きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

推しなきオタクの挽歌

11/4 晴れ

 

 十一月にあるまじき暖かさ。

 この気温で、街がクリスマス用のリースなどで飾られているというのは、なかなか奇妙で面白い。

 

 クリスマスが来るのを嫌がるフリばかりして、これまで二十年生きてきたが、私は聖夜を一人きりで過ごしたことが実は数えるほどしかない。

 だいたいは家族が一緒にいるし、大学生になってからは、毎年のように有志を募って民族料理を食べに行っている。

 

 今年はどこの国の料理を食べようか。

 トルコ料理なんかが良いかもしれない。

 

 

 自分が推しのいないオタクだということに、じわじわと悩んでいる。

 

 実生活を過ごすにあたって、推しがいないことは別に支障をきたさない。

 だが、周りのオタクの多くが芸能人やキャラクターを推しにして生活しているのを見ると、なんだか侘しい気持ちになってくるのだ。

 

 自分のほかにも、推しなきオタクは数多くいると思うのだが、おそらくこちら側のオタクはマイノリティである。

 

 私は多趣味であると自認しているし、二次元コンテンツを嗜んだり、一部の分野についてはそれなりに深い知識を持つオタクなはずである。

 だが、推しがいない。

 

 「何をぐちぐち言っているんだコイツは」とお思いの方もいらっしゃるだろう。

 

 とどのつまり、推しはもちろん、『自分が全てをなげうってでも、尽くしたい何か』が存在しないということに、やるせなさを抱いているのだ。

 

 周りの人間が当たり前に持ち合わせている、この感情が欠落しているという現実は、私の自尊心の小さな疵となっている。

 

 

 推しを作ろう、と思ったことは何度かある。

 

 だが、すべての場合において、それは『好きなキャラクター』の範疇を超えなかった。

 

 この言いようもない感覚、あえて名付けるなら『空白感』に、これまで真綿で首を絞められるような思いを強いられてきた。

 

 この感情の延長線上には、彼女ができない焦燥感なんかもあるのかもしれない。

 

 なんだか、『オズの魔法使い』のブリキ男になった気分である。

 

 胴体までブリキでできたブリキ男は、がらんどうの胸を埋めるため、ドロシーらと一緒に旅に出る。

 

 「どうして、いつもうつむいて歩いているの?」というドロシーからの質問に、ブリキ男は「自分には心が無いから、気をつけないと、小さな虫をうっかり踏み潰してしまうかもしれない。温かい心を持つ人が、自然にできることが、自分にはできないから、気をつけないといけないんだ」と答える。

 

 私自身、人助けであったり、そういった善いはずの行動全てが空っぽに感じられる、ということがある。

 そこには、「善いことをしたな」という満足な余韻もない。

 

 ただ退屈な日常に、がむしゃらに何かを詰め込もうとしているのみである。

 推しができないもどかしさも、この空白感と繋がっている。

 

 他の人が当たり前にできることの真似事をする。

 それをただ繰り返す。

 そこに温かみはない。

 

 

 ブリキ男は物語の最後、オズの魔法使いにおがくずを詰めたハート型の袋を授かる。

 「あんたには心がある。無いと思い込んでいるだけだ」という言葉と共に。

 

 まがい物の心でも、魔法を信じるブリキ男にとっては救いとなったのだろう。

 

 もちろん、この世界に魔法はない。

 見せかけの夢や不思議があるのみである。

 

 けれども、世界は広い。

 私の空白を埋め合わせてくれる、何かがきっとこの世界にはある。

 

 そんな魔法を、私は信じている。

 

 広い世界に旅に出る。

 それが、私が推しに辿り着き、自身の心の温度を感じさせてくれる方法の一つだろう。

 

 要は、私はまだ無知だということだ。

 

 推しのいない、空白を抱えたオタクたちに心を寄せて、今日の日記はここまでにしよう。

 

 

 じつは『オズの魔法使い」には後日談があり、そこではブリキ男は依然、自分を「心の無い男」と評している。

 救いがない。

 

 オズの魔法使いはただの老いぼれた詐欺師なので、魔法がつかえるはずもないのだから当然である。

 さらに救いがない。