1/27 曇り
この間、大学院を目指している人が集まるサブゼミのようなものがあって、そこでプレゼンをする機会があった。
私以外の参加メンバーはみんな臨床心理学を専攻していたので、題材として私は『EFT』というものを紹介した。
EFTとは、エモーショナル・フリーダム・テクニックと言われる心理療法の一つである。
全身のツボのようなものをタップすることで刺激し、それが心理的な不具合を改善する――らしいのだが、エビデンスは乏しい。
この心理療法を取り上げ、EFTの効果を的確に検証するにはどのような方法論をとればよいか、といった問題を出題した。
それと同時に、EFTとは質は異なるが、やはりエビデンスがいくらかの研究者に疑われている精神分析を取り上げ、臨床場面で精神分析を用いるのに賛成か反対か、自分の意見を記述させる問題を出した。
EFTの効果の検証については簡単だ。
ランダム化比較試験といった手法を用いれば、プラシーボの影響を考慮して、ある程度は効果の有無について判断を下せるだろう。
そしておそらく、「EFTは臨床の手法として用いるに値しない」という認識に落ち着くだろう。
既に、数多くの研究がEFTの効果が怪しいものだと示している。
だが、精神分析を臨床の場で用いるか否か、といったことになると、話が変わってくる。
言わずもがな、これまでの時代と同様に、心理療法には大きな責任が伴う。
その治療の質の裏付けをするのが、公認心理師という国家資格であったり、臨床心理士という民間資格であったりする。
公認心理師や臨床心理士がもし、EFTを行っていたらどうだろうか。
間違いなく非難の声が上がるだろう。
では、精神分析はどうだろう。
というと、非常にグレーゾーンだ、わからない。
その道を究めていない私は明言を避けたい。
サブゼミでは意外にも、精神分析を臨床場面で用いることに賛成の人が多数派だった。
アイゼンクが1950年代に精神分析を批判したとき、精神分析は確かにプラシーボと同等にしか効果がなかったかもしれない。
だが、今はわからない。
精神分析にもれっきとした効果があるという統計的なデータもあるし、ユング心理学といった周辺領域も着実にエビデンスを積み上げている。
サブゼミの際、博士課程後期の先輩が「精神分析で行われていることは、実際は認知行動療法と同じかもしれない」と言っていた。
「クライエントが納得してどの心理療法を選ぶかが大事」とも。
まったく、その通りだと思う。
思うのだが、私はこの問題が、似た構造の様々な問題と地続きであることから、目を覆いきれない。
例えば、子宮頸がんのワクチン接種だ。
先進国の多くは子宮頸がんワクチンの接種率が高い。
これにより、子宮頸がんのリスクとなるHPVという原因ウイルスからの感染予防が見込まれている。
子宮頸がんは、HPVの感染がなければ発生率が劇的に減少する病気だ。
だが、日本はそうではない。
運動障害など、ワクチンの副作用とされる症状がメディアで喧伝され、子宮頸がんワクチンの接種率が急速に低下した。
接種率は現在、1%未満だという。
しかし、ワクチンによってそのような副作用が起こることは、多くの研究で否定されている。
HPVワクチンの差し控えが今後続いた場合、今後50年間で本来なら予防できるはずの子宮頸がん罹患者数は約10万人、死亡者数は2万人に上るとの推計も存在する。
大災害レベルだ。
世界保健機関による警告がつい最近再び行われていたし、ノーベル賞を獲得した本庶佑も、ストックホルムで子宮頸がんワクチンについての正しい報道がなされることを願っていた。
しかし、これらの活動は「自己決定」の一言ですべて無駄になってしまう。
「ワクチンを接種するかどうかは、本人の自由じゃないの?」という言葉一つで、あらゆるエビデンスも権威も、たちまち力を発揮することができなくなってしまう。
ガンに対する代替医療や、新宗教に入信しようとしている人、ネットで突然排外的な発言を繰り返すようになった人なんかにも、同じことが言えるかもしれない。
もしかしたら、EFTを受けようとしている人にも。
そんなことしても意味ないよ、もっといいやり方があるよ。
私が「正しい」と信じていることは、彼らの「正しさ」の前には全くの無意味だ。
「本人の自由だろ」で、ハイおしまい。
だから私は、こういうものに対して黙り込む。
黙り込むしかない。
岸政彦という社会学者の『断片的なものの社会学』という本に、こんな文章がある。
私たちは神ではない。私たちが手にしていると思っている正しさは、あくまでも、自分の立場からみた正しさである。(中略)こういうときに、断片的で主観的な正しさを振り回すことは、暴力だ。
私の視点は、エビデンスベースドや、認知行動療法が交流を極めている現代からのものでしかない。
現在、精神分析が受けている厳しい目線を、いつか認知行動療法が受けるかもしれない。
そういう意味では、エビデンスに基づいた意見であっても、それを「正しさ」として振り回すことは暴力なんじゃないか。
そんな気がしてくる。
私個人でも「正しさ」の問題には、納得のいく答えが得られていない。
多分、考え続けることが重要な類の問題なのだろう。
だから私は、足りない頭で考え続ける。
それぞれの「正しさ」を相対化して、対話することならできるんじゃないだろうか。
そのようなことを、ふと考えた。
クライエントが何となくで精神分析や認知行動療法を選ぶ前に、それぞれの立場の専門家ができることは多い。
それは、公認心理師や臨床心理士が社会に対し担う責任の一端であるし、そうでなければならないと思う。
『断片的なものの社会学』では、こういった「正しさ」について、「社会に意見を表明し、それが聞き届かれることを祈ることはできる」と書かれていた。
このブログは、所詮私の思考の掃き溜めでしかないが、それでもこの問題について、誰かが考えてくれることを祈っている。