きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

自分症スペクトラム

5/9 雨のち晴れ

 

 家を出る頃は雨が降っていたので、傘をさして学校へ向かった。

 大阪に着くと雨はもう止んで、西宮では空が晴れた。

 これが通学片道2時間の力である。

 

 起きている時間の結構な時間が通学時間に取られているという現状はかなりしんどい。

 この時間が私の狂気的な読書習慣の元になったのも確かだ。

 

 通学時間に論文が読みやすいように、タブレットの購入を検討している。

 予算を決めようとATMで残高を調べたら、四千円しか入っていなかった。

 焦ってもう一つの銀行口座も覗いてみた。七百円しかなかった。

 

 

 

 心理アセスメントの授業を受けていると、自分が自閉症スペクトラムではないかとヒヤヒヤする。

 

 いや、ほとんどの診断項目に自分は当て嵌まっていないし、むしろ国語の読解問題なんかは得意だったのだが。

 しかし、ところどころ自閉症スペクトラムの診断基準に心当たりのある項目が存在し、心中不安でならない。

 

 小学五年生の頃、壮年の女教師に「お前は空気が読めない」と言われ続けたことを思い出した。

 義務教育の時は本当に辛かった。

 周囲が見えない。

 他人の動きに興味がない。

 恋愛や結婚の良さを、言葉で説明することができない。

 この辺りの自分の性質は、自閉症スペクトラムにも当てはまるものである。

 自分は大丈夫ということは頭で分かっていても、なんだか落ち着かない。

 

 定型発達者の中でも、極めて自閉症スペクトラムに近いところに私はいるのではないか? 

 そう思えてくる。

 すると、誰からでもなく、「お前は異常だ」と後ろ指をさされているかのような気持ちになるのだ。

 

 

 どこまでを異常、どこまでを定型とするか、というのは臨床心理学を含め医学にとって切実な問題だった。

 

 医学では、病気に対する知見が確実に蓄積されてきたが、これは病気が目に見えるようになってきたということが大きいと思う。

 MRIといった検査機器の発展もこれに拍車をかけている。

 治療法は確立とともに、病気の分類も近年かなり進んでいる。

 

 これに対し、いわゆる『心の病気』はなかなか目に見えない。

 例えばうつ病は、本人が主観的に最近やる気が出ない、眠れないといった症状を判断することは可能だが、これを外見から判断するのは難しい。

 なので『心の病気』を可視化するために、質問紙やカウンセリングといったアセスメントが心療内科などでは行われる。

 

 ここで、異常と定型を分けるわけだが、この区分がなかなか難しい。

 DSM-4などでは、アセスメントによって得られた情報がどの診断基準に当てはまるかによって区分が行われてきた。

 これを病理的基準という。

 

 また、質問紙による検査でのクライエントの得点が±2標準偏差までを定型、これを超えると異常、という判断がなされてきた。

 つまり、人口の5%を異常とするのだ。

 これを統計的基準という。

 しかし、この統計的基準では、例えば日本には1000万人の予備軍がいるとされる糖尿病などを考えると、5%より多くの人が異常と判断されてしまう。

 

 そのため、統計的基準の他に、社会一般において大多数に支持されている価値観から定型・異常を区別する価値的基準、問題を抱える人が社会で主観的・客観的に適応できているかを判断する適応的基準といった判断基準が用いられる。

 

 これらの判断基準を考慮すると、病理的基準・適応的基準からすれば、私は定型ということになる。

 DSM-5の自閉症スペクトラムの診断基準を私は満たしていないし、社会から完全に孤立しているというわけではないからだ。

 

 反対に、価値的基準からすれば、私は定型とは言い難い。

 社会の大多数は私を異常と判断するだろうし、それに私も異論はない。

 統計的基準については、質問紙などをやってみないとわからない。

 

 これら四つの基準を総合的に見て、クライエントの定型・異常が臨床の場で判断される。

 私はギリ定型だろうか、わからない。

 

 

 臨床の場での、定型・異常の判断は本当に難しいと思う。

 極端な例だが、私の所属していたボランティア施設にいたカウンセラーは、ある同僚を自閉症スペクトラムっぽい」と公言していた。

 私はその同僚に一度会ったことがあるが、私が未熟なせいか、とてもそのようには見えなかった。

 この時、彼は定型・異常どちらになるのだろうか。

 

 定型と異常の境目が曖昧なのが自閉症スペクトラムの『スペクトラム』たる所以である。

 誰しも初対面の人には控えめな対応になる。

 さらに、勘違いから話が噛み合わなくなるという経験をしたことが無いという人はほとんどいないだろう。

 黒色はあっても、完全な白はどこにもない。

 ただ灰色の部分がどこまでも続いている。

 

 

 ツイッターで自分のことをADHDと名乗る人が増えた。

 

 彼らについて私は何も知らないので、知ったようなことは言えない。

 だが、ADHD傾向はあっても、完全にADHDという人は少ないと思う。

 ADHD自閉症スペクトラムと同じく、どこまでも灰色の平原なのだろう。

 

 そういった人たちにも、臨床心理学はどのように自分の特性と向き合っていけばいいのか、といった有用な知見を与えてくれる。

 自閉症スペクトラムADHDの人が生活しやすくなる仕組みは、彼らと同様に様々な個性を持つ定型の人たちの生活にも役立つのだ。

 

 

 人間誰しも個性を持つものであり、自らの個性によって自分が苦しんでいるのなら、それはどげんかせんといかんのだと思う。

 

 また、自分の個性は誰かの個性の延長線上にあるということを考えれば、人を見る目が変わってくるだろう。

 

 誰もが、灰色の広い平原で、自分を探して彷徨う存在である。

 架空の白を求めるより、黒い部分を見つめてそこに親愛を抱けたなら、世界は変わる。

 みんなスペクトラムの仲間たちだ。