きんこんぶろぐ

大学生の私が日々思うことを綴っていくブログ

受験戦争の非国民

3/3 曇りのち雨

 

 なんと、一か月も日記を書いていなかった。

 こんなに日記を書かなかったのは初めてのことだ。

 

 もちろん、記録していないだけで、某大学のポスター発表に赴いたり、卒論の実験を始めたり、様々なことがこの一か月の間にあった。

 日記を書いていなかったのは、ただ単に文章が己の内から湧き出ることがなかったからだ。

 

 三月になって暖かくなるにつれ、ようやく文章を綴る心の準備ができた。

 これからはもうちょっと、更新する頻度を上げたい。

 

 

 受験シーズンなので、自分の大学受験について語ろうと思う。

 

 最初に断っておけば、受験期のほとんどの期間において、私は受験に乗り気でない、言わば受験戦争の非国民的な存在だった。

 誇れるような成功体験も何もないので、この日記に回想録として受験期の思い出を記す。

 

 きわめて個人的な話ばかりなので、読む人の為になるようなことも無いと思うが、私と同じような失敗を避けることに役立てていただければ、幸いっちゃあ幸いである。

 むしろ、私と同じような失敗をする人が二度と出ないことを祈るばかりだ。

 

 

 私は、偏差値70ほどの私立の男子校出身である。

 

 このランク帯の私立高校がほとんどそうであるように、そこに属している生徒は大学受験を含むあらゆる競争を舐めに舐めたクソガキばかりだった。

 

 私自身もその例に漏れず、関関同立はノー便で、ちょっと勉強して神戸大学に行くかー」と、同級生と甘く汚い汁を舐め合っていた。

 

 中途半端な私立高校には、内申が低く、公立高校に落ちて私立高校に落ち着いた、というタイプの生徒が多い。

 要は、一般試験だけの一発屋である。

 

 高校に入学したとしても、彼らの多くは、中学時代までと同じく急に真面目になって勉強するはずがなかったのだ。

 残念ながら、私もそうだった。

 

 

 「あへー」と言いつつ、あっという間に高校三年生になった。

 

 「文系を見下したいから」という理由で理系を選択したものの、全体的に勉強にやる気がなかったので、成績は学年最下位クラスだった。

 実際、一度学年最下位になったことがある。

 

 模試の成績も、ベネッセ偏差値でオール35アンダーで、ありとあらゆる大学がE判定だった。

 そのような惨状なのにも関わらず、京大をはじめ、阪大・神大大阪市立大と、真に努力した者だけが辿り着ける大学群を志望校にしていた。

 

 流石の私も「これはまずいぞ」と感じ、周囲の人間に流されるように、河合塾に通い始めた。

 

 通い始めたのだが、身体が勉強を受け付けなかった。

 これまで、学校では短編小説を白紙のプリント裏に書きなぐったり、3DSをひっそりと持ち込んで、ずっとポケモンの厳選や孵化を行っているような生徒だった。

 

 そんな人間にとって、勉強はもはや消化可能なものではなかった。

 目や耳から入ってきた知識を、咀嚼もせずにそのまま尻穴から垂れ流す。

 そういう生活を春から夏まで送った。

 

 

 夏になっても、偏差値は35のままだった。

 ろくに勉強もせず、ライバルも強くなっているのだから当たり前だ。

 

 そこで、「1日10時間勉強!」という目標を立てた。

 一日のタイムスケジュールをこと細やかに決めて、机の前に張り出した。

 

 さらに、プリントを丸めて輪っかにして、「必勝」とネームペンで書いた粗雑なハチマキのようなものを作った。

 

 さあ、逆転劇だ! 

 

 

 無理だった。

 10時間机に座れたものの、テキストを見るのも苦痛で、そのうち9時間くらいは自らのせがれをいじるようになった。

 

 妄想に耽ることで、苦痛もなく時間だけが経っていった。

 淫靡なウラシマ効果だ。

 

 予備校には授業のときは律儀に通ったものの、そのうちサボるようになった。

 自習室でDeemoという音ゲーをして過ごしたり、東方の音楽を聴きながら、河川敷を当てもなくブラついた。

 

 親からは「浪人は許さない。高卒就職しろ」と脅されていたが、そんなことを気にも留めずに、ふわふわと季節を乗りこなしていった。

 

 

 気が付けば、10月になっていた。

 

 公募推薦の出願が始まるなど、いよいよ学校のクラスも受験ムードになっていった。

 

 「もう入試、面倒くさいな」と思いながら、関西学院大学理工学部から来ていた指定校推薦の枠に応募してみた。

 

 成績が低すぎて、落ちた。

 

 それもそのはず、英語表現の単位を2年の時に落としており、実質私は仮進級で3年生になったようなものだった。

 それに、模試やテストの成績は言わずもがな。

 

 風の噂によると、指定校の枠は部活を頑張っていた別の生徒にかっさられていったらしい。

 部活は、2年の夏に辞めていた。

 

 「あらゆる面で負けてるな。まあ、落ちるか」と、恨みなど感じることもなく、無感情に私は次の策を講じた。

 

 

 11月初め、私はあれほど馬鹿にしていた文系になることにした。

 

 予備校をサボってジュンク堂で立ち読みをしたり、学校の授業中も小説を読んでいたからか、現代文の成績だけは良かった。

 具体的に言うと、河合の記述模試で全国1000位台に潜り込むくらいには得意だった。

 

 現代文は勉強して新たに何かを暗記する必要がない。

 その特性が、ハチャメチャに私に味方してくれた。

 

 教師に文転したい旨を伝えると、もともと諦められていたのか、それとも一縷の希望を感じたのか、すぐにオッケーをしてくれた。

 

 ついで、近畿大学農学部公募推薦に出願した。

 

 受験教科は現代文と英語にした。

 そこに、もはや理系の色は微塵もなかった。

 

 公募試験までに残された時間は、もう1か月もなかった。

 

 はじめて、予備校へ真面目に勉強をしに行った。

 

 とにかく、近大の過去問を毎日2年分解き続けた。

 なりゆきで英単語を覚えていくにつれ、持ち前の現代文力で、無理やりにでも長文から意味を汲み取ることができるようになった。

 

 出願が締め切られ、倍率が公表された。

 8倍ほどだった。

 それでも、謎の自信をもって、過去問を解き続けた。

 

 公募試験当日、ゆっくりめに近大に向かい、試験の30分前に会場についた。

 私が一番到着の遅い受験者だったので、すぐに席を見つけることができた。

 

 試験は、気が抜けるほど簡単に感じた。

 

 

 12月の中旬に、公募試験の合格発表があった。

 

 合格していた。

 

 親は泣いて喜んだが、私はそこまで嬉しくはなかった。

 既に農学から興味が移りつつあったし、本番の問題を解いている最中から、かなりの手ごたえを感じていたからだ。

 

 次の日、学校に行くと、私以外に近大に合格している者はいなかった。

 これまで散々見下されていたので、下剋上ができたのに舞い上がってしまい、悔しがる彼らを尻目に「貴方達が大したことなかっただけですよ。オッホッホ……」と爆笑した。

 

 激情した近大落ちヤンキーに殴られた。

 私は机に突っ伏し、痛みに泣いた。

 

 

 その後も、第一志望を超難関校から関関同立の各心理学専攻に変更し、それなりの勉強を始めた。

 

 あれだけつまらなかった河合塾の授業も、意味が理解できるようになってくると、なかなか面白かった。

 「もう中学生」に似た英語の講師も、英文の意味を文脈から読み取ることを重視した教え方をしており、それが私の英語の解き方と抜群に相性が良かった。

 

 現代文はサクサクと演習をこなし、古典は文法をまったく覚えずに現代文力でゴリ押しし、英語は単語を覚えつつも、結局いつもの現代文力でゴリ押した。

 

 問題は社会科目だった。

 もともと地理を選択していたが、同志社大と関西大は地理が入試の教科に指定されていなかった。

 

 なので、独学で政治経済の勉強を始めた。

 

 はじめて、自分で勉強したいことを選び、勉強をした。

 理解がメキメキと進み、最高の気分だった。

 

 模試が帰ってくるにつれて、関関同立でA判定やB判定をたたき出すことも、結果が伴っているようで楽しかった。

 なにより、模試のたびに周囲の目が変わっていくことが、胸がすくようでたまらなかった。

 

 2月の本番まで、最高の流れに乗りつづけることができた。

 

 

 関関同立の入試の結果は、二勝二敗だった。

 関西学院大と関西大には合格し、同志社大立命館大は落ちた。

 

 同志社大は、政治経済の入試形式が大きく変わったことが痛手だった。

 立命館大は単純に倍率が高く、当時の学力では太刀打ちできなかった。

 

 こうして、今の大学に在籍するに至った。

 

 公募推薦の敵討ちができたことは嬉しかった。

 だが、受験に対する燃焼不足の部分もあり、それが大学での乱読、そして編入試験へと繋がっていく。

 

 ここから先は、この場では語り得ない。

 

 

 大学以降の私しか知らない人にとって、このような受験期の私は想像しづらいかもしれない。

 

 それでも、「興味のあることにしかやる気が湧かない」という本質は、なかなか一生を通じて変わっていないように思える。

 

 塾講のバイトをしているとき、この経験を活かして「全力になれる学問のある学部があるかどうかで大学を選べ」と生徒に言っているのだが、なかなか納得してもらえない。

 まあ、受験期の私に同じことを言っても、同様のことが起こっていただろう。

 

 

 私が今ここにいることは奇跡でしかない。

 

 もしも、文転していなかったら? 

 もしも、指定校推薦にむしろ通っていたら? 

 もしも、近大の公募に落ちていたら? 

 もしも、高卒就職していたら? 

 

 いくつかのパターンでは、本当に私はこの世にもういなかったと思う。

 

 「もしも」の反実思考をするのは自由だ。

 でも現実では、暗闇の地雷原をスキップで通り抜けて、私は今ここにいる。

 

 その事実だけで、私は十分である。

 

 ともあれ、次は大学院試験だ。

 

 過去の反省は明日の力。

 次の試験も、正々堂々勝負するのみである。