6/2 晴れ
自分の身体まで溶け込んでしまいそうな青空。
いよいよ、夏本番といった感じである。
「本を読む、寝る」の繰り返しの夏には、今年で終止符を打ちたい。
だからといって、読書の代わりに何がしたいかと聞かれると、論文を読むかRの勉強をするか、そのくらいしか思いつかない。
果たして私の青春はどこに隠れてしまったのだろうか。
この間、ニキビがひどくなったので皮膚科に行ったら、医者に「ニキビが出ている間は、人間みな思春期」と言われた。
下手すりゃ、60歳間近までニキビはでき続けるらしい。
思春期ノットイコール青春、である。
それに、青春が60歳に来られても困る。
心は若いままでいられても、その年齢になるまで青春を満喫するほどの体力が残っている自信がない。
まだ若いうちに、青春を能動的に作っていこう。
というか、そもそも青春ってなんだよ。
昔から私は、人間の鼻という部位があまり好きではない。
自分の鼻がコンプレックスだ、ということはない。
ただ、鼻に集中して顔を眺めると、たちまちどんな美形の人でも、顔の造形が狂って見えてくるのだ。
堀北真希や大原櫻子の様な美女から、神木隆之介や松本潤の様な美男子まで、どんな顔の人間でも、鼻をじっと見ると醜い肉塊に見えてくる。
鼻に集中するたび、人の顔が食品売り場のオージービーフとそんなに変わらないもののように思うのだ。
この傾向は、人の顔を努めて見る様になった最近、さらに著しくなった。
梅田を歩いていて、ふとすれ違う人の顔を見ると、視点が鼻に向いた瞬間、人の顔のデッサンが狂いだす。
こうして、また私は下を向いてしまう。
地面のタイル模様を眺めながら、駅から駅へと急いで歩く。
なぜだか、「沙那の唄」というゲームを思い出した。
人が肉塊に見えるクトゥルフ系エロゲー、確かそんなゲームだった気がする。
鼻を見た瞬間に人の顔がゲシュタルト崩壊する。
この感覚は、多くの人には理解してもらえないだろう。
なんなら、鼻フェチの人なんかには激怒されるかもしれない。
「シュッとしていて、この素晴らしい形の鼻の良さがわからないなんて、なんてナンセンスな男なんだ!」と。
さすがに、このような過激派の鼻フェチはいないか。
巨乳フェチや、黒タイツフェチは数多くいれど、鼻フェチの人にはまだ会ったことがない。
鼻フェチの生活とはどのようなものだろうか。
芥川龍之介の「鼻」の、内供の鼻を治療する場面ばかり、読んでいるのだろうか。
想像がつかない。
鼻フェチ原理主義なんて連中がもし存在するなら、たちが悪すぎる。
さすがの私でも、それには引く。
なぜ私は鼻にそこまで嫌悪感を抱いているのだろうか、と思う。
「火の鳥」のような、手塚作品に出てくる登場人物に、何かトラウマでもあるのだろうか。
それとも、鼻の限りなく小さいアニメ絵の見過ぎか。
アニメ絵はなぜ、あそこまで鼻が強調されていないのだろうか。
アニメの中の美少女は、みな鼻が小さく描かれている。
現実世界での美少女にも、鼻はあるのに。
さりげなく、深い問いかけである。
有り余る時間を用いて鼻について考えていると、顔面の部位で鼻だけが、それほど生存に影響しないということに気がついた。
目や耳や口は言わずもがな、人が生きていくのに必須の器官である。
目が使えないなら視覚障害者、耳が使えないなら聴覚障害者になる。
口に至っては、食べ物を摂取できないとまず生きていけない上に、コミュニケーションも行えない。
どれもがなくてはならない器官である。
それに比べて鼻はどうだろうか。
食物の風味を感じ取るのに必要だが、それにしては他の器官に比べてwell-beingの色が強い。
呼吸も、別に口でもできることだ。
日常で自分の鼻から情報を得る場面を考えても、くさい・いい匂いを嗅ぎ分ける時しか思いつかない。
鼻が現代日本で生存に役に立つ場面といえば、ガスが漏れているときぐらいだろうか。
こうして考えると、鼻というのは現代において「快楽のための器官」として機能しているのではないか。
そんな器官をよりによって顔面の中心に、しかも大きく出っ張らせて付けている気色悪い生物がいる。
人間である。
絶え間なく、鼻で快・不快を仕分ける生物が私たちだと思うと、人間の見方が様々に変わってくる。
宇宙人がそんな生物を見つけたなら、反射的に滅ぼしにかかるにちがいない。
さらにいえば、リトルグレイに鼻はない。
鼻があっても不気味だし、鼻がなくても不気味だ。
一体何なんだ、この器官は。
このように鼻についてだらだら考えているうちに、鼻が一層余計に変なもののように感じられてきた。
鼻、鼻、鼻、鼻、と。
鼻への嫌悪感を無くすエクスポージャーはどうやら失敗したようだ。
これからもできるだけは鼻を意識しないよう、日常生活を送っていきたい。
もうみんなアニメ顔になってくれねえかなぁ。