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きんこんぶろぐ

大学生の私が日々思うことを綴っていくブログ

日記:ゴキブリジュースのいうとおり

日記 考え事

2/12 今日は語呂合わせで「にいに」の日。全童貞が妹萌えというジャンルに感謝して妹キャラを愛でまくる記念日だ。というのは嘘だ。

リアル妹を持っている私からすればサイバー妹は萌えの対象とならない。おそらく姉の場合も同じことが言えるだろう。二次元は理想を描くからこそ二次元なのだ。二次と三次の境界線上で、このギャップに思い悩む同胞らの幸福を祈る。

 

 目の前に一杯のリンゴジュースがあるとしよう。このジュースに繰り返し紫外線や熱で殺菌処理を施したゴキブリを浸して、その後ジュースをろ過する。カップは再びリンゴジュースで満たされた。さて、あなたはこのリンゴジュースを飲めるだろうか。

物理的な状態で言えば、ゴキブリを入れる前と後では何も変化していない。一度ゴキブリがジュースに浸かったという経歴が付加されただけだ。アメリカで行われた実験では、37%の人がゴキブリジュースを飲めると答えた。逆に言えば、63%の人がゴキブリジュースを飲むことを選択しなかったということになる。

重要なことは、彼らがゴキブリジュースを飲まない理由を具体的に述べることができなかったという点だ。なんだかわからないけど、嫌悪感を抱く。そういった感想がほとんどだった。このように、この世界には何だかわからないが嫌悪感を刺激する物事が数多く存在する。

 

 最近、ツイッターで話題になっていたツイートに、「お茶碗にこびりついたご飯粒をきれいに食べない人とは分かり合えない」という内容のものがあった。日本では仏教起源のもったいない精神が蔓延しているので、共感できた人も多いかもしれない。その証拠に、このツイートは多くのRT数を獲得していた。

しかし、お隣の国である韓国では、お店などでは少し食べ残すことが礼儀とされている。出された料理を全部食べきるのは卑しいという文化があるからだ。こうしてみると、いかに人間の感情は文化に制約されているかがよくわかる。

文化の下で『善』とされる行動には不合理的なものが多々ある。ヒトは経済学の世界で、合理的な行動をとるホモ・エコノミクス(経済人)と形容されてきたが、実際はそうではないということが明らかになっている。

自動車事故で亡くなった飼い犬の肉を食べることは食費を節約するという面で経済的には合理的だが、多数の人はそれを道徳的に悪いことだと判断する。鳥の生肉で自慰を行なった後、それを洗浄してディナーにすることも、不道徳的だと判断されるだろう。シコれて美味しく食べれて、まさに一石二鳥なのに、人はそれを嫌がる。それは文化のルールに反するからだろう。

人間の異常行動を抑制するために、これまでルールは発展してきた。更に言えば、文化・集団を保つためにはルールが不可欠である。集団の安寧を保つという、人間が進化の過程で獲得してきた能力がこれに関わっていると推測できる。結構この能力は厄介者で、集団間の諍いを誘ってしまうものでもある。この能力のせいで右翼と左翼は結束を強めて争いあっているし、幸福の科学創価学会のような新興宗教と日本的宗教観の間には齟齬が生じ続けている。

『なんでも良い』という寛容な考えが不人気なのは、単に人間の本性に合ってないからなのだ。お茶碗にご飯粒が残っていても、食べようが食べまいがどちらでも良い。飼い犬の肉を食べようが食べまいがどちらでも良い。チキンでシコってもシコらなくてもどちらでも良い。そういった寛容性は普及しない。

異文化理解の単位が取れたとしても、異文化への寛容性が獲得できたかと聞かれればそうではないはずだ。女性が排泄の後、服を着替えずに料理することを罪とする文化(インド文化など)と分かり合えるようになるには、想像を絶するような果てしない時間がかかるだろう。

 

 改めて、私ならゴキブリジュースを飲めるかどうか自問自答してみた。多分、飲めるだろうという結論に落ち着いた。

一人で考えているうちはこんな考えをしているのに、周囲にそれを批判されたなら簡単に考えを覆すだろうとも考えた。私が理性を引き締めてブリブリと答えをひねり出したところで、人間の集団にはかなわない。

近頃は、自分が人に対して抱いている感情でさえ集団からの影響を受けているのではないかとも疑うようになった。私たちは本当に自分の心で人を嫌っているのだろうか? 多かれ少なかれ、やはりこれも集団から影響を受けているのでは? 

その答えは、散々被験体にされてきたゴキブリジュースのみぞ知るところである。