きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

金玉ねぎ

10/8 晴れ

 

 3年生の秋になって今更、大学生活で初めての全休を作った。

 なので、今日はのんびりできている。

 

 日記を書いたり動画を作ったり、こういったアウトプットに時間を割くことができるのは心地いい。

 インプットよりもアウトプットの方がやはり時間がかかってしまうものなので、こういう日に頭の中から思考やアイデアを出し切っておかないと、後々しんどいことになる。

 これに共感してくれる人も、多分いるのではないだろうか。

 いなかったら、それはそれで孤独であり、しんどい。

 

 

 私は、この日記という習慣をかれこれ4年間以上は続けている。

 このブログも、先月に無事2周年を迎えたところである。

 

 昔の記事を読み直してみると、日本語が無茶苦茶だったり、意味不明なことを書いていたりするので、ある意味面白い(それは今も変わっていない)。

 

 高校生の頃はメモ帳に日記をつけていた。

 その頃のメモ帳には、このブログよりもさらに支離滅裂なことが書かれていたりする。

 以下、引用する。

 

自慰をするためにチンコの皮をむいたら、中にさらに皮があった。その皮をむいても、さらに皮が現れる。そういったことを繰り返していると、ついに全ての皮をむき終え、亀頭があるべきところには何もなかった。それは私という人間を象徴しているようだった。

 

 この短文のタイトルは「たまねぎ」だった。

 皮しかなく中身はがらんどう、ということだろうか。

 

 完全に正気のボーダーラインを超えている。

 あぁーイケないボーダーライン。

 難易度自慰でも。

 

 

 それでも、完全にこの日記を馬鹿にすることはできない。

 何か文章を書いているときの私の精神状態は、これに似ているからだ。

 

 「バカげた過去の行為を冷静に見る自分」の外に、「その客観視から得た教訓を台無しにする自分」がおり、さらにその外に「教訓を台無しにした私を戒める自分」がいる。

 このような精神状態で、私は日記を書いている。

 

 現実世界の私の行為を眺める無数の眼差しが、メタ的にどこまでも連なっている。

 これをモノに例えるなら、マトリョーシカか、玉ねぎか、つづら箱だろうか。

 

 そういう眼差しの包皮で丁寧に梱包された日記を、さらに未来の自分が批評したりする。

 限界のない入れ子構造が「心」だと、何人かの認知科学者や哲学者が言っていたような気がするが、まさしくそういった状態にこの日記は近い。

 

 この散文を読んでいる皆さんも、同じような状態を実感したことがあるのではないだろうか。

 なかったなら、それはそれで孤独であり、しんどい(二回目)。

 

 

 ネトウヨ学校裏サイト管理人、学歴厨、淫夢動画投稿者や、底辺Vtuberなど、私はこれまで現代最悪の肩書を総なめにしてきた。

 私の日記にはその軌跡が刻まれている。

 熱狂と自省の記録がここにはある。

 

 これまでの日記の文章量を確かめたら、このブログだけでも単行本一冊を超えていた。

 塵くそうんこぶりぶり記事も積もれば山となる。

 有益かどうかはわからない。

 

 ともかく、私はこれからもピリリとメタ認知が効いた日記を書き綴っていこうと思う。

 

 インターネットの最深淵で、このブログがメンダコのように人々の癒しになることを願っている。