きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

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3/24 曇り時々晴れ


 3/11は誕生日だった。

 無事、21歳になった。

 抱負という抱負もないが、今年は色々と大切な年なので、院試や卒論を上手くこなしていきたい。

 


 最近は実験、バイト、勉強など、さまざまなことで忙しかった。

 

「日記を3月は出来るだけ書こう」と決めたのはいいものの、身体と頭がそれについてこない。

 いつもの意志薄弱である。

 

 バイトでシフトを見落としてしまったり、失言をすることが何度もあったり、21歳の初めから反省することが多い。

 完璧主義は自分を追い込むばかりなので良くない。

 それはそうなのだが、物事を深く捉えすぎないのも、私のポリシーに反する。

 

 適度に自らを省みて、漸進的改良主義者であり続けるほかない。

 それが本当に、難しいのだが。

 

 


 なんてことない日記を書く。

 

 就活シーズンなので、スーツを着て説明会に向かったり、エントリーシートを作っている最中の友人に遭遇するようになった。

 「何社選考に通った」だとか、「祈られた」など、そういう話も頻繁に聞く。

 

 「大学院志望者には縁のないことだ」と斜に構えるのも面白くないので、就活のシステムや色々な業界について、ここ数日は勉強している。

 本当は、そんなことしている暇はないのだが……。

 


 そうしているうちに、私は「人を理解すること」を重視しているのだと気づいた。

 感情の表出も受容も苦手なので、人を理解することで、これまでそこを補ってきたのではないか、と思うようになった。

 

 就活について勉強しているのも、同級生の多くが就活しているなかで、彼らを理解しようとする強迫的な観念に起因しているのではないか。

 

 
 人を理解することは、当然良いことづくめである。

 

 相手の好きなことも嫌なことも分かるというのは、なかなか面白い。

 人助けをするにしろ嫌がらせをするにしろ、最適な一手を打つことができる。

 

 日常において、私は偽悪的に振る舞っている(ことが多い)と自認しているので、そういうときに人を理解していると、どういう動きをすればいいかの有効な情報源になる。

 また、そんな振る舞いから離れて、本気で誰かの相談を聞いているときにも、私の最もクールな部分が相手の情報を整理して、いい感じに駆動してくれる。

 

 ここら辺の私の行動については、自己分析が足りないのか、自分自身もあまりわかっていない。

 就活ならすぐに祈られてしまうレベルで、私は私のことをわかっていない。

 他者を理解するのが好きなのに、自身への理解が進んでいないというのは、なかなか皮肉である。

 

 

 理解から得た情報を使って、人の相談に乗るのも基本的に好きだ。

 このクソッタレな世界のことを忘れられるから。

 

 誰かの人生の物語に触れることは、過度のニヒリズムから私を解き放ってくれる。

 私に相談することが、相手の手助けになっているかどうかは分からないが、とにかく私の役には立っている。

 モノクロの生活に色彩を与えてくれる。

 


 だが、理解はしんどいことでもある。

 

 まず、人を理解すること自体が、それなりに体力の使うことである。

 自分のタスクをなおざりにして、誰かの理解に時間を費やすこともこれまであった。

 

 その結果として、自分の言葉が誰かに届かず、路傍に転がることもざらにある。

 これは相当に辛い。

 

 それに、そもそも相手を理解したつもりで、誤解したままであることもあるだろう。

 人の地雷を踏み抜いてしまうことも、そこそこある。

 

 人を理解する作業は、同時に自分の無力さを思い知らされる作業でもある。

 


 しかし、そうするしか私には方法がないのだ。

 

 「お前は快と不快の感情しか持ち合わせていない」ということを、ある人から投げかけられたことがあった。

 この言葉は、今も私の脳裏に呪いのように刻み込まれている。

 

 怒ることも泣くことも苦手で、笑うことしか知らない私は、理解によってその欠如を埋め合わせようとしている。

 だが、それがなかなか上手くいかない。

 

 そろそろ、この空洞に注ぎ込む「何か」を探さないといけないのかもしれない。

 それを、21歳の目標にしようと思う。

 

 足りない系の私に充塞を。

 遥か幼少期に飛び立っていった感情たちに慰霊を。