きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

ブンブンハロー善意

7/16  晴れ

 

 地震、大雨ときて猛暑である。

 地元の枚方市は大阪で一番の暑さを記録した。

 ひたすらに暑い。

 

 かくいう私は、クーラーの効いた部屋で、一昨日家に届いたoculus riftを使ってVR三昧を満喫している。

 バーチャル世界の中で一時間ほど動くと、それだけで酔ってしまうので、少しずつ体を慣れさせている。

 

 名古屋までRの勉強会に赴いたり、これからテスト期間が始まったりと忙しいが、これを乗り越えれば殺人的に暇な夏休みがやってくる。

 

 バーチャル世界で外国人と話をするために、夏休みは英会話にも挑戦してみたい。

 なんやかんやで刺激的な夏休みが過ごせそうだ。

 

 

 大雨の被災地に対する募金で、HIKAKINが100万円を寄付しているのを見て、「偽善者」と言われている、という旨のツイートをよく見かける。

 実際に彼を糾弾している人は見たことがないので、多くはツイート主の妄想か、うわさ話に便乗しているだけなのかもしれない。

 

 それでも、彼が「偽善者」と呼ばれという話に対する人々の反応は凄まじいものがあって、過剰に神経質になっているようにも見える。

 これが正義感という、人間に潜んでいる狂気が為せる業か、と思う。

 

 

 純粋な善意というものが、私は怖い。

 

 これは、私が全く善行を行わない、という意味ではない。

 私は誰かに無償で勉強を教えることもあるし、募金をすることもあるし、落とし物を律義に警察などに届けたりする。

 

 しかし、それにも理由があって、大抵は退屈しのぎだったり、それらの善行を見た人の中で、私の評価が挙がってくれればいい、という暇潰しのおまけ程度の気持ちで、人に何かを施したりする。

 

 「純粋な善意から生じる向社会行動」を善行の定義とするのならば、私のこれらの行動は間違いなく偽善にすぎないだろう。

 

 

 では、HIKAKINの行動はどうだろうか。

 

 おそらく、彼への「偽善者」呼ばわりが本当にあったとするならば、彼の募金活動が売名行為と捉えられたことによるものだろう。

 この時、彼の行動は純粋な善意によるものではなくなり、善行ではなくなる。

 

 しかし、多くの人に、彼の行動は純粋な善行として見なされている。

 この差はいったい何なのだろうか。 

 

 私が思うに、これは個人の心中の、どの程度の行為を善とするかの物差しの違いによるものだろう。

 

 

 まず、間違いなく客観的で絶対的な善というものは存在しない。

 

 安っぽいアニメの敵キャラやらが言う通り、人間は地球にとっては病原菌かもしれないし、さらに言えば、個人の善行など宇宙からしてみれば塵以下でしかない。

 

 客観的で絶対的な善というものは一神教が幅を利かしていた時代ならば、認識上はありえたかもしれないが、それはまやかしであって実際には存在しないものだ。

 

 

 では、人間にとっての客観的な善はあり得るだろうか。

 

 これについては、現在でも多くの議論が存在する。

 有名どころでは、共同体にとって利益をもたらすことが善だとする、マイケル・サンデルらのコミュニタリアニズムといった考え方や、貧困といった苦悶する人々を富める人々が援助することは義務だとするピーター・シンガーらの応用倫理学といった考え方が代表的だろうか。

 

 HIKAKINの考え方はどちらの立場でも善行になる、ということになるだろう。

 

 だが、実際のところ、どこからどこまでを善とするか、といった物差しには個人の間で大きなばらつきがあり、一貫性に欠ける。

 

 HIKAKINが寄付しても何も言わなかった人が、禁断ボーイズだったりヒカルだったりが寄付を行うと目の色を変えて怨嗟の声をネットに響かせるかもしれない。

 もちろん、そこに一貫性はない。

 

 個人の特定の人物への印象によって、善の物差しは伸び縮みする。

 何を善とするのか、ということへの人の認識は、物差しというよりメジャーに例えたほうが適切なのかもしれない。

 

 

 とすると、安定した善は個人個人の認識上の存在でしかない、ということになる。

 

 誰もが好き勝手に何かについて善だ偽善だと評論する時代に突入しているのは確かで、善のカオス状態の中で私たちは生きているのかもしれない。

 

 HIKAKINに限らず、私たち自身の行動もまた、誰かにとっての善・偽善の査定を受けることになる。

 自分の利己性を積極的に主張してしまったので、このブログを書いた時点で、私の行動はすべて偽善になるだろう。

 

 それもまた面白そうだ。

 

 

 ここで、最初の「善意が怖い」という話に戻る。

 

 私が極端な利己主義者なだけかもしれないが、人に純粋な善意で施しをする人の気持ちが分からない。

 

 この恐怖は、単に「理解ができない」ということに起因する恐怖ではない。

 

 

 歴史を振り返れば、善意によって破滅の道を進んだ人間の数は膨大だということが直ぐにわかる。

 

 善意によって政治が行われ、善意によって相互の監視が始まり、善意によって全体主義が生まれ、善意によって多くの人が死んだ。

 

 甲南大学で行われているナチスの再現実験を例に出そう。

 

 この実験では、集団でリア充に対する不満を爆発させることによって、疑似的に全体主義を生み出している。

 学生の授業アンケートを見れば、サクラであるリア充のカップルをベンチから退散させたことについて、「すっきりした」という意見が多く見られたらしい。

 

 さらに、冷やかしに来た人たちへのコメントには「お前らが爆発しろ、と思った」といった意見もあった。

 まさしく、全体を乱すものに対する正義感であり、善意の暴走、といった感じがする。

 

 ドイツ人がそうだったように、日本人も善意という狂気を胸中に飼いならしている。

 これは全世界の人々全てに言えるだろうし、誰にだって言えることだろう。

 私だってそうかもしれない。

 

 しかし、誰もが狂気を持ち合わせている世界のほうが、私は退屈しないと思う。

 皆が打算的な世界など、ひたすらに疲れそうだ。

 

 

 善意という狂気が跋扈するこの世界で私たちができることは、この善意というほとんど自動的な心のメカニズムに、どう向き合うか考えることだろう。

 

 今回の大雨では、芸能人が誤って物資の届け先をTwitterで拡散したことにより、現地では行き場をなくした物資がコンビニの駐車場に積みあがったらしい。

 これも善意の暴走の一例である。

 

 人の善意を暴走させることは、経済を上向かせるよりも、オリンピックを成功させるよりも遥かに簡単である。

 どんな無能な政治家でも、善意の暴走だけはどのような形であれ引き起こすことができたことを忘れてはならない。

 

 そろそろ、善意の恐ろしさと向き合うべき時が来ている気がする。

 

 この記事が、誰かの退屈な夜を埋め合わせてくれることを祈る。