きんこんぶろぐ

大学生の私が日々思うことを綴っていくブログ

幸せについて本気出して考えてみたら

9/5 曇り

 

 皆さんこんにちは、金こんにゃくです。

 今日のブログは日記ではありません。それは今日が語ることのない素晴らしい1日だったからではなく、あるブログに目を通したことがきっかけです。

 

www.nasnem.xyz

tenkiasitahare.hatenablog.com

 

 これらのブログ、特に後者では「個人的な合理性とは、その個人にとっての幸せになる行為をすること」と語られています。だから、個人的に合理的であれば、人を殺しても構わない、という論法になるわけです。

 

 ここで私が違和感を感じたのは「個人にとっての幸せ」の部分です。

 例えば、ある一人の快楽殺人者、ソシオパスがいたとします。彼が人を殺すことは果たして「個人にとっての幸せ」でしょうか?

 快楽殺人者にとっては、人を殺す行為は「気分を良くする合理的な理由」となるわけです。しかしこの場合、彼が人を殺して感じることは単なる「幸せ」ではなく「快楽」です。快楽殺人者はいても、幸福殺人者はいません。

 こうして考えると、「幸せ」と「快楽」の間には微妙な差異があることがわかります。

 

 皆さんが「幸せ」だと感じるのはどのようなときでしょうか。

 それは家族と団欒のひと時を過ごしている時かもしれませんし、試験に合格した時かもしれません。お酒を飲んでいる時かもしれませんし、スロットでジャックポットになった時かもしれません。

 試しに辞書を引いてみると、「幸せ」には「心が満ち足りていること、また、そのさま」とあります。

 

 これだけでは言葉足らずのような気がするので、「三大幸福論」と呼ばれている本の著者であるヒルティ、アラン、ラッセの、ほれぞれの幸福の定義を見ていきましょう。

 

 まず、ヒルティは「神のそば近くあることが、永続的な幸福を約束する」とする宗教的幸福論を展開しています。

 続けて、ヒルティは刹那的な快を求める状態に陥らず、かといって禁欲的にもならない、バランスのとれた精神の状態を保つことが幸福にとって重要だとも述べています。

 

 対して、アランは「健全な身体によって心の平静を得ること。すべての不運やつまらぬ物事に対して、 上機嫌にふるまうこと。また、社会的礼節を重視すること」を幸せになる条件だと記しています。

 さらに、幸福は持続的なもの、快楽は刹那的なものだとも言っています。

 

 最後の一人、ラッセルは「己の関心を外部に向け、活動的に生きること」を幸せの秘訣としています。

 

 これら3人の哲学者の言葉は、いずれも正しいと思います。

 この3人に共通して言えることは、幸福になるためには、心身のバランスをとり、行動することが必要だと主張していることでしょう。

 

 次に、「快楽」を辞書で引いてみると「心地よく楽しいこと。官能的な欲望の満足によって生じる、快い感情」とあります。

 先ほどの「幸せ」の記述と比較してみると、充足している、という状態は同じでも、それが『楽しいか』ということは、文章として「幸せ」の方には書かれていません。

 こうしてみると、確かに「幸せ」には『楽しいかどうか』が条件として存在していないということがわかります。個人の感情によらず、充足感によって幸福は存在するということです。

 アランのいう通り、「幸せ」はムード的な、長持ちする反応だということです。

 一方、「快楽」は長持ちしない、刹那的な情動だということがわかります。この点が、「幸せ」と「快楽」の対照的な特徴の一つです。

 

 そしてもう一つ、「幸せ」と「快楽」には対照的な特徴があります。

 それは、「幸せ」か「快楽」を求める行為によって、そのもの自体以外に何かを得ているかどうかということです。

 

 家族の団欒を例に挙げると、家族内の絆、冷たく言い換えると、家族内の人間関係の良好化が「幸せ」を感じる際に付属的に得られています。

 試験に合格し、その後数日間充足感に浸れたなら、それは「幸せ」と「その試験に合格した結果と、それに付帯する利益」を得ているということです。

 

 反対に、「快楽」には付帯するものが存在しないか、逆に何かを失ってしまうこともあります。

 スロットでジャックポットを当て、充足を感じたとしても、そこまでにそれ以上の金銭を費やし、失っているならそれは「快楽」ということができるでしょう。

 

 「幸せ」と「快楽」は状況や程度によって移り変わる事もあります。

 飲酒を例に出します。

 個人の場合、飲酒は快を感じるとともに、実質的に何もそれ以外に得ることのない行為です。この状態では、飲酒は「快楽」を求める行いだと言えます。

 これが大人数になり、それが互いの人間関係を良好化するものであれば、飲酒は一転して「幸せ」な行為になるでしょう。

 でも、その集団での飲酒が過剰になり、体調に変調をきたすものになったり、飲酒をきっかけとして暴力・強姦にまで発展すれば、それは「快楽」を求める行為になるでしょう。

 

 以上より、「幸せ」であることには

 

1.感情に関わらず、一度の行為によって充足感が比較的長持ちする。

2.そのもの以外にも、付帯的に利益を得ている。

 

のどちらかが必要であり、「快楽」に満たされている状態は

 

1.楽しさが生じ、一度の行為では充足感が短期間にしか得ることができない。

2.そのもの以外に何も得ていないか、むしろ損失さえしている。

 

のどちらかが必要になります。

 

 さて、私の定義からすると、殺人という行為は合理的にはなり得ません。

 殺人が快を感じるものであったとしても、人命を損じ、充足感が長持ちしないのであれば、それは「快楽」のための行為であり、合理的であるとはとても言えません。

 例外的に合理的な殺人があるとするならば、『「快」を感じ、充足感が長持ちし、個人や社会にとっても得るものがある』もののみです。

 それが達成されるのは、事件の被害者となった遺族にとっての、殺人犯の死刑のみでしょう。

 

 人間が一人一人、自分の「幸せ」を追求して生きているのなら、人間は合理的な生き物になり得たでしょう。

 しかし、現実に人間は非合理的な生き物です。「幸せ」だけでなく、時に「快楽」も追求します。

 そのことについて善悪を語ることはできません。善悪の尺度は個人によってバラバラだからです。これも、人間が非合理的な存在であるがために起こることです。

 

 私自身は、人間が非合理的であることは善いことだと考えています。

 「幸せ」にしろ「快楽」にしろ、どちらも相互的に結びつき、人間の生活を豊かにしてきたものです。

 善悪の判断が個人でバラバラであることも、価値観の多様性を生み出し、同一の価値観では絶対に思いつかないアイデアを生み出すことに繋がります。

 もちろん、価値観の相違による諍いも起こるでしょう。しかし、人類の進歩は、自分たち自身が非合理であることのおかげで続いてきました。

 

 人類全体の目的を定義することはできません。個人の目的がバラバラで、非合理的だからです。でも、各個人にとっての善悪や「幸せ」、そして、目的を定義することはできます。それは、その個人にしか為し得ないことです。

 

 以上が本日のブログの内容です。今日のブログは(普段もですが)個人的な意見なので参考程度に留めてほしいところです。このブログも、非合理的な人間の一意見に過ぎないのですから。

 この問題については、みなさんの意見もお聞きしたいので是非ともコメントよろしくお願いします。