12/31 曇り
2017年も今日で終わり。
一歩も家から出ない年末だった。来年から本気を出したい。
来年度は英語力の底上げを目指したい。
ついでに、論文をスラスラと読めるになりたい。
一年という区切りは、惑星の公転を基にした時間の区切りにすぎない。
無情に時間は過ぎ去るものだが、カントの言う通り自律によって人間は時間を統制することができる。
希望のゼミに入ることもできたし、十分に勉強をすることのできる環境は整っている。
私が何もできずに朽ち果てるか、何かを成すことができる変態となるかは、来年度の働きが大きく関わってくるだろう。
私はまだ若い。できることは、沢山ある。
来るべき成人式に備えて、小中学校の頃の卒業アルバムを眺めている。
「成人式には行かない」と去年のブログには書いたが、気が変わった。
20歳を目前に控え、ここらで愚かな自分の過去を清算しておくのも悪くない。
高校から大学へと、中学校までの私の性格は消え去ったも同然である。
しかし、成人式で出会う同級生たちは、私に対する昔のイメージのままで接してくるはずだ。
それにうまく対処するため、昔の自分がどのような者だったのかを卒業アルバムを見ることによって思い出そうとしているのだ。
中学校の頃の私は一体どこに行ってしまったのだろうか。
いや、どこにも行っていないはずだ。
確かに、子供の頃から脈々と続く『何か』が私の中にあるのだろう。
それは記憶だろうか、臓器だろうか、それとも遺伝子だろうか。
実際は、それらの他にも色々付け加え、混ぜ合わせたものを幼少期から受け継いできたのだろう。
人間は単なる遺伝子の運び手でも、ミーム・マシーンでもない。
卒業アルバムをめくっていると、自分が昔書いた作文を見つけた。
文章はほぼ箇条書きをつなげたものに近く、まるでやる気が感じられなかった。
内容はもちろん無い。最低限先生に与えられた文字数制限だけはクリアしようという心意気だけが伝わった。
ブログやレポートを書きまくっている今からは想像も出来ないが、小中学校の頃まで私は文章を書くことが大嫌いだった。
自分の書いた文章を誰かが読み、薄情な評価をされたり、軽蔑されるのでは、という恐れが常にあった。
実際、このブログを始めた動機の一つが「自分の主張を語る勇気を持つ」ことだった。
その結果、今年は地震のブログでの言説を巡っていくつかトラブルと遭遇したが、後悔はしていない。
公に自分の考えを主張することは、批判を受けることよりも価値がある。
好き勝手な文章をブログに書き込むようになってから、精神状態も非常に改善した。
言論の自由のありがたみを私はつくづく思い知った。
まあ、こんな文章を半分実名のような形でインターネットに書き込むことができるのは、学生のうちで最後だろうが。
そのうち完全に匿名に移行しなければ、とも思う。
卒業アルバムによく書き込まれがちな、将来の夢もアルバムに書き込まれてあった。
小学校ではサラリーマン、中学校では公務員だった。
今の私とは違い、超安定志向である。
今ではサラリーマンも、公務員も安定的な仕事と思うことができなくなってしまった。
今の私にとっては、どちらも場合によっては低給で休みが少なく、単調でやりがいの無い仕事だ。
最近、語学のテスト勉強だったり、とにかく単調な作業が嫌になってきた。
自分の頭を働かせ、何かに打ち込んでいる方が精神的には楽だ。
こうして見ると、本当に昔と現在の私はまるで違う。
思考回路からして違う。どこか昔の私は、謙虚で弱気だ。
私の傲慢は一体どこからやってきたのだろうか。
宇宙から来ていたら面白い(面白く無い)。
大晦日の今日に、母親に大学三年生になったらインターンシップをするように言われた。
両親は私が研究職志望であることは承知のはずだが、「社会を知った方がいい」と言われた。
絶対に嫌だ。社会のことなど知ったこっちゃない。
社会など、人間にも似つかぬ感情を失くした魑魅魍魎が跋扈する場所に決まっている。
そんなところに行って一体何を知れというのだろうか。
死ぬ物狂いでインターンシップを回避する予定である。
2018年、金こんにゃく氏の未来は暗い。
インターンシップによって来年ごろには、今年の私は小中学校の頃の私と同じように息絶えてしまうのだろうか。
社会を知って、謙虚になどなりたくない。
己の引きこもり精神と傲慢さを賭けた一年が、今まさに始まろうとしている。
今年は皆様ブログを読んでいただき、ありがとうございました。
それでは、良いお年を。