きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

ラーメンつけ麺、僕ザーメン

4/10 晴れ

 

 新学期が始まった。

 精神状態は良好。

 

 ゼミの女子はキラキラしていて、チキンハートの私はすっかり萎縮してしまった。

 まあ、何とかなるだろう。

 

 そろそろ「デキるやつ」とやらになってみたいが、その機会も素質も無い。

 チャンスが来るまで、日々鍛錬するしかないようだ。

 「こいついつも鍛錬してるな」と自分でも思う。

 使い所がなければ、いかなる技能も無用の長物に成り果てる。

 動画作りも音ゲーもオチンポも、全てが無用の長物(短物)である。

 

 

 自分が生物だという事実に、最近は一周回って感心している。

 知識として「人間は動物」ということはわかっているのだが、それを実感するのは難しい。

 

 心理学というのは言わば「人間の生物学」という側面もあって、科学者たちは多くの実験から人間の動物性を明らかにしてきた。

 そのような学問をやっていてなお、私は自身が一生物であるという実感が湧かない。

 

 私に限った話ではなく、人は少し自分たちの知覚・認知の特性を当たり前のものとしすぎているのかもしれない。

 言葉を発する過程や、私たち自身の意識さえ、未だ解明されていないのだ。

 よく分からないものを当たり前のものとしながら生きている。

 これって結構凄いことだと思う。

 

 「私たちは、『コウモリである』ということはどういうことか、理解することができない」という有名な話がある。

 実際のところ、私たちは人間であるということがどういうことかさえ、分かっていないのかもしれない。

 

 

 心のような、目に見えないもの以外にも、私たちはよく分からないものを伴って生活している。

 

 野郎共の場合、その代表例は「精子」である。

 一つ一つは小さすぎて見ることができないが、白いゼリー状のものとして、これを見たことがない男は特殊な例を除いてまずいないはずだ。

 

 精子といえば、私たちはまずおたまじゃくしのような形を思い浮かべる。

 遺伝情報の詰まった丸っこい先端に、糸状のものをくねらせ前進する。

 このような姿が、一般的な精子の姿である。

 この程度の知識なら、男女関わらず知られていることだろう。

 生命の原初として、精子卵子とともに保健の教科書などで説明されている。

 

 しかし、従来までのこの精子像は、最近になって覆ろうとしている。

 低温電子顕微鏡断層撮影法という長ったらしい名前の新技術によって、精子が初めて立体的に撮影できるようになったのだ。

 

 これにより、精子のしっぽの部分(これを鞭毛という)の先端に、左巻きのらせん構造が存在することが明らかになった。

 この発見は今年の二月のことである。

 

 AIがなんだのビックデータがなんだの言っている間に、私たちは己の金玉に潜んでいる者たちの形さえ知らずにいたのだ。

 精子の形が判明したことによって、不妊症の治療に応用できることが期待されている。

 一見フケツな精子に関する研究も、世の中の悩めるカップルに貢献することができるのだ。

 

 

 私たちの存在も、元を辿れば精子である。

 私は時々、自分が精子であった時のことを夢想する。

 

 もし「私」の受精がワンテンポ遅れて、違う「私」が生まれていたのなら、彼は今の「私」よりも上手くやれていたのだろうか、と。

 

 「最速で受精した精子が一番優秀」なんて俗説は、少し考えれば嘘とわかる。

 ほんの少しの偶然で、受精の順番は容易に変わりうる。

 「私」が受精の順番を譲った方が、「私」はより良い人生を送れたのかもしれない。

 だが、仮定は仮定である。

 結局存在するのは「私」だけだ。

 

 一回の射精に含まれる精子の数は一億から四億ほどである。

 ありえたかもしれない無数のパラレルワールドを思いながら、私は精子を無駄撃ちした、ザーメン(アーメン)。

 

 

 こんなことばかり調べているからか、精子の研究施設を設立するためのクラウドファンディングの要望がメールで届いた。

 私は500円ほど、寄付しておいた。

 彼らが無事研究所を設立し、精子の謎について寄与することを願っている。

 

 精子について知ることは、私たち自身の理解にも繋がるはずだ。

 精子無くして人間は愚か、全生命の繁栄はあり得なかった。

 

 精子を経由し万物は流転する。

 らせんの鞭毛は回り回って輪廻を描く。

 その延長線上に、私たちは確かに存在しているのだ。