きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

日記:眠る狂気

1/18 曇り 

 風邪をひいた。今年度は私の人生史上最高頻度で風邪をひいている。次回の定期テストまでには完治させたい。体調を崩すと、頭の回転が悲しいほどに鈍くなる。自分の愚鈍さが普段より身に染みて感じられる。

子供の頃は、学校を休めるので体調を崩すのが好きだった。いつから私は風邪を忌避するアクティブな人間になってしまったのだろうか。

 

 最近、人間同士の争いをよく見かける。朝の電車で、ある日の教室で、ある時のネットで、私の行く先行く先で争いごとが起こっている。まったく、ロクでもない巡り合わせだ。どうして、そこまで忙しく諍いを起こせるのか純粋に疑問だ。こういう争いを見かけるたび、人間のハード的な面はここ数千年変化していないのだと厭に感じられる。

 

 ルワンダ虐殺をご存知だろうか。

このジェノサイドは、アフリカのルワンダという国で、多数の貧しいツチ族と比較的裕福なフツ族の間で起こったものだ。

元々は断続的に続いていた紛争だったのだが、フツ族の大統領が暗殺されたことから虐殺は始まった。ツチ族フツ族は双方とも疑心暗鬼に陥り、互いを殺しあった(といっても、裕福なフツ族の一方的な虐殺だったが)。

犠牲者は50万〜100万人の間だと言われ、数字が正しければルワンダの人口の1,2割の人口が消し飛んだ計算になる。そもそも、犠牲者が多すぎてまともな統計ができないという状況だ。

この虐殺でのエピソードは目を覆いたくなるようなものばかりだが、個人的に一番ショッキングだったのが

ツチ族の親が、自分の子供を親しくしていた隣人のフツ族に預けたら、次の日には殺されていた」

といったものだ。「人間は状況によって簡単に他者を殺し得る」という事実が残酷なまでに伝わってくる。

 

 このような虐殺はいかにも大昔の事件のように思えるだろうが、実際に、1994年に起こったものだ。ほぼ現代である。生物学的に自分たちと同様な人間が、ごく最近に、この愚行を行なっていたという事実に恐怖する。「人間は状況によって簡単に他者を殺し得る」とは、まさに私たちにも当てはまることだろう。私はその鱗片を日々感じ取っている。

現に今も、フィリピンでは警官が権威を盾にして麻薬中毒者という肩書きの付いた、れっきとした人間を撃ち殺している。中には免罪で射殺された人も多いと聞く。何のためらいもなく他者を殺せる素質は、間違いなく私たち全員に眠っている。

 

 駅ですれ違う私立通いの小学生や、しおれたサラリーマンや、品のない笑い方をする女子高生にも、人を殺す能力があるのだといざ考えると、何とも言えぬ形容しがたい不思議な感覚になる。この凶悪な素質を眠らせることのできる日本社会のありがたみは、こういうことを考えた時になって初めてわかるのだ。

といっても、1960年代の学生運動や、1995年のオウム事件などで、時々ある程度の数の人たちにこの素質が芽生えてしまうのが玉に瑕だろう。何となく、オウム事件の主犯格に高学歴が多かったことを思い出した。

 

 近頃は人に殺される夢ばかり見る。必死に抵抗を試みるのだが、いつも最終的には殺されてしまう。そして目覚め、自分にも人殺しを再現できる素質があることを、否が応にも認識させられるのだ。

悪しき素質を眠らせたままでいられるかどうかは、社会だけでなく、自分自身にもかかっている。

どうせ夢で殺されるなら、せめておっさんに殺されるんじゃなくて、美女に絞殺される夢を見たいなぁ・・・。