きんこんぶろぐ

大学生の私が日々思うことを綴っていくブログ

私が学歴厨だったころ

10/7 晴れ

 

 淀屋橋のカフェでゆっくりコーヒーを飲みながら、この記事を書いている。

 自分の退屈を晴らすことができる何かを求めて、イナゴのようにコンテンツを食い荒らす毎日。

 

 最近、実験実習でラットに初めて触れた。

 実験動物とは言えども、優しく手を乗せると、生き物特有の弾力と温かさがあった。

 いかにも「命」という感じがした。

 

 ラットは他の人が抱く時に比べて明らかに激しく暴れ、私の腕に爪を食い込ませた。

 ついでに周囲にうんこをまき散らした、つらい。

 うんこを巻き散らしたいのはこっちの方だ。

 

 

 私は高校生の頃、学歴厨だった。

 理由は単純で、当時の私が今よりも悪質な、世間知らずのガキだったからである。

 

 これは自称進学校にありがちなことだが、入学当初の生徒はMARCHや関関同立以下の大学にはあまり努力をしないでも入学できると考えている。

 

 私も、60台後半から70ほどの偏差値の私立高校に通う、典型的な自称進学校の生徒であった。

 そういった環境が、私をより世間知らずの人間へと涵養していったのかもしれない。

 

 ともかく、他の人もそうであるように、私も簡単に学歴厨になってしまった。

 

 私は「大学 まとめ」と検索し、学歴にまつわるまとめサイトの巡回を日課とする、特にたちが悪い部類の学歴厨だった。

 高校1年生から高校三年生の夏まで、地方国立大学や関関同立をバカにする日々を過ごした。

 

 ちなみに、当時の私の成績はというと、定期テストはいつも学年最下位ラインであり、模試では国語以外の教科で頻繁に偏差値35を取ってくる落ちこぼれであった。

 それにもかかわらず、京都大学神戸大学農学部を第一志望としていた。

 

 理想が高く、自分より明らかに能力が上のモノをしらふで馬鹿にできるのは、批判者にありがちな特徴である。

 予備校をサボり、天満橋ジュンク堂で立ち読みしたり、マクドナルドでコーヒーをちびりちびりと口にしながらひたすら時間を潰していたのだから、成績が伸びないのは当然である。

 

 結局、極限まで追い詰められ、高校三年生の11月に文系に転じた時まで、私は先鋭化した学歴厨であり続けた。

 

 自分が馬鹿にしていた大学を志願するという現状、関関同立を再評価することによって、脆弱な自尊心を保とうとしていたのかもしれない。

 こうして、なんやかんやで私は関西学院大学に合格し、今に至る、という訳だ。

 

 

 大学に入学して読書などで自分の視野がある程度広くなると、学歴というものが何だか分からなくなってきた。

 様々な大学に在籍している人に、大学生になって出会ってきたが、彼らの間に能力差がほとんどないように思えるのだ。

 

 彼らに出会った場が大学主催のセミナーだったり、集中講義だったり、もともと学問へのモチベーションが高い人が集まる場であることも、さりげなく影響しているのかもしれない。

 どっちにしろ、旧帝大であろうと私立大学であろうと、勉強する人の能力が大体一緒なら、遊んでばかりいる人の能力もさして変わらないのだろう。

 

 かくいう私は、それほど能力的に優れているわけではないので、関学の恥晒しとしてこういった場に出席させていただいている。

 

 閑話休題

 

 学歴自体は自分が所属している大学名でしかなく、個人の能力を証明するものではないのに、なぜここまで信奉されているのだろうか。

 もしくは、なぜ昔の私は学歴を信奉していたのだろうか。

 

 極論で言えば、それは「わかりやすいから」である。

 

 特に旧帝大に合格するためには、尋常ではない努力が大抵は必要であり、それはそのまま真面目さのラベルになる。

 少なくとも、私のような自分の興味でしか動けないような社会不適合者の割合は低くなる。

 

 真面目さと能力の質を確保できるということ。

 これは非常に人材を求める側からすればわかりやすい。

 同時に、何かと人を区別したがる側からしても、学歴はわかりやすい基準になる。

 

 反対に、同じ高学歴でも、文系博士の就職率が低いのは「わかりづらい」からだろう。

 大学院というシステム自体がそれほど世間に膾炙していないので、アカデミアや専門職といった例外を除いて、博士号は使えるラベルにはならないかもしれない。

 

 

 こうしてみると、「学歴はツールなのでは」と思えてくる。

 実際、私は子供を相手にするとき、学歴をツールとして使用している。

 

 子供に勉強を教えるとき、不意に学歴を尋ねられることが偶にある。

 そういう時、子供に私の学歴を予想させ、最初に出た回答をその子供に対して名乗っている。

 多くの場合は「京大」と言われる。

 

 別にどんな大学名でも良いのだが、こちらから「関西学院大学でした」と名乗ることだけは避けたい。

 子供は関学を知らないからだ。

 子供の学歴観なんてそんなものである。

 

 それに、過去の私のように関関同立を馬鹿にしている子供と鉢合わせると、面倒なことになる。

 実際、家庭教師をやっている知人が自分の学歴を関学と明かして、それがきっかけで子供が言うことを聞いてくれない、なんていうケースがあったりする。

 

 このようなことは稀だと思うが、面倒ごとは出来るだけ避けたい。

 なので、私は子供が相手の時、京大生になったり、阪大生になったりする。

 

 

 学歴に限らず所属している会社など、これから先には更なるラベルが私たちを待ち受けていることだろう。

 

 良いラベルを持っているほど、それは私たちを「○○だから私はまだ大丈夫」といった具合に、程よく安心させてくれる。

 しかし、学歴でも何でも、良いラベルは人の中身をそれほど大きくは変えてくれない。

 ラベルにこだわることは、中身を着飾るどころか、むしろ私たちの本心だったり、そういったグロテスクなものを露にするだろう。

 

 とどのつまり、何を為すかが問題である。

 学歴厨だったころを反省して、自戒したい。