きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

神にでもなったつもりかい?

8/10 曇り

 

 お盆でバイトが休みになったので、バーチャル世界で快適に生活するための準備などをしている。

 その他にもStanの勉強や、ラップサークルのPV製作など、しなければならないことは山積みである。

 

 それなりに充実している夏休みを過ごしているが、時たまに「二十歳のお前は、平成最後にこのような夏休みでいいのか?」と自問自答してしまうことがある。

 俗世の青春のイメージが、頭の何処かにしつこくこびり付いている。

 

 メディアを通じて二十年間、「理想の青春像」を刷り込まれた私は、その幻影から逃れられずにいる。

 忙しくしているうちは、そのようなことも忘れられるのだが。

 いい加減、亡き青春の幻影からサヨナラしたいものだ。

 

 

 地元の蔦屋でぶらぶらしていたら、「コケリウム」というものが展示されていた。

 コケリウムとは、小さめの水槽のようなアクリルでできた容器に、コケを敷き流木などを配置し、自然を表現するもの、らしい。

 

 コケは瑞々しく青く輝き、自然と触れ合いたいという欲求をいかにも刺激するような姿かたちをしていた。

 

 ふと、値札を見てみると、とんでもない高値が付けられていた。

 コケなのに。

 完全に顧客をコケにしている。

 

 

 人間の、自然を閉じ込めたいという欲は深い。

 

 昔は博物学から始まり、現代のコケリウムにまで至る系譜が、それを物語っている。

 

 生活に用いるだけでなく、娯楽として、インテリアとして、私たちは自然を消費してきた。

 今では街路樹が植えられていない住宅街を見かけないことはないし、公園のない都市も見かけない。

 

 マクロ的に、どちらも自然が再現され、市民に所有されるという形で、多くの人々に自然が消費されている。

 水族館や動物園も、権利者は違えども、同じような例に当てはまるかもしれない。

 

 ミクロ的には、これまでアクアリウムや、観葉植物が個人によって所有され、消費されてきた。

 ペットにも、そういった側面があるのかもしれない。

 

 

 自然を所有することについて、「神にでもなったつもりかい?」なんて皮肉が脳裏に浮かんだ。

 

 実際は、自然を所有することに関して、是非は問えない。

 それをすること自体ナンセンスである。

 

 自然を所有するという人間の営みは既に社会から取り去ることが不可能であり、それを「普通」として生活していくしかない。

 現代において、コンクリートと鋼鉄のみでどこまでも「人工」で形成された街のほうが、どこか「不自然」である。

 

 私たちが「色」と共に何気なく生きているように、自然を所有している状態を通常として、これからも生活していくよりほかはない。

 

 

 人が自然を所有することについて、偉そうに上から目線で述べてきたが、私自身もかつては自然を所有することにハマっていた。

 

 幼少期、虫かごに落ち葉と腐葉土と、数匹のハサミムシを入れて、羊羹色の箱庭世界を作り上げたりよくしたものだ。

 

 虫たちは次々と餓死していったが、子供ゆえの残酷さからか、それとも元々道徳心が備わっていなかったのか、その箱庭に次々と虫を投入していった。

 

 虫たちにとって、そこは確かに生き地獄だった。

 もしくは、畜生道に堕ちた者たちへの救済だったのだろうか。

 

 少なくとも、もし地獄があるなら、私も多くの人たちと同じように、地獄に落ちるだろう。

 

 地獄では、きっと鬼たちも、自然を所有しているに違いない。

 

 私の地獄は薄暗く、鬼たちの生活の一部となった枯れ木や泥水がどこまでも続き、巨大なハサミムシが跋扈するようなところだろう。

 

 そこで、私はハサミムシに身体を齧られ、しばらくしたら再生するという責め苦を果てしなく受け続けるのである。

 

 さらには、「地獄ハサミムシの迷路学習」なんて論文を地獄心理学会に投稿して、リジェクトされたりするのも面白いかもしれない。

 

 

 西洋では神が死に、日本では自然が死んだのだろうか、ということをぽつりと考えた。

 

 絶対的なものが死ぬ時というのは、きっとそれらへの畏怖を人々が忘れた時なのだろう。

 

 災害により自然への畏怖はたびたび引き起こされるが、一年も経たぬうちに、記憶からその時のことが薄まってしまう。

 

 私はどんなに大きな災害でも、亡くなった被災者の名前を誰一人言うことができない。

 恥ずべきことだとは思うが、「被災者の名前を口に出せるようになるために、被災者の名前を覚える」ということは冒涜的だと思うので、未だに彼らの名を知らないままでいる。

 

 私のように、他人の痛みに鈍感な人間なら、畏怖を忘れることは猶更だろう。

 

 自然への畏怖を忘れ、自然を所有し消費する。

 気が付けば、そんな日常に再び逆戻りである。

 

 今年の夏は、まだ海にも山にも行っていない。

 自然に囲まれるという経験をすることなく、夏が終わりそうだ。

 

 自然への畏怖と、理想的青春を失いながら、私の平成は過ぎ去っていく。