きんこんぶろぐ

大学生の私が日々思うことを綴っていくブログ

生命の価値

1/3 晴れのち曇り

 

 明けましておめでとうございます。

 

 正月は京都に旅行に行き、ステーキなどをたらふく食べたり、初詣に行ったり、なかなか充実した時間を過ごした。

 

 恋みくじという恋愛に特化したおみくじを八坂神社で引いたところ、末吉であった。凶一歩手前である。

 相手との共通点は「趣味」と書いてあった。幅が広すぎる。

 まぁ、そこに「EXILE」と書かれてあっても困るのだが。

 

 八坂神社は人で溢れかえっており、まともに賽銭を投げることすら難しかった。

 賽銭箱の前にいる人々の頭に大小様々の硬貨が打ち当たる。

 円、ドル、ユーロ。通貨の種類も様々だ。

 なかなかに面白いものが見れた。やはり、正月は退屈しない。

 

 私も、人の頭に当たることがないように手首にスナップを効かせて、奥の方へと五円玉を投げ込んだ。

 私はゆるい無宗教なので信仰心は無いのだが、一応願い事をしておこうと思った。

 「波風を立てることができ、人の心情を考えずに済む一年になりますように」と、本殿をぼんやりと眺めながら念じた。

 

 心理学を勉強する者が「人の気持ちを考えずに済むように」なんて願うことは、一見矛盾しているような気がする。

 でも、勉強で人の心を考えるのと、日常世界で人の心を考えることは、質的に異なっているのだ。

 後者の方が幾分煩わしい。

 相手の気持ちを考えなければならない状況にまで陥ることのない生活を送りたい。

 

 

 生きるということ自体に価値はあるのだろうか。

 正月早々、ここ数日はそういったことを考えている。

 

 例えば、「生きること」を物質であると捉えた場合、生きている主体、つまり生物が死んだ瞬間にその生物だったものからは、一体何が失わるのだろうか。

 

 生と死の瞬間を極限まで分割した時、そこに失われるものは何もない。

 生物だった物質自体の構成は、生と死の間では完全に同じだからだ。

 

 以上から、「生きること」は物質ではないということが結論づけられる。

 

 では、「生きること」とは何か。

 

 人生論はいろいろあると思うが、これを全く考慮せずこれに言及すると、「生きること」はつまり、状態である。

 

 有名なポール・ワイスの思考実験にヒヨコをミキサーにかける前とかけた後では何が失われるか、というものがある。

 ポール・ワイス自身はこの時、「生物学的組織」が失われると定義している。

 組織が部分に分解されることによって、「生きること」ができなくなる。

 そうポール・ワイスは考えたのだ。

 

 この考えは心理学のゲシュタルトという用語にも通ずる者がある。

 「全体は部分の総和に勝る」とはアリストテレスの言葉だが、ゲシュタルトの概念はこの言葉がよく表している。

 音符をでたらめに並べただけでは音楽にはならないが、同じ量の音符でもその構成によっては素晴らしいメロディになることがある。

 部分を適当にかき集めたものでは、うまく組織された全体より効力を発揮することが出来ないのだ。

 

 「生きること」は、生物の部分がちょうど良く合わさり、生物学的組織を構成した状態のことだと、私は考える。

 原子からタンパク質や水へ。それらが組み合わさり臓器や血管などへ。さらにそれらの部分が整合性の取れた形で並ぶことにより、ようやく一つの生物が完成する。

 部分が調和の取れた状態(表現が恣意的な気がするが)になることによって「生きること」ができるのだ。

 これは小蝿でも象でも、人間でも変わらない。

 

 

 では、私たちは生命の価値をどのようにして判断しているのだろうか。

 小蝿と人間では、命の重みが全く異なるのは自明のことである。

 しかし、生きているという状態、そのことに違いはない。

 

 宗教家なら「私たちは神に生かされているから、生命そのものの質が小蝿と人間では異なる」とでもいうのかもしれない。

 私は神を見たことがない。

 宇宙の中を隈なく探索したこともないし、宇宙の外にも出たことがないので、神の存在について言及することはできない。

 

 しかし、神が私たちを生かしているとは考えづらい。

 インフラが全て止められ、喉が渇いて瀕死の下宿生の家の水道代を、神が払ってくれたなんて話は聞いたことがない。

 神という存在が仮にいたのだとしても、私たちを生かしてやることができるほど、暇では無さそうである。

 神よりも、水道料金を払っている人の方が圧倒的に偉いのだ。

 人間視点では、の話だが。

 

 

 私たちが命の価値を計る際に用いる物差し。

 それは、「いかに共感できるか」ということだと思う。

 

 小蝿よりも魚に、魚よりも犬に、犬よりも人間に、人は共感することができる。

 

 人間に人間が共感できるのは当然だ。

 人間の共感性は他人と協調するという点において、これまで生存に有利に働いてきたのだから。

 

 犬の思考も、なんとなく人間サイドは読み取ることができるだろう。

 犬は人間の指差しや単純な言葉を理解する。

 最近の研究では、犬も感情を持つことが証明されている。

 これらの人間との共通点やその外見の可愛らしさから、犬は擬人化されることも多い。

 逆に、人間の性格が犬の性格(人間側のステレオタイプだが)に似ている、つまり好奇心旺盛で従順であるときは「犬系」と呼ばれることもある。

 犬は人間にとって共感できる相手であるということは確かだ。

 

 魚など、容姿や思考が読み取れない生物になってくると、単純に外見や大きさが人間に近いか、ということが焦点になってくる。

 小蝿をためらいなく叩き落とすことができることができる人でも、魚をさばくことに抵抗のある人はいるだろう。

 

 以上のように、いかに共感できるかどうかが、人間が生命の価値を計る際の尺度になっている。

 

 同じ人間であっても、白人にとっての黒人や、正義漢にとっての殺人犯は共感できない相手である。

 これらの場合、一方から見た相手の生命の価値は、同じ環境に属している人に比べ軽んじられる。

 

 共感が命の価値判断に用いられるという人間の特性は、プロパガンダなどにも利用されている。

 太平洋戦争時も、日本では連合国軍のことが骸骨を眺める西洋風の少女の写真と共に「鬼畜米英」として紹介されている。

 この広告は、日本人の西洋人に対する共感を削ぐことに貢献しただろう。

 もちろん、このようなプロパガンダは日本だけでなく世界中で有事の際に用いられている。

 

 以上のように、共感によって同種である人間に対しても、命の価値の主観的な量は変化するのだ。

 

 

 生命の価値は人間の主観的なものである。

 それに、各個人によって同じ対象に向けての価値の量も異なるだろう。

 実際の「生きること」が全生物に共通した状態に過ぎないのなら、たとえ人間の生命でも小蝿と生命の質は変わらないはずである。

 

 生命の価値は、人間が自分勝手に設定した尺度である。

 だが、自分勝手でもいいじゃないか、と私は思う。

 家族や友人の生命を重視することは美徳であるし、害虫を人間の生命と質が同じだからといって全く駆除しないのも、不利益を被るだけである。

 

 共感によって生命の価値を決定するという特性を持って私たちは生まれたのなら、論理によってそれを捻じ曲げるのではなく、それに従って幸福を目指していこう。

 リアリスト的な考えだとは思うが、それが利益を生むのではないだろうか。

 

 ここから先は倫理学の領域である。

 人間にとって何が良いか、何が悪いかは、結局のところ人間自身が決めていくしかない。

 

 

 新年早々、生命の価値について長々と述べた。

 とりあえず、2018年は他人の気持ちを考えずに済むような生活を送りたい、というのが新年の抱負である。

 

 人の気持ちを忖度するというのも、共感の産物なのだが……。