きんこんぶろぐ

大学生の私が日々思うことを綴っていくブログ

日記:ふたなりジャッカル

6/19 晴れ 

 本格的に、心理学や英語の勉強を開始した。自発的に勉強するというのは、やはり良い。充足感と疲労感がいい感じに退屈な日常にテイストを添えてくれる。しかしながら、人と違う勉強を継続するというのはそれなりに辛い。

 「耳をすませば」の雫のお父さんの言葉に「人と違う生き方は、それなりにしんどいぞ。何が起きても誰のせいにもできないからね」というのがある。

 全くその通りである。止めるつもりは、端から無いが。

 

 学術誌ばかり読んでいては、変な方向に尖りすぎて不味いことになると思い、自己啓発本に手を出した。「GRIT」という、それなりに売れている本を読んだ。

 成功者は、生まれ持っての才能というよりは、やり抜く力を兼ね備えているということを様々な事例から説明した本だった。

 「一年間以上、本気で何かに取り組めば成功者になれる」と書いてあったが、読書に本気を出してきた自分が成功も何もしていないので、タメにならなかった。

 自己啓発本なんてそんなもんである。迷っている人が背中を押されるために、自己啓発はあるのであって、一人でどこかに突っ走ってしまうような奴に啓発は必要ない。そろそろ、何らかの論文コンテストで入賞して報われたいものだ。

 

 必要のない知識が増えてきた。

 地球が約60億年経てば太陽に飲み込まれることや、時間は未来から過去に流れるものだ、といった知識はまだ良い。自分の世界観を変えるかもしれないし、超低確率で、その解決に関わるかもしれないからだ。本当に、その確率は低いが。

 だが、ジャッカルはメスに偽物のチンコが付いていることや、人には乳首が実は4つあることは、いつ使えばいいのだろうか? 

 俺はジャッカルのメスがふたなりだという事実だけで、ご飯が3杯食べられるようなケモナー兼変態でもないし、人の第3、第4の乳首をいじくりまわす趣味も持ちわせていない。これまでも、おそらくこれからも全く使わない知識だろう。

 これらの無駄知識が私の脳みそを着実に侵食しつつある。しかも、この無駄知識は有効活用が死ぬほど難しい。人の乳首の話を語学のクラスで披露したら、残酷なほど微妙な空気になってしまった。生き恥。

 さらに、無駄知識は覚えているのに、人の顔は覚えられない。そんな馬鹿馬鹿しい事態に見舞われている。人に興味がないのか、無駄知識に興味があるのか。悲しいことに、そのどちらも私は当てはまっている。

 新しい人に出会うよりも、一つの使い所のない知識を優先する。そんな人間にいつしかなってしまっていた。真っ当に生きたい。

 

 この期に及んで、教養を身につけることの意味を考えた。

 リベラルアーツを読者に勧める本では、「教養を身につけることが、この先の厳しく、予測不可能な時代を生きていくことに役立つ」と申し合わせたように述べられている。

 私はまっっったく、そう思わない。生きることはいうほど厳しくないし、教養を得て『全ての事象は予測不可能だ』ということを知り得たからだ。

 教養は物事を予測するために身につけるのではない。あらゆる物事が予測不可能だと知るために、教養を活用するのだと考えるようになった。

 考えてみれば、太陽が地球を飲み込むかどうかなど、まだまだわからない。人類が生きてきた時間はあまりにも短すぎて、まるでデータが足りないのだ。予測は仮説である。時間が未来から過去へと流れるのはメタファーであって、実際は時間なんて、ただの物質変化の指標にしかならないのかもしれない。しかし、これも断言はできない。

 既存の知識に、別分野の知識や、磨き上げた鑑識眼を持って挑みをかける。それこそ教養を身につけることの醍醐味だと思う。別分野の知識を統合し、この世の不確実性を実感できれば、そこには誰も知り得ない未知の世界が広がっている。

 深海や宇宙、人の頭の中に潜む神秘に、未だ人類はたどり着けていない。飛行機が飛ぶ原理も不明なままだし、天気予報が外れることも多々ある。

 ここに、教養を得ることの楽しさ、さらに言えば、この世界に生きている楽しさもあるのだと思う。

 

 まだ見ぬ世界を探求するということは、まさに生物の歴史そのものである。

 海で生まれた生物は陸へ、空へ。そして遂に星を抜け出そうとしている。生活空間だけでもなく、生活のいたるところに、フロンティアは存在する。

 つい最近まで、人はテントウムシが羽を広げる仕組みさえ知り得なかった。この発見は、人工衛星のパネルへと応用されようとしている。

 一見、無駄知識に見えても、実は使える知識というのは、結構あるのかもしれない。そういったものを含めて楽しむのが教養なのだと思う。

 まずは、ジャッカルのメスの偽ちんぽを楽しむため、ケモナーになろう。