きんこんぶろぐ

大学生の私が日々思うことを綴っていくブログ

なぜ知的障害者は坊主頭なのか

7/10 晴れ

 

 数日続いた雨が止んで、一気に猛暑になった。

 汗を垂らしながら登校する日々が始まる。

 

 特に今日の暑さは、地獄の業火を思い浮かばせるほどのものだった。

 3時間目に地獄を主題とした授業に潜りに行ったので、物々しい表現しか思いつかない。

 

 今年もまた、身体は灼熱の太陽に、精神は迫りくるテストに追いやられる日々が始まる。

 今学期はいくつか難しい教科があるので、いつも通りノー勉で単位ゲット、とはいかなさそうだ。

 

 

 知的障害者はなぜ坊主頭なのか。

 そのようなことをふと考えた。

 

 というのも、電車の中で久々に、知的障害を持つ方を見かけたからだ。

 彼もまた、坊主頭だった。

 

 私の通っていた高校の近くに障害者の支援センターがあったので、昔は多くの障害者の方を見かけたものだ。

 彼らにたびたび絡まれつつも、平静を貫き通して通学していた日々が懐かしい。

 

 彼らに対してどう接すればいいのか分からなかったので、制服のピンを弄られようが、耳元で絶叫されようが、ジッとしているしかなかった。

 

 今でも、彼らに対する接し方はわかっていない。

 目の前の知的障害者に、心の瞳を瞑ってしまう自分がどこかにいる。

 

 

 好奇心もとい開放性のパラメータが私は振り切っているので、知的障害者がなぜ坊主頭なのか、いろいろ調べてみた。

 

 日本語論文が見つからなかったので、英語論文で調べてみた。

 しかし、私の探した限りでは見つからなかった。

 なので、唯一見つかったyahoo知恵袋の文言をここに書き写す。

 

 どうやら、知的障害者が坊主頭である理由には散髪代がかからない、洗髪が楽、髪があると自傷行為の原因になる、といった理由があるらしい。

 その他にも、本人が嫌がらないから一番管理の簡単な坊主頭にしている、という意見もあった。

 

 知的障害、と一言で表しても、実際はダウン症や、かつては「カナー型自閉症」と呼ばれていた領域に位置している自閉症スペクトラムの方など、様態は多種多様である。

 知的障害かどうかというのは、病態にかかわらずIQによって決められる。

 

 彼ら全員が坊主頭ではないのは確かだが、男性によく坊主頭がみられるのは、そもそも知的障害を持つ人が男性に多いのと、自傷行為の影響が男性のほうが大きいからだろう。

 ジェンダー的な要因も絡んでいるのかもしれない。

 

 

 知的障害について語るときに一番困るのは、私たちが知的障害について見て見ぬふりをしているという事実と嫌が応でも直面しなければならないということだ。

 

 本当は、侮蔑や憐れみ無しに知的障害者について語ってもいいはずなのだ。

 彼らについて感情の揺れもなく語ることは、彼らが他者に承認されている、社会に居場所があるということと同義になるはずだ。

 

 しかし、それでも私たちは知的障害者について語ることを無意識的に拒みがちだ。

 電車内で日常的に接するはずの彼らに、出来るだけ触れないようにしている。そんな私たちがいる。

 

 知的障害者に坊主頭が多い、ということを考えた人は、少なくないはずだ。

 それでも、検索しても全くその情報が出てこないのは、知的障害者にまつわる事実を私たちが避けているからだろう。

 

 発達障害や、知的障害を持つ方への散髪サービスの充実は、かなり前から必要だと感じ取っている。

 全国的に見ても、類似のサービスは少なかった。

 

 

 そして、知的障害者について語る際に難しいことがもう一つある。

 それは、自分の書いた文章を読んだ人の視点を、いちいち気にしなければならない、ということだ。

 

 言うまでもなく、私は知的障害者に対する差別意識など考えることなく、この文章を書いている。

 

 だが、このようなことをいちいち注意書きしておかないといけない。

 そんな一種の強迫観念が、私にこびりついている。

 

 「お前は差別意識を自認していないだけだ」という非難を避けるためか。

 「そのようなことに興味を持つのが、差別をしている証拠だ」という誰かの感想に、先手を打っておきたいからか。

 それらが理由なのかもしれない。

 

 しかし、実際に知的障害者が坊主頭である理由を調べてみたら、至って合理的な意味がそこにはあった。

 この「合理的」の意味ですら、知的障害者視点なのか、彼らの庇護者視点なのか、明記しておかないといけない。

 そんな焦燥感がまとわりつく。

 

 しかし、彼らについての語りをやめることは、社会的な彼らを無視しようとする風潮に、自分も加担していることになるのではないか。

 そういったことも考えてしまう。

 

 私は未熟なので、知的障害者についていかに語るべきか、知らないし、分からない。

 これからも、分からないのだろう。

 いつでも語ることは難しい。

 

 といいつつも、もう2000文字程度も書いてしまっている。

 自己矛盾である。

 

 

 今日は知的障害者について書き綴った。

 

 ここに述べたことは、人種の問題やジェンダー、その他の社会のデリケートな部分を語るときに、それを語る人が毎回ぶち当たる問題なのかもしれない。

 

 これらのトピックには、学術的に語る以外に、ニュートラルに語る方法があるはずだ。

 「かわいそうだ」という憐憫でもなく、真に中立的に語る方法が。

 

 今回の文章で、誰かの心中に何かぞわぞわしたものを感じさせたなら、それは私の文章表現力の不足が原因である。

 

 せめて、このような話題について、何かを考える機会にこの記事がなったのなら、それだけでも幸いである。