きんこんぶろぐ

大学生の私が日々思うことを綴っていくブログ

ぼくのなつやすみー祟殺し編ー:冷静に叱れ、感情的に褒めよ

8/30 曇りのち晴れ

 

 図書館へ通い続ける変化のない日々をしばし過ごしていたので、何か変なことをしようと思い、今日初めてビーツを買った。それを使って母親が作ってくれたボルシチは絶品だった。実に平穏な日だ。

 今年の夏休みは私の人生史上、一番に充実している。これまでが空虚に時間を過ごしすぎていたのだ。亡霊のような過去の夏休みの思い出よ、さらば。悪霊退散。

 

 最近、子供の問題について考えている。「9月1日は子供の自殺が多い」というツイートを見かけたからだ。

 ついで、子供の自殺者数と殺人事件の被害者数を比較してみたところ、去年になって子供の自殺が殺人を上回っていて驚いた。

 自殺理由の内訳は不明が60パーセント、進路の悩みといじめがその後に並んでいた。つまり、ほとんど自殺の理由がわかっていないということである。

 これだけの人数が自殺をしているということは、その何十・何百倍の人数の子供たちが、同様の理由で今も苦しんでいるのかもしれない。

 彼らの力になれるようなことが、私にもできればいいのだが……。いかんせん、行動に移すのが面倒臭い。ツイッターで探してみようか。

 子供の自殺というのは、社会からの殺人である。その容疑者は、教室という社会だったり、家族という社会だったりする。子供が多く自殺する社会に、あまり明るい未来は無いように思える。

 

 子供の自殺と関連して、最近気になっていることがある。それは、子供への大人の叱責である。

 水泳教室での体罰じみた映像が、毎日のようにタイムラインに流れてくるので、そのことが頭から離れないのだ。

 子供に水泳を教える立場の大人たちは、「子供に海の厳しさを知って欲しいから厳しくする」と、インタビューで息巻いていた。

 彼らはとても善意に溢れた、理想に燃える教育熱心な大人たちなのだろう。虫唾が走る

 映像に映し出されていた彼らの姿は、子供に向かって吠えているようにしか見えなかった。要は、彼らは子供たちを思うあまり、感情的に怒っていたのである。

 

 「怒る」と、「叱る」は全く違うものである。

 「怒る」は、遠目に見ても攻撃的なシグナルを発しているようにしか見えない、感情的な行動である。

 一方、「叱る」は、感情の高揚がなく、大人と子供の二者間の間でしかメッセージが交わされないものである。

 子供への教育には「叱る」を用いるべきで、怒鳴ったり暴力を働いたりする「怒る」は、あまり子供に用いるのに相応しくない。

 

 善意から生じる暴力は恐ろしい。

 それを行使する大人たちの目が爛々と輝いているのも、それを見て周囲の人間が「愛のムチ」だと賞賛することも。何より、ほとんどの人間がそれを素晴らしいことだと盲目的に考えていることも、何もかもに私は恐怖する。

 暴力を振るわれ、攻撃の矛先が向けられている子供への想像力の欠乏が、社会に蔓延している。こういう時に、私の感覚とコモンセンスとの隔絶を感じて、悲しくなるのだ。

 善意の暴力がどのような悲劇を生み出してきたかは語るまでもなく、歴史に各自が学べばすぐに分かることだ。

 

 体罰がかつて存在した桜宮高校の職員室には、問題発覚後に「冷静に叱れ、感情的に褒めよ」という標語が掲げられた。彼らは気づくのが遅すぎた。

 決して、同じ過ちを繰り返してはならない。