きんこんぶろぐ

大学生の私が日々思うことを綴っていくブログ

さようならボランティア

4/1 曇り 

 新年度の始まり。関学では理工学部などの入学式があったらしい。

ふと、去年の自分を思い出した。当時、入学式当日に焼肉やボーリングに行っている同級生をツイッターで発見して、非常に焦った記憶がある。しかし、今は普通に大学生活を送れている。入学式からスタートダッシュを決めなくても結局は何とかなるのだ。

新入生にアドバイスを一つするなら、「焦るな」というところだろうか。リア充は焦らなくてもそのうち友達ができるし、コミュ障は焦ってもボロが出るだけだ。流れに身を任せ大学生活を始めよう。きっとなんとかなる。多分。

 

 最近、意識高い系大学生のブログを読むのがマイブームになっている。いかにも「リアルを満喫しています!」といった記事ばかりで、読んでいるとだんだん腹が立ってくるのだが、その感覚がクセになる。

彼らのブログは、日頃私が考えている下劣な物事をドロドロと排泄しているこのブログ、もとい日記とは大違いである。見事に綺麗事ばかりが書き綴られている。「自分に与えられた時間は決まっている」という文面を見た時には思わず吐き気を催した。全く自分とは逆の意見だったからだ。

私は、これから毎日ランニングをしたりして健康に気をつければ、70年後の自分の遺骨を受肉させることができると考えている。要は、自分の行動次第でいくらでも未来は変わると考えている。私たちに時間を与えてくれているという『何か』を信じるくらいなら、私は人間の力を信じる

説明し難い不条理に、いつも人は理由を求めがちである。まあ、いくら頑張っても個人ではどうにもならないこともある。他人の行動なんかはその代表例だ。

やたらと、海外ボランティアに行きたがる大学生もいる。何が彼らを海外に向かわせるのかは分からない。きっとこの類の人たちには、特別な経験を大切にしていたり、人の痛みを自分の事のように感じてしまうような人が多いのだろう。私も緊急時には彼らを頼ることにしよう。

 

 もう一つ、ボランティアについて考えたことがある。

最近、心臓病になった幼児を助けるのに三億円が必要だ、とかいう募金活動が駅でよく行われている。風の噂によれば、幼児の容態が急変したのに、まだ三千万円しか集まっていないらしい。悲しいことだが、間に合わないだろう。

この件を通して私が考えるのは、日本人を助けるコストは高すぎるということである。三億円あればアフリカ人を何千人助けることができるのだろうか。三億円もあれば、飢餓や下痢、マラリアの苦しみから何千人も救うことができるのだ。日本人の赤子一人を助けるコストで、アフリカ人をその何千倍助けることができると考えると、なかなか複雑な心境になる。

これを踏まえると、大学生ボランティアがラオスカンボジアに行きたがるのも分からなくもない。東南アジアの人々はアフリカの人と同じぐらい低コストに救うことができる。より安く、やりがいを感じられるのだ。

 

 私は先月まで、不登校支援のボランティアをしていた。不登校支援は大阪府NPOが主体で行われていた。彼らの努力もあって、私がボランティアとして参加していた施設に通っていた子供達は皆、高校の進学先が決定した。

だが、これから先は分からない。不登校児が引きこもりになってしまう割合は高い。あとは、彼らの生き抜く力を信じるのみである。

少し前、施設の職員から「最悪、子供が生きてさえいればいいと考えている職員もいる」という話を聞いた。バイト風情が語るのもおこがましいが、それほどまでに不登校支援の現状は苛烈であるらしい。この時ほど、人を助ける大変さが伝わってきた瞬間はない。しかしながら、彼らに共感はしなかった。幸か不幸か、人の痛みをダイレクトに感じる能力を私は持ち合わせていなかった。私は臨床心理学の道に進むことを断念した。

 

 現在、難病の幼児はもちろん、不登校児一人助けるのにも多くのコストがかかっている。なぜそのような状況なのかというと、逆説的だが、ひとえに日本が経済的に豊かな国だからである。

この国では致命的な飢えに苦しんでいる人は滅多にいない。なので、飢えた人に国家が支援することはなくなる。その結果、お金ではどうにもならない問題(不登校認知症など)や国家が手を伸ばせない問題(個人の飢え・難病など)が目立つようになる。そこに民間の支援が集中するようになる。しかし、一丁前の国家でさえどうにもならない問題なので、民間にはかなり荷が重い。民間は未だこれらの難問を解決できずにいる。

このような状況に置かれた時、まだインフラさえ整っていない国家特有の『手軽な』問題に目をつける人が出てくる。『手軽な』問題は不登校の問題に比べれば非常にコストパフォーマンスが良い。人手とお金さえあればいくらでも解決できるのだから。結果、『手軽な』他国の問題にパワーが集中する。

決して海外ボランティアに行くことの善悪を論じているのではない。だが、少し、少しだけでも、意識が高い人たちには、この国が抱えるこれらの難問に目を向けて、できれば手助けをしてほしい。

カンボジアに学校を作るうちに、この国では施設不足で不登校支援もろくに行えない現実があることを、介護の現場がこれからさらに、これから深刻になっていくことを知ってほしい。

これらの難問を解くことができるのは経験だけではなく知識も必要となる。先進国で生まれ、一般的には賢い大学に通っている私たちだからこそ、能力を発揮できる領域があるのではないか。人助けの世界から去った私は、意識高い系の大学生にそう問いかけたい。

 

 「君にはもっと経験が必要だ」不登校支援最後の日に、職員から私に投げかけられた言葉だ。

一体何の経験なのかは分からなかった。もしかしたら子供ともっと自然に話すような経験かもしれないし、アフリカにボランティアに行く経験かもしれない。

でも、一番足りない経験は既に分かっている。恋愛経験だ。