きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

四分の一の永遠

4/8 曇り

 

 大学二年生の春休み、最終日。

 四月になって私は三回生になったが、授業の開始までその実感が伴うことはなかった。

 明日からはまた、当たり前の日々が始まるのだろう。

 

 編入試験の失敗が私の気づかぬところで心身を蝕んでいたらしく、この春休みはずっと疲れていた。

 四月に入る頃からは回復し、様々なことにこれまで通り集中できるようになった。

 

 今年度はアルバイトやゼミなど、新しく始まることが多い。

 中だるみした人生が刺激的になることを期待して。

 20歳の私は一味違う。

 

 

 春休みは感情が摩耗していた。

 長期休暇に私はあまり人に会わない。

 バイトでもしていれば、この孤独はマシだったのだろうか。

 

 この数カ月で、「一人で延々と何かに打ち込み続けるのは無理がある」と思い知った。

 大学受験の時に浪人しなくて、本当に良かったと感じた。

 数ヶ月、たった一日数時間の孤独にすら、私は耐えることができなかった。

 

 

 何回もこのブログに書いていることだが、孤独は本当に辛い。

 焦燥、嫉妬、不安、憂鬱などの感情が私の中で喰らいあう。

 この春休みに、最後まで生き残ったのは虚無だった。

 私を埋めていた感情たちは生き絶え、心は冷たい洞穴になってしまった。

 

 こうして私は無気力な春休みを過ごした。

 

 この孤独をゆうに乗り越え、大学の籍を勝ち取った浪人生に尊敬の念を抱く。

 指定校推薦にしろ、浪人にしろ、これらを経た人たちは私には無いものを持っている。

 継続力、忍耐力がその例だ。

 継続して勉強できなかった私は指定校推薦の校内選考に落選し、継続力の無さによって編入試験に合格することができなかった。

 そして、この休みのうちに、明日へと向かう翼はすっかり萎えきってしまった。

 

 

 普段は何が自分を助けてくれるのかと言うと、悔しさである。

 自身のピンチの時、私は常に悔しさに頼ってきた。

 

 親は放任主義だし、恩師もいない。

 いざという時にそんな私を助けてくれたのは、傲慢さから沸き立つ無尽蔵の悔しさだった。

 自分をはみ出しものにした詰まらぬ義務教育の学校社会を恨み、模試で得点を急上昇させて嫌いな人間を嘲笑い、より高位の大学にいるまだ見ぬライバルを妬んだ。

 浅ましきプロレタリア精神というか、そういったものを私はエネルギー源にしてきた。

 

 だが、春休みの中盤には、何に対しても悔しさが全く湧かなかった。

 誰かの活躍にも、誰かの誹謗にも、何も感じなくなっていた。

 それは仏教でいう「悟り」なのかもしれないが、そんなものはクソ食らえだと思った。

 今でもそう思う。

 

 

 春休みはあまりにも長すぎた。

 その時間が私の悔しさその他諸々の感情を台無しにした。

 

 この休暇から私が得た教訓は、「休みに対する休みを得ること」である。

 旅に突然出てみたり、図書館で気持ちを奮い立たせて本を乱読してみたり、TOEFLを目指して英語の勉強をしてみたり。

 あえて忙しくすることで、私のメンタルは回復していった。

 

 今では、編入試験から立ち直って勉強を再び始めたり、音ゲーのスコアが負けたことで悔しい思いをし音ゲーの練習に励んだりと、必要なことやどうでもいいことにまで、悔しさを発揮することができている。

 こちらの方が、僅差で無気力より生産的だ。

 

 翼が萎えてしまったのなら、必死にそれを動かすだけだ。

 そうすればハチドリのように、少なくとも地に堕ちることはなくなる。

 そのぶん、甘い蜜を吸い続けなければならないが。

 自分の成功か人の不幸か。

 どちらでもいいのだと思う。

 

 

 ようやく、明日から授業開始である。

 三回生からは統計にパソコンのソフトを使ったり、ゼミが始まったりと、専門的な授業が増える。

 見るからに難しそうだが、そのぶん楽しみでもある。

 明日になるまで、あとは寝るだけだ。

 

 ここまでの三ヶ月間は本当に長かった。

 さらば、四分の一の永遠よ。

 私が忙しさに嫌気がさしたら、また会おう。