きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

「いじめ」を考える

10/4 晴れ

 

 10月が始まり、日記はサボり、満月は登り、時は流れる。

 ノーベル賞の季節だが、まるで今回は心理学と関連した話題が出てこない。強いていうなら「体内時計」だろうか。

 ノーベル賞にも心理学の部門を創設してほしい。数学とは違い、ノーベルは心理学に対する怨念がないはずだ。そろそろ心理学にも、れっきとした科学の光を当ててやってほしい。

 もし今の状況で、心理学でノーベル賞を獲るなら、「心の理論」や「ミラーミューロン」くらいだろうか。

 ロジャーズが平和賞を貰いかけた「エンカウンターグループ」が成功すれば、平和賞も獲得できるかもしれない。もしくは自らの文筆で「夜と霧」のようなものを完成させて、文学賞を狙うかである。

 ノーベル賞は毎年数人しか選ばれない非常に狭い門だ。固執するのは良くないだろう。

 でも、やっぱりノーベル賞を獲得して周囲からチヤホヤされたいのだ。

 

 大学に入学してから、『いじめ』の経験者に何人か会った。

 私が中学生だった頃にも、何人かいじめられっ子がいたので、いじめの経験者に会うこと自体は珍しいことではないだろう。

 彼らを助けようという気は当時の私には毛頭無かったが、なんとなくいじめっ子が気に入らなかったので、学校裏サイトを創設して、彼らのグループを疑心暗鬼に陥れ、貶めようとしたことがあった。

 結果、彼らに胸ぐらを掴まれたり、殴り合いの喧嘩になったりしたのはまた別の話だ。

 現在は、私が彼らよりも社会的地位も知能もバイタリティも性格も金銭的な羽振りも、全て上位に立つことができているので、非常に気分がいい。

 低学歴ヤンキーは死ぬまで地元を愛して、将来が報われない子供を育て、子孫代々ブルーカラーとして細々と生きていくがよい。そう、心の中でほくそ笑んでいる。

 昔の私はクソガキで狂犬だった。改めて、そう思う。それは今も変わらないのかもしれない。

 

 いじめの問題は、昔から異論されているのにもかかわらず、全く解決していない。環境問題の方がまだ幾分はマシである。

 いじめが原因の自殺というのは、未だに多い。

 事故や病気を差し置いて、学校での問題は中学生の死因の第一位となっている。

 そろそろ、本気でいじめの問題を解決しなければならない。

 子供への曖昧な呼びかけは、明日にも自分を殺すであろう子供には届いていないのだ。

 

 いじめに対する教育学からのアプローチは散々これまで行われてきたので、今日は比較行動学の視点から、いじめという問題を眺めていきたい。

 ヒトに一番近い動物であるチンパンジーや、その他のサルには、人間と同様のいじめの行動が見受けられる。

 人間の場合もサルの場合も、いじめの原因は個体間のトラブルである。特に、人間の場合は、いじめの被害者となる個体が気づかない些細な出来事がいじめの原因となり得る。

 

 サルのいじめは、個体間の諍いを解決するための手段の一つに過ぎない。

 食料の豊かな地域に住んでいる「ボノボ」と呼ばれるチンパンジーの仲間は、争う理由が非常に少ないので、いじめ行動を起こさない。争いが起こっても、個体間の毛づくろいや性行為ですぐに仲直りしてしまう。

 一方、食料の少ない地域に住んでいるチンパンジーは、同じ集団の子供を大人が殺したり、いじめといった暴力的な行動がよく見られる。

 他のオスの子供を殺したり、集団内の下位オスを上位オスが虐げたりした方が、限られた資源の元では、上位オスが集団内で自分の遺伝子を残せる可能性が高まるからだ。

 資源が豊富なボノボでは、争うよりも協調的な行動が、資源が乏しいチンパンジーでは、攻撃的な行動が適応行動となる。こうして、それぞれの形質が子孫へと引き継がれていくのだ。

 以上の法則を教室の中に当てはめると、上位オス、つまりいじめっ子を排除すれば、いじめは起こらなくなる。

 実際に、サルの上位オスが火事で死に絶えた集団では、温厚な個体が残り、その後一切攻撃的な行動が見られなくなったという研究もあるくらいだ。

 あとはいじめっ子の家庭が豊かになるだけである。これで資源の問題もバッチリだ。はい解決!!!

 

 

 言うまでもなく、そんな簡単にこの法則を適応できるわけがない。

 いじめっ子をガス室送りにすることは不可能であり、ヤンキーの家庭が貧乏スパイラルから抜け出すことも容易ではない。

 何より、人間はただのサルではない。少なくともチンパンジーより複雑なサルである

 人間のいじめは攻め、受けの関係が頻繁にひっくり返るということが知られている。これはサルのいじめに見られない特徴だ。社会性が極端に発達した人間ならではの特性だろう。

 そもそも、チンパンジーのいじめ行動が遺伝に関するものだとしても、人間のいじめもそうだとは限らない。いじめっ子への社会的影響を加味する必要がある。

 いじめの問題は、教育学のみならず心理学、比較行動学、政治学など、様々な学問からのアプローチがなければ解決しないだろう。どうりで、現在もなおいじめが消滅していないわけだ。

 

 26世紀青年という、アメリカのB級映画がある。

 富裕層は数少ない子供を大切に育てるが、貧困層は子供を多く産む。その結果、26世紀にはアメリカはバカで溢れてしまった、という内容だ。

 まさしく馬鹿げた話だが、決して笑い飛ばしてはならない薄ら寒さを、この映画からは感じる。

 貧富の差と、それによって起こる問題というのは、現に私たちが直面している脅威だからだ。

 いじめも、貧富の差と大いに関係のある問題である。

 私立校の方が公立校よりいじめが少ないというのは、周知の事実である。

 子供の命を守るには、ブルーカラーのヤンキーたちにも協力してもらう他ない。

 だがそれも困難だろう。

 私を含め大人には、格差に対する優越感、自業自得だという信念が深く根付いているのだから。

 共産主義国家にでもなれば、少しはいじめもマシになるのかもしれない。いじめより多くのものを失うだろうが。