きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

2012年恐怖症

9/28 晴れ

 

 新学期が始まって一週間が経った。

 退屈していた夏休みとは違い、それなりに有意義に過ごせている。

 夏休みは本当に、自分以外人類の存在しないどこかの惑星のコロニーで知識を貪っている気分だった。

 新学期からは、いかにも「人間」している気がする。

 夏休みの間に、思考回路は相当こじれてしまったが、徐々に修正していきたい。

 

 私は幼いころ、2012年が怖かった。

 そのきっかけは、小学生の頃に「2012年に地球が滅亡するよ。そういうマヤ文明の予言があるよ」というテレビ番組を観たことだった。

 当時は、予言を心の底から信じるような純粋な少年だった私は、毎日布団の中で小さく震えながら日々を過ごした。

 2012年が怖すぎて、デジタル時計の20:12という時刻を見ることすら避けていた。数学の問題を解いていて2012なんていう答えが出ようものなら、そのたび頭が沸騰しそうになった。

 何が一体そんなに恐ろしかったのかというと、2012年に全てが滅亡するという理不尽、そしてその「よく分からなさ」が、私にとって、とても恐ろしかった。

 マヤ文明について調べてみても、暦が正確だったということ、建築技術が優れていたことしか分からなかった。それが余計に私の恐怖心を煽った。

 こんなにマヤ文明の技術が優れていたなら、予言は当たってしまうのではないか? 

 そんな疑念に、背筋が凍る思いをしたものだ。

 

 そうこうしているうちにも時間は経ち、2012年が訪れた。私が中学二年生の時のことである。

 2012年は私にとって、地獄だった。

 死刑宣告をされた囚人の気分で毎日を過ごした。学校ではできるだけ2012年のことを考えないように、ひたすら「とある」シリーズの学園都市に自分が迷い込む妄想をして時間を潰した。

 

 マヤ暦によると、12月22日に地球が滅びるらしい。この日をひたすら、ひたすら来ないように願ったものだが、無情にも12月が、続けて22日も来てしまった。

 

 その日、私はコタツに入ってテレビを観ていた。緊急事態にいち早く備えるためだ。

 テレビを死んだ目で眺めながら、ひたすら時が経つのを待つ。待った、ただ地球が滅びる時を。

 だが、現実はある一人の少年の盲信をたやすく打ち砕く程度には無常であった。

 ご存知の通り、何も起きなかったのだ。

 次の日、ミヤネ屋では宮根誠司が「いやー何も起きなかったですね」と笑顔を見せていた。

 私は唖然とした。

 テレビによって、数年間にわたるドッキリを仕掛けられたようなものだ。

 そこには視聴者も、ネタあかしの芸能人も、ギャランティーも存在しない。ひとりぼっちのドッキリ大作戦である。

 私の数年間ぶんの恐怖心に、無力感に意味はなかったのか。

 クリスマスを目前として、私の心中は安堵感と怒りが煮えたぎる闇鍋と化していた。

 番組はそのうちCMに移り、ケンタッキーの宣伝がリビングに虚しく響いた。

 

 私は転んでも、タダでは起きない男だ。

 全身擦過傷並みのダメージを受けながら数年間転がり尽くしたこの件でも、わずかながらの教訓を得て、静かに私は起き上がった。

 それは、「分からないことを分からないままにしておかない」ということである。

 確かに、分からないことは恐怖を生む。

 だから、人はこれまでこれらの神秘を解明するのに多大な尾金と時間を費やしてきた。

 私はとうの昔に滅びたマヤ文明より、現在の叡智を持つ人々を信頼した方が良かったのだ。

 思い返せば、その時代の学者は誰もこの予言に注目していなかった。

 こんな当たり前のことに気づくのに、貴重な少年の日々の大部分を費やしてしまった。大損である。

 今はそのツケを払うため、知識の収集に努めている最中である。

 2012年に対する恐怖のおかげで、私は知識を持つことの大切さを知り得た。そのおけげで、分からないことはすぐに調べるという癖が身についた。

 恐怖を感じるものに対しては積極的に知ろうと試みよう。マジで。

 

 今、2012年の予言は形を変えて、人々に、特に純粋な少年少女に恐怖を植え付けている。

 コンピュータが人間の知性を超えると言われている「シンギュラリティ」も、現代の予言と言っていいだろう。これも、よく分からないものだから恐ろしい、というタイプのものだ。

 だが、よくよく考えてみると、「知性」とは一体何なのだろうか。

 知性を計算能力とするなら、コンピュータはとっくに人間を超えているし、何かを製造するということについても、コンピュータが人間より優勢である。

 分からないことは、知るために調べなければならない。

 知ろうとするうちに、恐怖心はどこかへと去ってしまうだろう。こういった予言はたいてい、いい加減だからだ。

 私のように恐怖に震える子供が現れないように、正しい知識を小学生にも簡単に手に入るようにする。それが私のささやかな野望でもある。

 分からないことに翻弄される人々に勇気を与えたい。それが私の2012年に対する、雀の涙ほどの仕返しだ。