きんこんぶろぐ

大学院生の私が日々思うことを綴っていくブログ

「意識高い系」は砕けない

 最近、「塚本廉」という人物が話題になっている。
 どうやら、意識高い系の学生の中で彼はカリスマ的存在として扱われていたらしい。

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 だが、「日立製作所から東大へ、さらにイスタンブール大学院に在籍し、多くの会社を経営」という彼の語っていた輝かしい来歴は、全て嘘だったという。
 塚本氏のツイッターアカウントを直接覗きに行くと、「本当は中卒、ニートであり、事業もこれ一つありません」と告白するツイートがあった。

 

 「本当は文京学院大学の卒業生であり、『中卒ニート』という極端な肩書きを再び手に入れることにより、再び息を吹き返そうとしている」なんて意見がツイッターで散見されるが、まあ、どうでもよい。


 彼と私の人生は今後とも交わることはないだろう。


 彼としても、私のような無名大学生と関わる動機もないだろう。

 

 


 この件に関してネットサーフィンに耽っていたら、こんな記事を見つけた。

 

 https://note.mu/noteobonai/n/n7f5b17a1c459?creator_urlname=noteobonai


 こちらの記事は、どうやら塚本氏と「ちょっとだけ」人生の道が交わった人によって書かれたもののようだ。


 簡単に要約すると、このnote記事の書き手は「意識高い系」のカリスマであった塚本氏へのFacebook上のコメントを挙げ、「意識高い系」が既存の社会へのカウンターを打とうとした結果、自身らにとって居心地の良い「でっかいムラ」を作ることしか成し得なかった現状を批判している。


 また、「意識高い系」の「アンチエリート主義の未遂」を滑稽であるとし、「東大卒、多くの会社を経営」といった経歴主義が、そのまま世俗の学歴主義信仰の延長線上にあることを指摘している。


 「塚本廉が嘘だったんじゃない、全部が嘘だったんだ」、書き手はこう締めくくっている。

 

 


 では、ここで批判されている「意識高い系」学生は、いかにして形成されてきたのか。


 「意識高い系」に関する数少ない書籍のうち、その中の一つである常見陽平著「『意識高い系』という病」(ベスト新書)では、「意識高い系」という語の起源に遡る試みが行われている。


 2000年半ば頃、「意識の高い学生」という表現が語義の通り「能力が高く、知識や経験が豊富な優秀である人材」として、就活市場で用いられるようになったという。


 そして、2008年のリーマンショックの折に新卒採用が大きく削られたことにより、ますますSNSなどで自らが「意識の高い学生」であることを喧伝するようになった。
 


 調べてみると、「意識高い系」という語がネガティブな意味を持つ語として使用されるようになったのは、2010年以後のことらしい。


 これは、先ほどのnoteの冒頭で書かれていた「意識高い系」界隈の興りとも、そのまま一致する時期である。


 その少し後の2012年には、朝井リョウ著「何者」(新潮社)で「意識高い系」の学生の姿が描かれるなど、ますますこの用語は本来の意味とは違った形で広まっていったことが伺える。

 


 
 「意識高い系」がネガティブに扱われるようになってから9年、「何者」の出版から7年が経った現在、「意識高い系」は消滅したのだろうか。


 答えは、もちろん「NO」である。


 冷たい目線や嘲笑が存在するのにもかかわらず、その現場に反して、「意識高い系」は現存し続けている。

 


 例えばSNS
 「意識高い系」界隈はもはや学生に留まらず、小学生から中年まで幅広い年代の人が所属するコミュニティとして拡大を続けている。
 今年にも、中学生が無計画にヒッチハイクアメリカを横断しようとした件で、炎上する事案が発生している。
 「旅をすることで多くの人に勇気を与えたい」など、彼の言動は確かに「意識高い系」の文脈に拠っている。

 


 例えば現実場面。
 企業の選考が解禁されてから一ヶ月以上が過ぎた今、数多くの「意識高い系」の話を友人との会話で耳にする。
 彼らはその輝かしい経歴を振りかざし、文学部の内向型人間たちを就活でバッタバッタとなぎ倒しているらしい。


 そう、「意識高い系」は、確かに就活ではメッポウ強いのだ。

 

 


 「意識高い系」界隈が今でも活発なのは、おそらく学生の側ではなく、企業(または社会)の側に要因がある。

 


 第一に、「意識高い系」は就活で有利になるという大きなメリットがある。


 もとより、企業の望む学生像として誕生した「意識高い系」が、就活市場において弱者になる訳がないのだ。
 そして、企業の求める学生像はリーマンショック当時とさほど大きくは変わっていない。


 むしろ、「自分で問題提起を行える人間」「社会問題に関心がある人間」など、求める人間像はますます「意識高い系」に有利になっているように見受けられる。

 


 第二に、「意識高い系」になることへの社会的な動機づけが継続されている。
 2015年に持続可能な開発目標(SDGs)が策定されたことを象徴として、「意識高い系」に代表的なボランティア活動がますます奨励されていった。


 また「ポスト・ヒューマン」「シンギュラリティ」概念に代表されるような、「確定された新時代」観が普及していったことにより、プログラミングという「地味目」なスキルが、「自分磨き」と繋がり、「意識高い系」でも流行していった。


 「意識高い系」への入り口が緩くなったことが、ますます「意識高い系」界隈の存続に寄与しているものと思われる。

 

 


 以上より、「意識高い系」界隈は今後当分消滅しないものと考えられる。


 まあ、私の妄想も多分に含まれているし、今後は何が起こるかわからない(これは彼らが好きな言葉の一つだ)ので、なんとも言えない。

 


 朝井リョウの「何者」では、ラストシーンで「意識高い系」をイタイものだと見下していた主人公に手痛いしっぺ返しが待っていた。


 自分は自分にしかなれない。
 だから、笑われても、冷笑されても、海外ボランティアをアピールし、説明会で名刺を配る。

 「意識高い系」の登場人物は、そう主人公を諭した。

 


 誰かを観察することだけで、私たちは「何者」かにはなれない。
 それは、批評家の銅像が建たないのと同じことだろう。

 


 自らの行いによって「何者」かに近づける以上、「意識高い系」は砕けない。
 
 果たして、塚本氏は、本当の経歴をさらけ出すことで、「何者」かになれるのだろうか。