く理解できないからだ。だが、ヤンキーはそこに意味を見出しているから、このような行動を起こすのだろう。

私の論理とは別の世界に住んでいるヤンキー達。彼らと触れ合い、「理解できない」と悶々としたくないので、成人式には乗り気になれない。

 

 もう一つ、成人式に行きたくない理由がある。

それは、成長した中学時代の同級生たちの社会階層が浮き彫りになっているのではないか、という不安があるからだ。

子供を持っている人もいるだろうし、ドカタになっている人もいれば、ひょっとしたら、亡くなってしまっている人もいるかもしれない。自分としては、小中の6年間で自分の少年時代に一つの区切りをつけているので、その後を知るのが嫌なのだ。

今の日本社会を眺めてみれば、ド底辺から官僚までいるので、格差ができるのは当たり前だ。しかし、ド底辺になってしまった同級生を見てしまったら、人生の分かれ道を進みすぎて、その分かれ道が二度と合流することはないのだと悟ってしまうだろう。ヤンキーとは二度と合流しなくてもいいが、まあまあ仲の良かった人がそうなっていたら悲しいと思う。

あいつはどうなってるかな、という想像の余地がなくなるのが怖いのかもしれない。

あ、あと卒アルに可愛い女の子があまりいなかったから行く気になれない。

 

 こうして、私が日記を打ち込んでいる間にも、ヤンキーは子を孕み、IT土方は終わりのない残業に追われているだろう。こういう想像をするだけならいいのだが、実際に子を孕んでいたりしたらビビる。

たった三年という月日で、人は恐ろしいぐらいに変わってしまう。そして、大抵は悪い方へと変わってしまう。悪化してしまった同級生。そして、彼らを通して悪化してしまった自分を直視するのは、なかなか勇気のいることだ。成人式には誰かに誘われたら行くことにしよう。