きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

日記:批評家の銅像は建たない

2/17 雨 

 久しぶりの雨である。こういう日は読書をするに限る。

 

 動画を作り、ニコニコ動画に投稿すると、コメントという形で、自分の作品に対するいろいろな批評を見ることができる。

「シンプルだけど面白かった」、「面白かった+114514点」、「草」などのコメントを見かけると、とても嬉しく思う。

しかしながら、逆にこっぴどく酷評されることもある。「つまんね」、「この内容なら3分でまとめろ」、「投稿やめろ」などの言葉が寄せられることもあった。細やかな批判なら素直に反省できる。しかし、こういう類のコメントを見かけたときは、まず全裸になり、両手の親指と人差し指で乳首を限界まで引っ張りながら、舌を天頂に思いっきり突き出し、太ももでキンタマを揉みしだきながら奇声をあげつつ家の中を猛ダッシュするようにしている。

次こそは! という気持ちに切り替えることが何かを作る上では必要だ。そのためには奇行も辞さない。気持ちを切り替える手軽な奇行としては、やたらと長いカタカナ語を連呼するという方法がある。コンスタンティノープル!! コンスタンティノープル!!

 

 奇声をあげながら、批評するということについて考えた。芸人しかり、漫画しかり、何にでも批評家はいるもので、的確な指摘を飛ばしたり飛ばさなかったりしている。

でも、そのような優れた観察眼を持ち合わせている批評家が偉いかと言われると、そうではない。『進撃の巨人』の実写映画の脚本は有名な映画批評家が務めたらしいが、散々この映画は叩かれていた。失敗したのは明らかだろう。いつもは批評している人が、こっぴどく批評される側に回るというのも皮肉な話だ。

さらに、「クリエイターの像は建つが、批評家の像は建たない」という悲しい名言もある。言われてみれば確かにそうだ。銅像が立つほどの批評家というのを私は一人も知らない。

 

 それでも私たちは批評家になってしまう。コンテンツだけならまだしも、悲しいことに他者の人間関係や行動まで批評してしまうことが多々ある。そこからガラガラと日々の平穏が崩れることもあるだろう。

それでも、批評は進歩を生むので、なかなか無視するわけにはいかない。私個人に対する厳しい批評も、渋い顔をして受け入れようと思い始めている。暴言には奇声で対抗だ。

 

 最近まで、批評する側だった私が批評される側に回った結果、おちおち声高々に批評することができなくなった。もうPPAPがつまらないだの、ブリゾンちえみの面白さがわからないなんて言えないよ! こちらとしては「面白くないものをブームにすることができるか」という社会実験に巻き込まれている気分だ。

しかし、製作者ならではの利点もある。何度コメントでボロクソに言われても、私が諦めずに技術の向上に励むことができれば、もしかしたら銅像が建つかもしれない。

時は2100年、某駅の改札前。両手の親指と人差し指で乳首を限界まで引っ張りながら、舌を天頂に思いっきり突き出し、太ももでキンタマを揉みしだきながら奇声をあげつている全裸の男の銅像。彼は今日も、行き交う人々を温かい目で見守っている……。

狂気だ。