きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

激動っぽい時代

9/21 晴れ

 

 久々に、ツイッターで知り合った人と話をした。

 話したことは多かったが、自分の頭の中で知識の体系化が未だに進んでいないことに気が付いた。まだまだ勉強不足である。

 この世の勉強するべき物事が多すぎる。不老不死でもまだ時間が足りないくらいだ。

 それほど、人間は複雑な生き物だということである。だからこそ挑みがいがある。

 

 最近ハードボイルドなことをするのにハマっている。

 タバコも吸えないのに喫煙可のオシャレ喫茶店へ行ったり、ビリヤードをしたり、夕日を眺めながら黄昏たりするのがマイブームだ。

 ただ、私にダンディズムが足りないので、端から見ればただの寂しい人である。

 私の心中は満ち足りている。俺が満足なら他人の目なんかどうでもいいんだよぉ!

 

 夕日を眺めながら考えた。今流行っているソシャゲも、いつかはビリヤードなどと同じハードボイルドなものへと変わってしまうのだろうか? 

 何となく、ダンディなおじさんがラブライブをしている様を思い浮かべた。あまりにも絵にならなさすぎる。

 でも、大昔の大学生がハマっていた娯楽が、現在ではオシャレなものと受け止められているのだし、可能性は無きにしも非ずである。

 回る回るよ時代は回る。CDやブルーレイディスクも、今のレコードと同じ扱いになってしまうのかもしれない。

 

 現在は「激動の時代」だとよく言われる。

 その言説の根拠は、インターネットの誕生だったり、グローバリズムだったりする。

 社会にも、「何となく『激動の時代だ』と言っときゃいいや」みたいな風潮が漂っている。

 しかし、過去を見てみると、今よりも「激動の時代」など腐る程あることがわかる。

 世界大戦はもちろん、戦後だって学生運動カルト教団、学校内や街の路地裏で暴力の嵐が吹き荒れる、文字どおり「世紀末」の世界が続いていた。

 それに比べると、災害は仕方ないにしても、2010年代は比較的平和な時期だと思う。

 学生は二次元コンテンツに入り浸り、路地裏は換気扇が所狭しと詰められ、MDやフロッピーディスクは過去の産物と化した。

 Lineがメールに代わり、SNSで誰もが常時繋がることができ、女子高校生は画面上でコアラになったり犬になったりする。

 戦争時には技術が、平和な時期には文化が発達するというが、最近はどちらも融合したような進歩の仕方をしているように見える。

 ともかく、人は荒れ狂う最新技術の波を上手く乗りこなしてきた。

 そのおかげで、それほど激動に揺さぶられることなく、それなりに平穏に生活している。

 現在を本当に「激動の時代」だと感知しているのは、一部の知識人のみだろう。

 何より、自分たちの生み出した技術のせいで、自身が震えているのだから、なかなかに滑稽なものだ。武者震いか何かかな?

 

 誰もが、自分たちの生きている時代を「激動の時代」と思いたがる。

 これは至極当たり前のことで、これだけ世界に人が溢れているのだから、何か事件やイベントの起きない日の方が少ないに決まっているのだ。

 だが、そのおかげで私たちは退屈せずに済んでいる。

 同じ日を繰り返したり、何も事件の起こらない日々が続いたりすれば、たちまち私たちは退屈になってしまうだろう。

 それに、誰もが「この時代は平穏だ……」と言い出す時代の方が気持ち悪い気がする。

 退屈せずに済むこの時代に、感謝=感謝である。