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きんこんぶろぐ

大学生の私が日々思うことを綴っていくブログ

日記:プロ童貞

4/29 晴れ時々雷雨 

 大量の課題を尻目に、ナゲットの抽選に応募しまくった一日だった。お陰様で三年分のナゲット無料券を手に入れることができそうだ。このナゲットを利用して偉大になりたい。どうやって?

カメラを持って外出したり、スタバの新作を飲みに行ったりと、以前より生活にリア充感が増している。全て一人行動だが。藍色の日々。

 

 最近、童貞を極めている。ノリで復活させた童貞サークルが予想を超える好評っぷり(?)であり、童貞ネタにここまでの潜在的需要があったのかと驚いている。

普段は脳神経の悲鳴を聞きながら阿呆になって、童貞ネタを呟いているが、そもそも童貞がどういうものなのか私はよく知らない。

単に「性交渉を行ったことのない男」と定義づければそこまでだが、童貞という概念が一定のコンテンツになるということは、なかなか単純でない事情が隠されていそうだ。

それには童貞を知る童貞、プロ童貞になる必要がある。初心に戻って、童貞とは何なのか一度考え直してみたい。いや、初心に戻るも何も、最初から童貞なのだが。

 

 「童貞」という和語が誕生したのは19世紀のことであり、本来はカトリックの修道女を指す言葉だったらしい。さらに、聖母マリアの「処女懐胎」のことを「童貞女受胎」と読んでいたと聞く。童貞はどうやら、最初は聖なる雰囲気を醸し出す言葉であったらしい。まさにポジティヴイメージの塊である。

また、1925年出版の広辞林によると、童貞の意味は「婦人又は男子が幼児の純潔を保持し、未だ異性と交遊せざること」となっている。この頃までも、童貞は男女の区別が存在しない、どちらにも使用される言葉だったのである。処女 is 童貞(至言)

逆に時間を遡れば、かのユリウス・カエサルが記した「ガリア戦記」には、童貞を守ることは美徳であり、20歳までにそれを失うことは恥である、という記述がある。童貞は現代とは異なり、誇るべきステータスだったのだ。

だが、カエサル自身は非童貞である。ついでに、ブルータスも非童貞である。ブルータス、お前もか。

 

 しかし、事態は一変する。戦後に『何か』がきっかけで、童貞を恥ずべきものとして見なす風潮が急激に強まっていったのだ。童貞の地位が凋落した原因は未だ不明である。忌々しき非童貞の策略だろうか。これは陰謀だ! 

かくして、長き童貞の栄光の歴史は終わりを告げた。

これまで見てきた通り、童貞という概念が誕生して以来、これは十分に使えるステータスであり、己の切り札にもなりうる存在だった。

ところが現在はどうだろう。高学歴・高身長・高給・高級車持ちというバケモノスペックの持ち主がいたとしても、これに童貞という要素がラベルとして付着した途端、この人物はショボくなる。これは童貞への「二十歳超えても童貞は、何かその人に問題があるんじゃないの?」という偏見の表れでもある。

ここに断言しよう。

童貞だからといって、その人が訳アリである可能性は、非童貞がそうである確率と同程度である。

悲しいことに童貞にもヤベエ奴はいるが、同じく非童貞にもヤベエ奴は存在するのだ。

 

 4日ほど前、我が関西学院大学にどのくらいの割合で童貞・処女がいるのかアンケートで調査したことがあった。

所詮Twitterなのであまり当てにならないが、アンケート結果は、驚くべきものであった。リア充が多いと思われがちな上ヶ原でも、童貞・処女が約6割を占めていたのだ。

これが事実だとすると、これまで我々は自分のことを棚に上げて「童貞はクソ」ラベルを互いにベタベタと貼り付けあっていたということになる。同胞同士で互いを下げ合っていたのだ。これほど悲しいことはない。

我ら哀れなサイレントマジョリティーに救いの手は差し伸べられるのだろうか。童貞女受胎をした聖母マリアも、この現状を天で嘆き悲しんでいることだろう。

 

 おまけ、三田は童貞・処女率とそうでない率がほぼ半々だった。おそらく僻地に閉じ込められた彼らは気が触れて、互いのケツの処女を奪い合っているので、このような割合になったのだろう。

街灯もない暗闇の中で、彼らはどのような禁忌的な営みを繰り広げているのだろうか。

三田の闇は深い。比喩的にも、物理的にも。