きんこんぶろぐ

大学生の私が日々思うことを綴っていくブログ

牌は投げられた

11/16 晴れ

 

 編入試験に落ちたり、動画制作を再開したり、銀シャリの漫才を見にいったり、地味に多忙な日々が続く。

 最近、自分の大学生活の意義が失われつつあるように思う。

 自分の将来像の理想と、それに進むことのできない現実の自分の乖離が著しい。

 とりあえず、体力の衰えを感じたので、これから一限のない日に朝からランニングをしようと思う。

 体力の衰えは好奇心の衰えである。昔のように、1日に10冊の本を読むのが難しくなってきた。

 何はともあれ、生きている以上は前に進むしかない。

 

 近頃、自分の可能性が閉ざされていく感覚に襲われている。

 編入試験に失敗したことが原因ではない。この程度の挫折は何度でも経験している。高校受験、大学受験とこれまでも私は第一志望に合格できた試しはなかった。

 それとは別に、自分の将来の可能性が縮んでいるような気がするのだ。

 その感覚は、勉強や読書をするほど己の内から湧き出てくる。

 

 結局は、知識をつけることは自分の将来の可能性を閉ざすことでしかないと、気づいてしまった。

 一般には、教養を身につけ多くの経験を得るほど、将来の可能性は広がるものだと考えられている。

 読書は他人の経験を疑似体験することができるものであり、教養が身につくということについては言わずもがなである。

 

 しかし、そうした社会の見解とは反対に、読書は自分の疑問を突き詰めていく行為でもある。

 つまり、読書を続けるということは、自分の考えをまとめ、自身の将来像を固定化することに繋がる。

 その将来像とは、読書では得ることのできなかったその先の知識を獲得するための研究職だったり、知識を実践に移すための起業だったりする。

 自分がライン工や会社の総合職になることなど、想像も出来なくなってしまう。

 少なくとも私は、読書によって「山月記」の李徴のようになってしまった。己の才能を盲信し突き進むしかない。その末路が獣であっても。野獣先輩。

 

 人生というものは麻雀に似ているなと、ふと思った。

 麻雀は最初はランダムに牌が並んでいる状態が手元にある。運が良ければ、役満を狙い高得点を獲得することもできる。

 しかし時間が経つごとに、様々な役を完成させることのできる可能性が閉ざされていく。

 麻雀はランダムであり、配られた状態が良ければ役を作ることは容易く、配られた瞬間から役が完成していることも稀にある。

 19歳という若造ながら、そう思った。

 そろそろ自分の人生も理想的な役に向けて組み立てていかなくてはならない。

 家庭、才能、身長、知能、容姿。誰もが、配られた牌から勝負を始めるしかないのだ。